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5. 梓、なんか色々とツライので……

梓、なんか色々とツライので…… ⑤

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 終業後、翔と由美が訪れたのは、会社近くのカフェレストランだった。
 普段は専らランチで来ることが多い店で、夕飯を食べたい由美のチョイスだ。
 係りに案内されるままレジカウンターの前を通り過ぎる。ホールに来ると直ぐバーカウンターがあり、数組のカップルが酒を楽しんでいた。

 テーブルの一卓一卓の間隔が広く取られ、観葉植物がいい具合に目隠しになっているから周囲が気にならない。
 由美はオードブルを数品を頼んだ後、翔の顔色を窺いながらシャンパンの銘柄を目で追い、悩んだ末に決めたようだ。

「ベル エポック行くわよ?」
「……どうぞ。今日はもうお好きなように」

 付き合って貰う代わりに、好きなものを頼んでいいと言ったのは翔だ。由美は満足そうに頷き、「ボトルで」と付け足すことも忘れない。
 飲み物が揃うと、二人はグラスを少し持ち上げて傾ける。由美が一口飲んでいる間に、翔は煽るように飲み干して、次を注いでいた。

「シャンパンって、水みたいに飲むものだったかしら?」
「素面じゃとても話せない」

 そう言ってまた一気に飲み干す翔に、由美は「高い酒が勿体ない」と溜息混じりに呟き、三杯目を注ぐ翔からボトルを奪い取る。

「いくら翔が酒強いっても、ピッチ早過ぎ。少しくらい味わいなさいよ」
「お前には、飲まずにいられない俺の遣る瀬無さが分かるか?」
「分かりたくても、事情が呑み込めてないんだけど?」
「だよな」

 由美がグラスを満たしてくれるのを眺め、

「梓がいない間のフォロー頼むな」
「それは勿論だけど、アズちゃんの行きそうな所に心当たりはないの?」
「片っ端から連絡してみたけど、何も掴めなかった」

 薄いゴールドの液体を泡が軽快に昇っていく。それを見るともなしに見ている翔の顔には疲れが滲んでいた。そんな彼に事情を訊くのは些か躊躇うものの、聞かない事には話が進まないので、由美はシャンパンで喉を潤し、思い切って口を開いた。

「怜をシメた理由は?」

 翔が物凄い凶悪な目で由美を見た。そんな彼に由美はナプキンを顔面に投げつけ、「あんたが話聞いてくれって言ったんでしょ」とあからさまな不愉快を口にすると、翔は素直に謝罪した。そして昨夜から気になっていた事から由美に訊いてみることにした。

「最近、梓に近付て来た男の事、何か聞いてないか?」

 予期せぬ問いに由美の肩が小さく震えた。翔の眉がピクリと動く。

「何知ってる?」

 話を逸らすことを許さない猛禽類の目が、由美をガッチリ捕らえた。嘘も誤魔化しも許さないと揺るぎない双眸が警告している。由美は背もたれに寄りかかり、溜息混じりにシャンパンを口に運ぶと、上目遣いに翔を見た。

「あたしが知ってる情報なんて、そう大したものじゃないけど」
「何だっていい」
「あ~、偶然知り合ったみたいだけど、いい人らしいわね。けどあたしは顔も名前も知らないわよ? アズちゃんも詳しくはまだ知らないんじゃない?」
「本当に大したことじゃないな」
「だから最初に言ったでしょ」

 目に見えてがっかりする翔に、由美が肩を竦めた。そして直ぐに言を継ぐ。

「その人がどうしたのよ?」
「その男と思われる奴と梓が一緒にいるところに、偶然怜が居合わせたらしい」

 今までならそこで梓を強制的に連れ帰って終わりだった。翌日梓の斜めになった機嫌を取って、何もなかったような日常に戻る。それが常だったのに。
 冷静な怜が愚挙に陥るなんて考えても見なかった。

 苦渋の表情の翔を見れば、由美にもそれだけじゃないことは察しがつく。
 ウェイターが料理を置いて離れるのを待ってから、由美は少し前のめりになって翔の顔を覗き込んだ。

「居合わせただけでアズちゃんが家出するとも思えないんだけど? それから何があったの?」

 言いたくない、そんな顔。
 話せば頭の中の整理が付くと思い、由美に時間をくれないかと無理を言ったくせに、いざその場になると退け腰になる。まだどこかで信じたくないという思いがあって、口にすれば認めてしまうことになるから、躊躇してしまう。

 怜の手酷い裏切り行為に、梓は何を思ったか。
 信用していた梓を抱きながら、怜は何を思ったか。
 とてもじゃないが怜に詳細など聞けるわけがない。聞いてしまったら、自分はきっと正気でいられないだろうから。

 今こうしていることが悪い夢で、目が覚めたらまたいつも通りの日常だったらいいのにと、今日何度思ったか。
 でも実際は梓は家を出て行き、無抵抗な怜を動けなくなるほど痛めつけた。
 怜を殴りつけた拳を反対の手の親指が撫でる。
 あそこまで本気で人を殴ったのは、熱くなった試合以外で初めてだ。

 夜中に怜の様子を見に行った時にはもういなかった。動けるなら心配ないだろうと、一切連絡は入れていない。怜からは一言 “休む” とメールがあっただけだ。
 ボロボロの状態で出勤されても迷惑なだけだし、今頃熱でも出して寝込んでいるだろう。自業自得だ。
 翔が躊躇っているうちにも料理は運ばれてくる。由美はにっこり笑って、

「まず最初に腹拵えしましょうか。お腹一杯になったらイライラも少しは落ち着いて、何を話したいのか話したくないのか、判断できるでしょ?」

 時間をくれた由美を見、微かな安堵の吐息を漏らす。
 それからしばらくの間、二人は何気ない会話をしながら料理を口にした。



 食事を済ませ、二本目のシャンパンが半分ほど減った頃、テーブルに頬杖を着いた翔が「怜が裏切った」ボソリと呟いた。
 翔が怜をシメたと言っていた時点で、そんな事だろうと予想はしていた。でなければ翔が “半殺しで済ませてやった” とは冗談でも吐かないだろう。由美が知る限り、二人の大きな喧嘩など見たことがない。況してや一方的に殴るなんて有り得ない事だった。  

(半殺しなんて、何やらかしたんだ。あのバカ)

 基本温厚な翔を心底怒らせるような事とは……。

「あいつ……」
「あいつ?」
「梓に」
「うん?」
「うちの可愛い梓に……」
「アズちゃん可愛いよねぇ。それで?」

 由美が頷いて先を促すと、翔はぐっと堪えるように唇を引き結んだ。俯いた翔の肩が打ち震えて見えるのは、目の錯覚ではないだろう。
 これは涙か、怒りのせいか? どちらにしても鬱陶しい事になるのは間違いない。
 今日はそれを覚悟の上で来ている。故に普段は手が出せない高いオプション料をガッツリ頂いているのだ。
 オプションをチビチビ飲みながら、黙って様子を窺っているとグイっと顔を上げた翔と目が合った。
 怒りで震えていたらしい。途轍もなく凶悪な目で睨まれた。

「おーい。睨む相手が違うだろぉ。ビビるから止めて」
「どこがだよ」  

 平然と言った由美に、翔が鼻で嗤う。そして漸く踏ん切りがついたように口を開いた。

「怜の奴…梓に手を出した」

 翔がこの言葉を絞り出すのに、どれだけ躊躇し悩んだか。なのに由美の口から出たのは「はぁあ?」と何とも間延びした声と、言って思わず後悔してしまう程の間抜け面だった。

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