上 下
2 / 65
1. あの…どちらさま……?

あの…どちらさま……?

しおりを挟む
 

 目が覚めて一番最初に視界に入って来たのは、ちょっと親近感が湧く男の人の顔。
 仰向けで寝ていた彼女の視界を塞ぐように、真上から顔を覗き込まれていた。

(……ん?)

 理解不能な状況に寝起きの脳みそが付いていかず、目をパチパチと瞬いた彼女の顔にぐっと近寄り、「やっと起きたか」と呆れた様子でその人は言った。

(……んんっ!?)

 頭は回っていなくても、顔の距離がやたらと近いのは判る。
 その距離、凡そ二十センチ。
 見知らぬ男に顔を覗き込まれていただけでも充分驚くことなのに、しかもその近さと言ったらとんでもない。

 彼女は力一杯の悲鳴を上げた―――筈だった。
 喉からスカスカの空気音だけが、空しく漏れ聞こえてくる。
 この緊急事態になんてことだと、焦りを感じた彼女が次に取った行動は、躰を起こすことだった。しかしベッドに縛り付けたように、力が入らない。

 恐慌状態に陥っている彼女を見下ろしている男が、ほとほと困りましたと顔に書いて、とんでもないことを口にした。

「ねえ。俺のこと知ってる?」

 一瞬、何を聞かれたのか理解できず、声にならない声で「ほえ?」と漏らす。彼女が呆気に取られていると察したのだろう。彼は困ったように眉を寄せ、

「気がついたらここに居たんだけど、どー言った訳だか、俺記憶ないんだわ」

(……はい?)

 一応口は動かしてみたけれど、やはり声が出ない。
 それだけでも焦るのに、初対面だと思われる男性に、記憶喪失をカミングアウトされて、一体どうしろと言うのだろうか?



 山本沙和やまもとさわは眉を引き絞り、瞑目している。
 傍らには記憶喪失だと言う男がいて、困り顔で事情説明を始めたのを流し聞きしながら、己の置かれた現状を思い起こしていた。

 真っ白い無味乾燥な空間と、消毒液の匂い。
 ああそうか、とぼんやり思い出した。
 半年ほど前からここに入院していて、見つからないと諦めていたドナーが現れ手術をしたのだ。

 十九の時に劇症型心筋炎に侵された。
 ドナーが現れなければ、そう時間が経たないうちにこの世を後にしていたはずだったが、幸運なことに救いの手が差し伸べられた。
 この場合、救いの心臓と言うべきか?

 沙和の腕から長い管が伸びている。ポトリポトリと規則正しく落ちていく滴。
 今しっかりと呼吸をしている。
 心臓は、もう痛くもないし、苦しくもない。
 沙和は深く息を吸い込んだ。
 生きている実感が湧いてくる。
 声が出ないのも、躰が思うように動かないのも、きっと手術の後だからだ。
 時間が経てば、きっと元通りになるだろう。

「おい。沙和! 俺の話、聞いてるか?」

 唐突に頬を抓まれて、一気に思考を引き戻された。
 やはり目の前に顔を突き出した男がいる。

(何であたしの名前知ってるの? この人)

「ほれ。ベッドに名前付いてんじゃん」

(………んん!?)

 沙和の垂れ目がちな相貌が大きく見開かれ、記憶喪失男を凝視した。
 声を出した覚えなどないのに、会話が成立しているのは、これ如何に?
 これまでにしたこともない体験に、沙和の頭がパニックを起こしている。にもかかわらず、彼はお構いなしで「人の話はちゃんと聞きましょうって、幼稚園で習ったろ?」と説教を始める始末だ。

(考えが筒抜けって、そんなんアリなの?)

「アリだろ。現に話してるじゃん」

(手術して、何か特殊能力に目覚めた!? あたしの手術って、心臓の手術だよね!? 改造なんてされてないよね!?)

 心臓移植もある意味改造か、との考えはひとまず置いといて、真剣な眼差しで食い入るように彼を見た。

「特殊能力の有無は分からないけど、俺の知る限りでは人間だと思うぞ? ちゃんと排泄されているし」

(……はい…せつ?)

 言葉の意味が理解されるまで、五秒弱。
 手術して動けないのだから当然なのだろうけど、うら若き乙女がどこの誰だかも判らない男に、下事情の報告を受けるなんて、死んでしまいたいくらい恥ずかしい。
 躰の自由が利くなら、枕の一つも投げつけていただろう。
 せっかく生き延びたから死にはしないけど、そのくらい居た堪れない事情を彼には察して欲しかった。

「そう恥ずかしがるなって。生きてるって証拠じゃないか」

 そう言うことじゃないと思うが、この男にデリカシーが欠如していることは理解した。
 沙和は溜息を吐いて、どこか憎めない面立ちをしている男を見る。

(それで? ココにいつまで居るの?)

 声を出さなくても会話ができるのは、今の沙和には有難い。体力が戻ってないから、すこぶる疲れて目を開けているのも億劫だ。
 とは言え、この順応力の高さはどうしたことか。
 沙和の思考を読み取った彼が、呆れた顔で溜息を吐いた。

「その説明、先刻したんだけど。ほぼ最初から聞いてなかったわけね」

(……そうみたい)

「そうみたいって……今度はちゃんと聞いてよ?」

(はぁい)

「返事は短く。もう。何か心配だなぁ」

(お母さんみたいなこと言ってる)

「茶化さない」

(…はい。すみません)

 ニヤニヤして返事をしたら、彼に思い切り睨まれた。


 ***


 自称、記憶喪失の彼が言うには、気が付いた時には沙和の隣に立っていたらしい。

 どうしてこんな所に?
 たった一つの疑問からぼろぼろと綻び、分からない事だらけの自分に愕然とした。
 傍らで眠っている女の子に見覚えがあるような、ないような、覚束ない感覚。

 彼女に訊いてみようか。そう思ったけれど、よく寝ているのに起こすのも気の毒だ。しかし起きるまで待ってみるには、切羽詰まっている。
 居ても立ってもいられず、他の誰かに訊いてみようと部屋を出た。

 ところが、誰に声をかけても見向きもされない。
 看護師すら彼に目もくれないで、忙しなく通り過ぎて行く。
 言いようもない不安が押し寄せた。
 誰か、自分を知っている人。

 知らず速足から、駆け出していた。
 突然、何かに引っ張られ、前に進めなくなる。それでも負けじと前に進もうとして、抗い難い力が作用した。

 ぐんっ! 

 強い力が彼の躰を容赦なく引っ張り、それはさながらバラエティーで見たことのあるゲームのように、極太のゴムで後ろに退き戻されていく感覚。躰のバランスを失い、足が宙に浮き、物凄い勢いだった。
 彼は肩越しから後ろを振り返る。

 背後には壁。
 叩きつけられる、そう覚悟して固く目を瞑った―――ら、通り抜けていた。
 先刻は背後にあった壁が、目の前から遠ざかって行く。そして気が付けば、また振出しに戻っていた。
 安らかな寝息を立てる女の子を、呆然とした表情で見下ろし、いま通り抜けて来た壁を見る。
 彼は天井を仰ぎ、しばらく考え込んだ。

(これって、もしかして俺、死んでる?)

 自分で自分の考えに震えた。
 これまで壁を通り抜けた記憶がない……と言うか、記憶そのものがない訳だが、彼が有する概念では、トリックでもない限り人が壁を通り抜けることは不可能だ。とするならば、やはり自分は人ではないと結論に達する。

 何とはなしに寝ている彼女を見下ろし、徐に走り出した。生きていた頃の概念のまま、壁をちゃんと迂回して。
 ただし戻って来る時は、最短距離で戻って来る。彼女の隣に。
 何度かチャレンジして解ったことは、この眠り姫から五十メートル以上離れることが出来ない事だった。
 となれば、彼女に訊くしかないようだ。

(俺って誰? とか訊くなんて、映画かドラマの中でだけだと思ってたよ)

 まさか自分がそんな目に遭うとは、思いもよらなかった。

(しかも死んでるとかって……ちょっと待てよ。もしかして、この子にも気付いて貰えなくないか?)

 誰にも見向きもされなかった事実が突き付けられる。
 だとしたら、分からないまま彼女の傍に居続けなければならない。それはたとえ死んでいるとしても、辛い現実だ。

(何でこんな目に遭わなきゃならない!? 生きてる時に俺、碌でもない事やらかしたのか!?)

 考えれば考えるほど、深みに嵌って行く。
 自我はちゃんとある。
 なのに記憶だけがない。
 自分の存在を確立するために、一縷の望みを賭けてみることにした。

(彼女から離れられない理由も知りたいしな)

 そうして待つこと半日。
 けれどこのお姫様が起きる気配は見られない。

(ほんとに眠り姫かよ)

 一時は収めた不安が、また膨らんでくる。
 そうして彼は、不安を忘却の彼方に押しやるために、いろいろと試してみることにした。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ガラスの世代

大西啓太
ライト文芸
日常生活の中で思うがままに書いた詩集。ギタリストがギターのリフやギターソロのフレーズやメロディを思いつくように。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

罰ゲームから始まる恋

アマチュア作家
ライト文芸
ある日俺は放課後の教室に呼び出された。そこで瑠璃に告白されカップルになる。 しかしその告白には秘密があって罰ゲームだったのだ。 それ知った俺は別れようとするも今までの思い出が頭を駆け巡るように浮かび、俺は瑠璃を好きになってしまたことに気づく そして俺は罰ゲームの期間内に惚れさせると決意する 罰ゲームで告られた男が罰ゲームで告白した女子を惚れさせるまでのラブコメディである。 ドリーム大賞12位になりました。 皆さんのおかげですありがとうございます

騎士団寮のシングルマザー

古森きり
恋愛
夫と離婚し、実家へ帰る駅への道。 突然突っ込んできた車に死を覚悟した歩美。 しかし、目を覚ますとそこは森の中。 異世界に聖女として召喚された幼い娘、真美の為に、歩美の奮闘が今、始まる! ……と、意気込んだものの全く家事が出来ない歩美の明日はどっちだ!? ※ノベルアップ+様(読み直し改稿ナッシング先行公開)にも掲載しましたが、カクヨムさん(は改稿・完結済みです)、小説家になろうさん、アルファポリスさんは改稿したものを掲載しています。 ※割と鬱展開多いのでご注意ください。作者はあんまり鬱展開だと思ってませんけども。

希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~

白い黒猫
ライト文芸
ここは東京郊外松平市にある希望が丘駅前商店街、通称【ゆうYOU ミラーじゅ希望ヶ丘】。 国会議員の重光幸太郎先生の膝元であるこの土地にある商店街はパワフルで個性的な人が多く明るく元気な街。 その商店街にあるJazzBar『黒猫』にバイトすることになった小野大輔。優しいマスターとママ、シッカリしたマネージャーのいる職場は楽しく快適。しかし……何か色々不思議な場所だった。~透明人間の憂鬱~と同じ店が舞台のお話です。 ※ 鏡野ゆうさんの『政治家の嫁は秘書様』に出てくる商店街が物語を飛び出し、仲良し作家さんの活動スポットとなってしまいました。その為に商店街には他の作家さんが書かれたキャラクターが生活しており、この物語においても様々な形で登場しています。鏡野ゆうさん及び、登場する作家さんの許可を得て創作させて頂いております。 コラボ作品はコチラとなっております。 【政治家の嫁は秘書様】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/210140744/354151981 【希望が丘駅前商店街 in 『居酒屋とうてつ』とその周辺の人々 】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/274274583/188152339 【日々是好日、希望が丘駅前商店街-神神飯店エソ、オソオセヨ(にいらっしゃいませ)】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/177101198/505152232 【希望が丘駅前商店街~看板娘は招き猫?喫茶トムトム元気に開店中~】  https://ncode.syosetu.com/n7423cb/ 【希望が丘駅前商店街 ―姉さん。篠宮酒店は、今日も平常運転です。―】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/172101828/491152376  【Blue Mallowへようこそ~希望が丘駅前商店街】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271 【希望が丘駅前商店街~透明人間の憂鬱~】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/427152271 【希望が丘駅前商店街~黒猫のスキャット~】  https://www.alphapolis.co.jp/novel/265100205/813152283

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...