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2. 杏里 ~逃がさないから覚悟して?

杏里 ①

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年下男子。杏里の章、始まります。

**************************************

 

 下ろしたての枕にサラサラと広がっている癖のない黒髪を杏里は一房掬い取り、そっと口付ける。
 自分より四歳年上の彼女だけど、あどけない表情で眠っている姿は、身悶えするほど愛おしくて仕様がない。
 遂に昨日、名実ともに自分だけの愛する女性になってくれた。

(相沢、瑠珠るみ。うん。良いね)

 元旦早々、ちゃんと正装して金子家に訪れると、迎え入れてくれた瑠珠の弟で杏里より二歳年上の黒珠くろすが、ニヤニヤしながら『決行か?』と訊いてきた。杏里が大きく頷くと黒珠の大きな手が背中を叩き、よろける程の喝を入れられたが、まあ由としよう。確かに気合いは入った。
 本当は高校卒業まで我慢するつもりだったのに、不測の事態が相次いで、気が気じゃなくて強硬手段に踏み切るしかなかった。瑠珠のことになると本当に余裕がない。

 花頭症候群かとうしょうこうぐん――――そんなものが二年ほど前から流行りだした。
 十代から三十代の女性に最も多く見られる現象で、何でも排卵日に合わせて咲くらしく、恋をしている世の女性たちは挙って頭の上に花を咲かせ始めた。
 要因が明らかになって行くうちに、瑠珠にも咲くのではないかと冷や冷やしたが、彼女が明言する通り花頭は咲くことなく、安堵した反面それは杏里を落胆もさせた。

 誰も好きにならない。
 二年前から瑠珠の口癖になった言葉。
 思っても見なかった恋人の裏切りで、拒食症になるほどボロボロになった瑠珠が可哀想だと思うのに嘘はなかったけど、それ以上に心の奥では歓喜した。そんな自分が汚いと綺麗ごと言ってる場合じゃなかった。子供過ぎて男として見て貰えず、諦めるしかなかった頃とは違う。絶対に今度は、今度こそは瑠珠の瞳の中に映れる男になる。そう誓った。

 でも現実は彼女よりも四歳下で、未成年で、赤ん坊の頃から人目に触れる仕事をしてきた杏里は、些細なことでも瑠珠を窮地に立たせてしまう危うさを孕んでいて、感情や欲望だけで動けないことも知っていた。
 社会的にケジメを付ける。
 高校卒業したら、ちゃんと指輪を持ってプロポーズする、それだけが心の拠り所になった。それまでは瑠珠の目が誰にも向かないように、ひたすら想いを語るしかない。酷く焦れったいけど。
 瑠珠の気持ちをゆっくり杏里に向かわせる。ツレない言葉を返されても、彼女が誰のものにもなってないから、心に余裕があったけど……。

 突如浮上してきた同僚の高槻という男に、言い知れない焦りを覚えたそんな矢先に、瑠珠の頭上にこれまで咲くことがなかった花頭が、ある日突然ふんわりと慎ましやかな香りを放って杏里の鼻孔をくすぐった。その時の絶望にも似た感情は、今思い出しても身体が震える。

 瑠珠がもぞもぞと動いて、彼女の細い指先がするりと杏里に背中に回された。布団の中に頭を潜らせ、彼の胸に鼻を擦り付けてくる。そんな彼女の頭頂にそっと触れるキスを落とすと、これまでの紆余曲折を思い返しながら、杏里は幸せを噛みしめた。

   
 ***


 初めて瑠珠に会ったのは、杏里が中学二年になる春休みだった。

 女優の母、相沢杏花きょうかの二度目の離婚に伴い、この分譲マンションに引っ越してきた日、『最初のカマシが大事』と言った母に引っ張られ、嫌々ご挨拶に連れ回されることになった一件目で、応対に出た瑠珠に一目惚れした。

(か……可愛いッ!)

 明らかに年上だと分かる彼女に抱いた第一印象は、その一言だ。
 ピンクのモフモフのシュシュでサイドテールにし、赤に白の水玉のエプロン姿でにっこりと微笑んだ瑠珠が「お母さ~ん。お客様ぁ」と奥に向かって、鈴を転がすような声で呼ぶ。
 こちらを振り返って小首を傾げた瑠珠が「少々お待ちくださいね?」と杏花に言った後で杏里に視線を寄越し、「瑠珠です。これから宜しくね?」と破顔して手を差し出して来て、両手で彼女の手を握り返した。
 この瞬間の記憶は、やたら顔が熱くて頭がぼうっとし心臓バクバク。瑠珠の手が少しひんやりして柔らかかったことと、杏花に「いつまで手ぇ握ってるの。困ってるでしょ」と後頭部に張り手を食らったこと。
 間もなく瑠珠の母親がやって来て、杏花が「隣に越して来ました相沢です」と挨拶を始め、引っ越し祝いの品を差し出す。ニコニコ笑う瑠珠から目を離せないでいる杏里の背中に、母の手が添えられた。

「杏里です」

 瑠珠を見たままぺこりと頭を下げると、彼女は嬉しそうにふふと笑い、杏里がはにかむ。その隣で杏花が小さく吹き出して、ジロリと睨んだ。

「今出掛けてるんですけど、うちにも春から高校生になった息子と、中二の娘がもう一人居るんですよぉ。杏里くん仲良くしてね?」

 屈託なく笑った瑠珠の母親がそう言った後の彼女の顔は、豆鉄砲を食らったように大きく目を見開き、杏里の顔を凝視していた。

(何か、ヤな予感)

 心がシュルシュルと萎んでいく感じ。
 瑠珠は母親の顔を確認し、杏花から杏里に視線を巡らせ、聞きたくなかった一言を発した。

「男の子だったんだ?」



 一目惚れした数分後に玉砕した。
 金子家を辞し、よろよろと帰宅した杏里に母は「ドンマイ」と困った顔で肩を叩き、「成長期。これからこれから」と慰めにもならない言葉を掛けてきた。

 この時、他の男子が軒並み身長を伸ばしている中で、中学一年の間に伸びた身長はたったの三センチ。百五十センチを僅かに越えた所で停滞し、声変わりものんびりしてる。クラスでたった一人のボーイソプラノが恥ずかしかった。しかも母親譲りの女顔で、『男だよな?』と微妙な眼差しの級友たちに、確認されたこともしばしばだ。

 コンプレックスを抉られた。
 一目惚れした相手に。
 瑠珠に悪気が無いことは分かっている。
 ショックを隠し切れないでいた杏里に、彼女は本当に申し訳なさそうに謝ってくれた。瑠珠の母親も「デリカシーのない子ね」と娘を小突いて、何度も謝ってくれたし。
 でも瑠珠に謝られれば謝られるほど、泣きたくなった。ちょっと涙浮かんでた。
 上目遣いで見た瑠珠は、目測で百六十センチは越えていたと思う。
 年上だけど可愛くて、なのに彼女よりだいぶ小さい自分。
 何たる屈辱か。

 打ち拉がれてソファに俯せていた杏里は、傍に杏花が近付いて来たのを察知するや、ガバッと顔を上げて睨み付けた。

「母さんッ! 身長伸びなかったら一生恨むからね!」
「あたしのせい!?」
「他に誰がいるのさ!」
「ほら。隔世遺伝はあたしではどうにも出来ないし…ははは」

 ウロウロした目をして笑う母。憎らしいことに、彼女もヒールを履いたら百七十センチを軽く越えてしまう。
 隔世遺伝のせいなんかにして欲しくない。

「協力してくんなきゃグレてやる」
「その顔でグレたっ……ごめん。その顔は間違いなくあたしだ」
「ばあちゃんの身長で母さんの顔なんて、最悪だ~ッ」
「ちょっと言い過ぎ! いいわよ! ちゃんと協力してあげるから、杏里も好き嫌いなくしなさいよ!?」

 鼻息荒く捲し立てられ、言葉に詰まったまましばし杏花の顔を見上げた。
 嫌いな食べ物たちが杏里の脳裏を回遊する。
 しかし、背に腹は代えられない。

「……………わかった」
「即答出来ないとこが杏里はダメなのよ。身長欲しいんでしょ?」
「うんっ」
「瑠珠ちゃん、可愛かったもんね」
「う……っ」
「年上好みかぁ。マセてるわね」
「…うるさい」

 ニヨニヨする母にクッションを投げつけるも、彼女はひらりと躱してケラケラ笑い、荷解きに戻って行くのを、杏里は苦々しく思うのだった。

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