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6. 心残りは何でしょう?

心残りは何でしょう? ⑦

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 ***


 あの町に行かなきゃ、そう思うと気が重い。
 結局、沙和が怒りだした先日の件は、有耶無耶にしたままだ。
 翌日は疲れたからと言って一日ふて寝した。

 逃げて誤魔化したことを幽さんは納得していない様だけれど、だからと言ってしつこく理由を聞いてきたり、詰ったりはしてこない。
 沙和の心など簡単に読めるだろうに、そんな素振りを欠片も見せない。

 幽さんは彼女の頭をそっと撫で、そして『無理させてごめんな』と溜息混じりの声で謝られた。
 呆れられた、そう思うと切なくなってくる。
 幽さんが謝ることなんてない―――心ではそう訴えているのに、声に出して言葉にすることが出来なくて、落ち込んだ。

 そんな風に優しくされたりしたら、自責の念に苛まれて自分が嫌いになる。
 幽さんの記憶が戻って欲しい気持ちに嘘はないのに、どうしてだろう。思い出さなくてもいいと思う気持ちもあるのだ。

(そんなこと言ったら、いくらあたしに優しい幽さんだって腹立つだろうし、絶対に嫌われる……)

 彼のことだから優しく接してはくれる筈だ。けどそれは表面上のことであり、どこかで余所余所しい態度になるのは目に見えている。
 我儘に振り回されて、幽さんが可哀想だ。
 沙和から離れられない幽さんに嫌われたら、一緒に居続けることはどちらにとってもきっと物凄く辛いのに。  



 利己的なことを考えていたせいだろうか。
 沙和は夢を見た。

 母と二人で暮らしていたモルタルのアパートに、兄と一緒にいる懐かしい光景。
 穏やかで優しい兄は、赤茶けた癖毛がいつもふわふわ踊っていて、目鼻立ちは沙和とよく似ている。ただ少しばかりぽっちゃりさんで、彼女は兄の手をにぎにぎするのが大好きだった。
 兄も笑いながら手を握り返してくれる。

 友達よりも沙和を優先して一緒に居てくれる兄が、両親よりも大好きだった。兄がいたから、両親の離婚にも耐えられた。
 兄とのやり取りが懐かしくて、胸がほっこりする。
 夢の中だと意識のどこかで分かっていても、ずっと続けばいいのにと願う。
 幸せだった光景は、走馬灯のように過ぎて行く。

 そして、兄に会った最後の日。
 母に怒りをぶつける兄の姿を見たくないのに、沙和には呆然と見ているしか出来なかった。あの時と同じように。
 引き止めたいのに、兄はそのまま家を飛び出して行った。沙和は慌てて追いかけたけれど、兄はどんどん遠ざかって行く。このまま行かせたら後悔する。

 兄を呼びながら、ひたすらに追いかけた。
 なのに躰が思うように動かない。
 必死で振る彼女の手は、幼い少女の手で、走る脚は華奢な子供のものだった。転びそうになりながら繰る脚の何ともどかしい事だろう。
 沙和は盛大に転んだ。
 兄に助けを求めて叫ぶ―――と、兄の足が止まってゆっくりこちらを振り返る。微笑んで手を差し出した。
   
 ――――おにいちゃん!

 やっと兄を引き止められる、そう思ったのに……。
 兄の手を取ったのは、大人の男性。
 見覚えのある後ろ姿に、沙和は驚愕した。

 ――――幽さん……!?

 彼の名を呼ぶと怪訝そうに振り返り、幽さんは首を傾げながら兄に目を戻して微笑んだ。
 二人が沙和を置いて先に行ってしまう。
 また置いて行かれる。
 もう二人に会えなくなる。

 ――――置いてかないで!!

 叫んで、沙和は眠りから覚めた。



『おい沙和っ。大丈夫か?』

 幽さんの心配そうな表情が目に飛び込んでくる。

『怖い夢でも見たか?』

 まだ夢と現の区別がつかないで茫然とする沙和の目元を、幽さんの指がそっと拭い、優しく彼女を抱き起すと背中をポンポンと叩き、安心させるように摩ってくれる。

(……ああ…お兄ちゃんもよくこうして、怖い夢見て泣くとよしよししてくれたっけ)

 幽さんの背中に手を回し抱き着こうとした。けれど沙和の両手はストンと下に落ち、空しく脚の上に転がる。
 夢のように、掴めない。
 沙和の目から滂沱の涙が溢れて来た。
 幽さんがギョッとして身を離し、彼女の顔を覗き込んで来た。

『どっ、どうした沙和? どっか痛いのか? 隼人起こして伝えて貰うか?』

 沙和は頭を大きく横に振った。

「……っがう……そ…じゃな…ぃ」

 そう言ってまた涙を流す沙和に、幽さんが戸惑っている。
 俯き、声を殺して泣く沙和を先刻よりも強く抱きしめ、幽さんの穏やかな声に『大丈夫だから。怖くないから』と耳元で幾度も囁かれると、不安がほろほろと零れ落ちた。

「幽さん、は……お兄ちゃんみたいに、黙っていなくならないで……」

 手を繋いで先を歩きだした二人の後ろ姿を思い出し、涙が止めどなく溢れた。
 幽さんは沙和の頭を撫で、静かに口を開く。

『いつか、沙和の元から離れる時が来たら、その時は絶対に黙って消えたりしないから。約束する』

 だから大丈夫だよと、沙和の心の奥底に言い聞かせるような暖かな声が、ゆっくりと浸透していく。
 そして、沙和はまた眠りへと誘われていった。

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