41 / 65
7. 失くしたくないから…ですか?
失くしたくないから…ですか? ⑦
しおりを挟む父に沙和のことを頼んでからの記憶は殆どない。
夢現を揺蕩うように、それでも朧気ながら碧を想っていた。
彼女を置いて行く、筆舌し難い哀しみ。心が千々に引き裂かれるようで、この時やっと自分が死んだのだと実感した。
お互い仕事に追われて、ゆっくり話したのはいつだったろうか。
もっと一緒に居たかった。
もっと優しく、もっと愛を囁けば良かった。
もっと……――――
目を瞠ったまま、碧は言葉を見つけられないでいる。
沙和の小さな手が碧の頬に触れ、親指で涙を拭った。
愛しい人に触れる。肌の質感。温もり。
その当たり前だったことが、当たり前ではなくなった。
碧の感触が、こんなにも切なく、辛くなる日が来るなんて思いもしなかった。
手放したくなどない。
今も彼女に執着し、少しでも長く触れていたいと願っている。
哀しみと慈しみの綯交ぜになった心が震えるに任せ、碧の頬を椥とは似ても似つかない沙和の小さな手指が、何かを囁くように滑り降りていく。
『ちょっと待ったーっ!』
沙和の声が頭に響き、突然躰が静止して動けなくなる。そこで椥はハッとして、眼前に迫った碧の顔に、冷や汗が流れるのを感じた。
(……何しようとしてんだ、俺っ)
借り物の躰で今まさに行おうとした行動に、言い知れない焦りを感じる。ちょっとした恐慌状態に陥っている椥に、脳内沙和が喚きだした。
『伝えたいことがあるなら躰を使ってとは言ったけど、キスしていいなんて言ってないからねッ!?』
『…………』
『ファーストキスが美鈴で、セカンドキスが碧さんなんて、冗談でも笑えないから! あたしそんな趣味持ってないから! 勘弁してよッ』
蒼白になって抗議してくる沙和の姿が脳裡に浮かぶ。
美鈴にキスされたのか、と沙和の言葉を反芻して怒りがメラッと燃え上がったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。沙和の躰で碧にキスしそうになった自分が、文句を言える立場ではない。
だがしかし。
ふと過った言葉が脳内で漢字変換され、椥は思わず吹き出してしまった。
(……駄菓子菓子だって―――じゃないだろ~ぉ。なに阿呆なこと考えて笑ってんだ。そうじゃなくて、訂正。そうだ、訂正)
先刻まで泣いていた碧が涙を止め、怪訝な目を向けて来る。そんな彼女に微笑んで、椥は沙和を呼んだ。
膨れっ面の沙和が『なに?』と返事すると、
『お前のファーストキスは父さんだから。で、セカンドキスは俺だから。その後すぐに母さんに沙和を取り上げられて、虫歯菌が移るって二人とも尻を叩かれたのは、痛くも懐かしい思い出だ』
ポカンとした沙和の顔が、だんだんと赤く染まって来るのが分かった。恥ずかしさなんかではなく、怒りの方で。
『俺、虫歯ないのに』
分かっていたのについ余計な一言が口を吐く。垂れ目のはずの沙和の眦が、一層吊り上がったみたいだと、暢気にそんな感想を抱いていたら、肩をわなわな震わせた沙和が『ばか――――ッ!』と絶叫した。
脳内にダイレクトな怒りを打つけられ、瞑目した椥がふらふら頭を揺らすと、碧は心配そうに顔を覗き込んで来る。
「なぎ……?」
「あー、うん。……大丈夫。ごめん。ちょっと沙和を怒らせたみたい」
『ちょとじゃないやい』
「…ちょっとじゃなくて、大分らしい」
「何やってるのよ」
鼻をぐずぐずさせながら、碧が呆れたように言った。
「まったく以てその通りです」
項垂れて溜息を漏らす。
(危なかった……)
沙和に止められなければ、気持ちが引き摺られるところだった。
咄嗟に沙和の尻馬に乗って場を誤魔化したが、あの瞬間、椥の頭から沙和の存在がすっかり抜け落ちていた。
もし己の思いのまま沙和の躰を行使していたら、そう考えて背筋に冷たいものが流れる。
でも今は、と気持ちを切り替えて碧を見た。これ以上の失言失態で沙和を怒らせ、撤退を余儀なくされる前に。
「碧は、気に病むことなんてない」
「なぎ」
「碧の近くに居てあげられないのは申し訳ないし寂しいと思うけど、いま俺、結構幸せだから。だから……」
自分のことは忘れて幸せになって、言いかけて躊躇った。その言葉が喉に張り付いてどうしても出てこない。
彼女の幸せは自分が守って行くものだと、信じていた。
その役目を誰かに譲り渡す未来など考えたこともないし、この先も考えたくない。
共に歩む未来などとっくに費えたと解っていながら、まだ縋りつく己が滑稽だ。
(俺じゃない誰かと、幸せになる彼女なんて、見たくないんだ……!)
だからあの時、自分の死を恐ろしいほどすんなり受け止めていたのに、彼女の未来が自分と無関係に紡がれていくだろうことに怯え、今際の際になっても碧に別れを告げられず、未練を抱えた魂はこの世を離れることも厭い、記憶を閉ざし、結果中途半端に逃げ出す事を選んでしまった。
なんて自分勝手で、弱いのだろうと自嘲する。
けどまさか、沙和に移植された心臓を依り代にするなんて、大胆不敵とでも言うべきだろうか。
沙和から離れられないと悟った時から、心臓が無関係ではないかも知れないと、予想はしていたけど。
赤く泣き腫らした目元をハンカチで拭う碧を見て、唇を軽く噛んだ。
椥の言葉を、彼女は黙って待っている。
何度も言い躊躇いながら、それでもと傲慢な思いを止められず、彼女にとって呪縛ともなりかねない言葉を口にしていた。
「碧を、消えてなくなる瞬間まで、ずっと愛してる俺を…忘れないで」
沙和の瞳の中に椥の姿を垣間見せ、碧の目を覗き込む。彼女は薄く微笑んで「馬鹿ね」と呟くと、沙和の頭を掻き抱いた。
0
お気に入りに追加
41
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
騎士団寮のシングルマザー
古森きり
恋愛
夫と離婚し、実家へ帰る駅への道。
突然突っ込んできた車に死を覚悟した歩美。
しかし、目を覚ますとそこは森の中。
異世界に聖女として召喚された幼い娘、真美の為に、歩美の奮闘が今、始まる!
……と、意気込んだものの全く家事が出来ない歩美の明日はどっちだ!?
※ノベルアップ+様(読み直し改稿ナッシング先行公開)にも掲載しましたが、カクヨムさん(は改稿・完結済みです)、小説家になろうさん、アルファポリスさんは改稿したものを掲載しています。
※割と鬱展開多いのでご注意ください。作者はあんまり鬱展開だと思ってませんけども。
罰ゲームから始まる恋
アマチュア作家
ライト文芸
ある日俺は放課後の教室に呼び出された。そこで瑠璃に告白されカップルになる。
しかしその告白には秘密があって罰ゲームだったのだ。
それ知った俺は別れようとするも今までの思い出が頭を駆け巡るように浮かび、俺は瑠璃を好きになってしまたことに気づく
そして俺は罰ゲームの期間内に惚れさせると決意する
罰ゲームで告られた男が罰ゲームで告白した女子を惚れさせるまでのラブコメディである。
ドリーム大賞12位になりました。
皆さんのおかげですありがとうございます
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~
白い黒猫
ライト文芸
ここは東京郊外松平市にある希望が丘駅前商店街、通称【ゆうYOU ミラーじゅ希望ヶ丘】。
国会議員の重光幸太郎先生の膝元であるこの土地にある商店街はパワフルで個性的な人が多く明るく元気な街。
その商店街にあるJazzBar『黒猫』にバイトすることになった小野大輔。優しいマスターとママ、シッカリしたマネージャーのいる職場は楽しく快適。しかし……何か色々不思議な場所だった。~透明人間の憂鬱~と同じ店が舞台のお話です。
※ 鏡野ゆうさんの『政治家の嫁は秘書様』に出てくる商店街が物語を飛び出し、仲良し作家さんの活動スポットとなってしまいました。その為に商店街には他の作家さんが書かれたキャラクターが生活しており、この物語においても様々な形で登場しています。鏡野ゆうさん及び、登場する作家さんの許可を得て創作させて頂いております。
コラボ作品はコチラとなっております。
【政治家の嫁は秘書様】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/210140744/354151981
【希望が丘駅前商店街 in 『居酒屋とうてつ』とその周辺の人々 】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/274274583/188152339
【日々是好日、希望が丘駅前商店街-神神飯店エソ、オソオセヨ(にいらっしゃいませ)】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/177101198/505152232
【希望が丘駅前商店街~看板娘は招き猫?喫茶トムトム元気に開店中~】
https://ncode.syosetu.com/n7423cb/
【希望が丘駅前商店街 ―姉さん。篠宮酒店は、今日も平常運転です。―】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/172101828/491152376
【Blue Mallowへようこそ~希望が丘駅前商店街】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271
【希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271
【希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/813152283
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる