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7. 失くしたくないから…ですか?

失くしたくないから…ですか? ⑦

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 父に沙和のことを頼んでからの記憶は殆どない。
 夢現を揺蕩うように、それでも朧気ながら碧を想っていた。

 彼女を置いて行く、筆舌し難い哀しみ。心が千々に引き裂かれるようで、この時やっと自分が死んだのだと実感した。
 お互い仕事に追われて、ゆっくり話したのはいつだったろうか。

 もっと一緒に居たかった。
 もっと優しく、もっと愛を囁けば良かった。
 もっと……――――



 目を瞠ったまま、碧は言葉を見つけられないでいる。
 沙和の小さな手が碧の頬に触れ、親指で涙を拭った。
 愛しい人に触れる。肌の質感。温もり。
 その当たり前だったことが、当たり前ではなくなった。
 碧の感触が、こんなにも切なく、辛くなる日が来るなんて思いもしなかった。
 手放したくなどない。
 今も彼女に執着し、少しでも長く触れていたいと願っている。
 哀しみと慈しみの綯交ぜになった心が震えるに任せ、碧の頬を椥とは似ても似つかない沙和の小さな手指が、何かを囁くように滑り降りていく。

『ちょっと待ったーっ!』

 沙和の声が頭に響き、突然躰が静止して動けなくなる。そこで椥はハッとして、眼前に迫った碧の顔に、冷や汗が流れるのを感じた。

(……何しようとしてんだ、俺っ)

 借り物の躰で今まさに行おうとした行動に、言い知れない焦りを感じる。ちょっとした恐慌状態に陥っている椥に、脳内沙和が喚きだした。

『伝えたいことがあるなら躰を使ってとは言ったけど、キスしていいなんて言ってないからねッ!?』
『…………』
『ファーストキスが美鈴で、セカンドキスが碧さんなんて、冗談でも笑えないから! あたしそんな趣味持ってないから! 勘弁してよッ』

 蒼白になって抗議してくる沙和の姿が脳裡に浮かぶ。
 美鈴にキスされたのか、と沙和の言葉を反芻して怒りがメラッと燃え上がったが、ぐっと言葉を飲み込んだ。沙和の躰で碧にキスしそうになった自分が、文句を言える立場ではない。
 だがしかし。
 ふと過った言葉が脳内で漢字変換され、椥は思わず吹き出してしまった。

(……駄菓子菓子だって―――じゃないだろ~ぉ。なに阿呆なこと考えて笑ってんだ。そうじゃなくて、訂正。そうだ、訂正)

 先刻まで泣いていた碧が涙を止め、怪訝な目を向けて来る。そんな彼女に微笑んで、椥は沙和を呼んだ。
 膨れっ面の沙和が『なに?』と返事すると、

『お前のファーストキスは父さんだから。で、セカンドキスは俺だから。その後すぐに母さんに沙和を取り上げられて、虫歯菌が移るって二人とも尻を叩かれたのは、痛くも懐かしい思い出だ』

 ポカンとした沙和の顔が、だんだんと赤く染まって来るのが分かった。恥ずかしさなんかではなく、怒りの方で。

『俺、虫歯ないのに』

 分かっていたのについ余計な一言が口を吐く。垂れ目のはずの沙和の眦が、一層吊り上がったみたいだと、暢気にそんな感想を抱いていたら、肩をわなわな震わせた沙和が『ばか――――ッ!』と絶叫した。
 脳内にダイレクトな怒りを打つけられ、瞑目した椥がふらふら頭を揺らすと、碧は心配そうに顔を覗き込んで来る。

「なぎ……?」
「あー、うん。……大丈夫。ごめん。ちょっと沙和を怒らせたみたい」
『ちょとじゃないやい』
「…ちょっとじゃなくて、大分らしい」    
「何やってるのよ」

 鼻をぐずぐずさせながら、碧が呆れたように言った。

「まったく以てその通りです」

 項垂れて溜息を漏らす。

(危なかった……)

 沙和に止められなければ、気持ちが引き摺られるところだった。
 咄嗟に沙和の尻馬に乗って場を誤魔化したが、あの瞬間、椥の頭から沙和の存在がすっかり抜け落ちていた。
 もし己の思いのまま沙和の躰を行使していたら、そう考えて背筋に冷たいものが流れる。
 でも今は、と気持ちを切り替えて碧を見た。これ以上の失言失態で沙和を怒らせ、撤退を余儀なくされる前に。

「碧は、気に病むことなんてない」
「なぎ」
「碧の近くに居てあげられないのは申し訳ないし寂しいと思うけど、いま俺、結構幸せだから。だから……」

 自分のことは忘れて幸せになって、言いかけて躊躇った。その言葉が喉に張り付いてどうしても出てこない。
 彼女の幸せは自分が守って行くものだと、信じていた。
 その役目を誰かに譲り渡す未来など考えたこともないし、この先も考えたくない。
 共に歩む未来などとっくに費えたと解っていながら、まだ縋りつく己が滑稽だ。

(俺じゃない誰かと、幸せになる彼女なんて、見たくないんだ……!)

 だからあの時、自分の死を恐ろしいほどすんなり受け止めていたのに、彼女の未来が自分と無関係に紡がれていくだろうことに怯え、今際の際になっても碧に別れを告げられず、未練を抱えた魂はこの世を離れることも厭い、記憶を閉ざし、結果中途半端に逃げ出す事を選んでしまった。
 なんて自分勝手で、弱いのだろうと自嘲する。

 けどまさか、沙和に移植された心臓を依り代にするなんて、大胆不敵とでも言うべきだろうか。
 沙和から離れられないと悟った時から、心臓が無関係ではないかも知れないと、予想はしていたけど。
 赤く泣き腫らした目元をハンカチで拭う碧を見て、唇を軽く噛んだ。

 椥の言葉を、彼女は黙って待っている。
 何度も言い躊躇いながら、それでもと傲慢な思いを止められず、彼女にとって呪縛ともなりかねない言葉を口にしていた。

「碧を、消えてなくなる瞬間まで、ずっと愛してる俺を…忘れないで」

 沙和の瞳の中に椥の姿を垣間見せ、碧の目を覗き込む。彼女は薄く微笑んで「馬鹿ね」と呟くと、沙和の頭を掻き抱いた。

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