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7. 失くしたくないから…ですか?

失くしたくないから…ですか? ⑤

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 沙和の中に同化していく自分を感じる傍らで、穏やかに椥を受け入れる妹も感じる。
 普段なら椥が沙和の躰を使役することは、どうにも恥ずかしいから嫌だと、断固拒否する彼女の好意がとても有り難い。
 なのに躊躇する気持ちもあって、沙和の中でグズグズと尻込みしている。

 時間を稼いで誤魔化すように、碧の手を取ってゆっくり立たせ、外柵の段に座らせた。脛に着いた汚れを払いながら、椥は思考を巡らせる。  
 碧に伝えたいこと、伝えるべきことなら山ほどあった。その筈なのに、全てを伝えるには、まだ心の準備が出来ていない。伝える勇気がない。
 我ながら軽蔑したくなるほど自分勝手なことばかり考え、碧を縛ってしまいそうで怖い。彼女が泣き暮らすなんて、望んでいないのに。
 すると痺れを切らした沙和が、脅すように食って掛かって来た。

『篤志をヘタレ扱いしてる癖に、情けないわねぇ。ゆぅ…お兄ちゃんもすっごいヘタレだって、篤志に詳細チクるわよ?』
『おま……っ』
『なによ。泣いてる彼女を慰めるのに、躰使っていいよって言ってるんだから、さっさと覚悟決めてよね』

 多分に沙和のせいで篤志がヘタレ扱いを受けていることを、これっぽっちも意に介してない彼女の言い様に、思わず吹き出しそうになって口を押えた。
 邪魔している椥が言うのもなんだが、篤志も相当報われない。

『なっ、なによ』

 頭の中に膨れっ面の沙和が浮かぶ。椥はくすりと笑って、主導権を握っている右手を動かし、もう一方の甲をポンポンして軽く握った。

『そのまま、変わらないでくれよ?』
『はっ? 意味わかんない』

 沙和が首を傾げ、小さく笑う。

『いいよ。それで』

 わざわざ篤志を意識させることもない。
 椥は沙和の眉間に愁眉を寄せ、目の前に座る碧を憂えた眼差しで見つめると、息を一つ吐き出して口を開いた。



「ゴメン。碧」

 緊張のあまり掠れた声で繰り出された言葉に、碧がきょとんとした顔で沙和を見る。すぐに怪訝そうな眼差しに取って代わり、椥が操る沙和の唇は奇妙に歪んだ笑みを作った。
 先刻会ったばかりの年下に、いきなり馴れ馴れしく呼び捨てにされたら、温厚な彼女でも些か面白くなかっただろうか。

(常に一方的で、沙和と面と向かうのって初めてだもんな)

 碧にジロジロと不審げに見られ、沙和の口元がひくりと攣れた。椥は出会ったばかりの頃を思い出す。
 二人が付き合うようになるそもそもの切っ掛けが、沙和を見守るという名目のストーキング中に、同じクラスの碧に目撃された事からだった。
 帰国して二年に編入してきたばかりの椥の行動は、何かと目を引いたそうだ。そんな彼の奇行を碧は偶々目撃してしまった。事情を知らなかった彼女の目には危ない存在に映ったようで、『性癖をとやかく言いたくないけど、犯罪はダメ!』だと大真面目な顔で諭してきた。誤解を解いた時の碧の呆けた顔は、思い出すと今でも笑える。

 当初は度を越した椥のシスコン振りを冷ややかに、侮蔑的な目で見ていた。
 ところが碧は暇さえあれば彼の後を付いて回り、沙和の行動をつぶさに観察する椥の行動を、呆れながらも面白がっていた。
 今となっては、そんな幸せな思い出も遠い。
 束の間の邂逅に微苦笑し、椥はほうと息を吐く。碧の目を瞬がずに覗き込んだ。

「俺が死んだのは、碧のせいじゃないよ。だからそんなに自分を責めなくていい」

 沙和の声で、急に男言葉を話し出され、碧が困惑の表情を浮かべる。彼女が戸惑うのは尤もだ。

「俺だよ。椥。ちょっと沙和の躰を間借りして、碧に話してる」

 そんな事を言われて、俄かには信じて貰えないのは承知の上だ。だから信じて貰えるように、沙和が知り得ないことを舌に乗せた。

「あの部屋、引き払うのか? それとももう、引き払った後だったのかな?」

 就職を機に、一緒に暮らし始めた部屋。
 結婚も視野に入れ、二人であーでもないこーでもないと探して、見つけた部屋だった。

「……な…んで?」

 茫然と碧が呟いた。

「だってほら、俺幽霊になっちゃったからさ。鍵って意味ないんだよな。部屋を覗いたら、積まれた段ボールだらけだった」

 悪戯を白状するような、少しバツが悪い笑みを浮かべる。
 二人で暮らした日々を忘れたいのかと、少し寂しく思った。けどそんな事を口にしたら、今以上に彼女を苦しめてしまうことも容易に想像がつく。椥は思いを飲み込み、口角を上げて笑みを作った。

「碧の給料だけで、あそこに住むのは大変だし、死んだ俺がこの先も、何とかしてあげられる話じゃないもんな。仕方ないんじゃない?」

 努めて明るくそう言うと、碧の双眸から滝のような涙が流れだした。

「ほっ…本当に、な…ぎ、なのぉ……?」
「うん。椥だよ」

 言葉に詰まりながら、沙和の手を取り握りしめた碧に薄く微笑んで頷いた。

「ごめんな。自分のせいで俺が死んだと悔やんでることに、気付いてやれなくて」

 碧が大きく頭を振り、椥の名前を呼んで号泣し始めた。彼は碧の手をそっと解き、彼女の頭を抱き寄せる。

「俺、沙和の中ここで生きてるから。だから、そんなに自分を責めないで……」

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