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第三部 崩墜のオブリガード
54.利他と理念の紛紜
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トラバースヒルと称される長く緩やかな上り坂を、二頭の馬が駆け昇る。
レネ山脈とイベル渓谷に挟まれ切り立った道を先行し上下するラウルの背を見上げながら、
オフェリアの胸中は相反する二つの心で揺れていた。
本来セビリス――領主不在によりパルベスギルド――への伝令を担うべき職にいる彼女が、
依頼に理由を付けて断り、ミーユに代理を任せた事は妥当とは言えない。
戦人に過ぎないミーユがフリオの書状を手渡した所で、狡猾なメイヤーラザレに篭絡され、
援兵を送るなんて事にはならないだろう。
ラザレは上役のラウルを軽んじていた節があるが、本来護衛を付けるべき案件に
ギルド嬢を付けた事からもそれが伺える。
そんなラザレの裏をオフェリアが最もよく理解しており、だからこそラウルの身を案じた。
純朴ながらも意外と聡明で、何より貴族らしくない、どことなく戦人に近いラウルに対して、
育成紛いな講釈まで垂れた理由は、ただ『好印象だった』からに他ならない。
オフェリアはそんなギルド嬢としての理念だけを口実に、ラウルへの同行を優先した。
しかし一抹の不安が無いわけでは無かった。
パルベスへ赴任し直属の上司となったラザレに対しては油断出来ないという印象しかない。
職員を叱りつける横柄さは無くギルド嬢の評判も良い。間延びした口調も一見愛嬌がある。
しかし貼り付いたように崩れない笑顔の裏に垣間見える疑心と牽制がオフェリアには解る。
『柔和』を被って潜入した彼女こそが、誰よりも巧言を警戒していたからだ。
しかし確証は何一つない。今まで聞かされた複数の情報が噛み合うには十分とは言えない。
白銀海崖を封鎖した理由、詳細を説明しなかった思惑、
そして――監視の指示。
ラウルへの同行を指示された直後に確認したソーンガードリーダー・シェーラの封書には、
《南エスパニ領主ラウル、パルベスメイヤーラザレの監視》が明記されていた。
現在は場所が離れている為に同時遂行は出来ないが、雇主はラウルも監視対象にしている。
現況から逆算すると、エスパニでの急変を以前から知っていたのではないか、と推測される。
想定外だったのはラザレがラウルの同行に、監視者のオフェリアを指名したことだった。
選ばれた理由――そこにオフェリアは気づけなかったが故に災難に巻き込まれる事となる。
ラザレが『知っていた』のなら――
自身に不要な人物に行かせるのが最も合理的なのだと。
ガリバル隧道に到り、再び二択に迫られた時に気付けていれば――
元より自身の職務を優先して、若い雛鳥を見捨ててさえいれば――
互いを想いながら、互いを危険に晒し続ける、苦境には至らなかったのかもしれない。
***
「……はい? ラウル様、今なんと?」
「えっと……ですから、オフェリアさんは先にパルベスへ戻って貰っても大丈夫ですよ?
セバールまでは安全ですし、伝令に行くだけですから一人でも――」
「――何言ってるんですか! 何の為にミーユを走らせたと思ってるんです!?」
「えええ!? そ、それは急を要するから……ですが、彼女ももう着いてると思いますし、
ラザレさんが人員を送ってくれると思いますから……」
「はい!? 本気で言ってるんですか!?」
苛立ちを隠せないオフェリアは、他人に見せた事が無い剣幕で捲し立てる。
「本来貴方は真っ先に安全な場所に退避すべき立場の人です! 調査からしてそうです!
貴方が引き受ける必要なんてそもそもないんですよ? 領主の自覚はありますか!?」
「そ、それは……僕には責任がありますから……この事態だって全ては兄が――」
「粗末な粗忽者のことなんてどうでもいいんです!」
「そまっ……! そこっ……?」
「無礼を承知で言わせて頂きます! 貴方は領主や貴族に必要な資質を理解してません!
貴方達は平民や戦人を盾にしてでも生き延び無ければならないんです!」
「オフェリアさん! それは違います!! い、いえ……違わないかも知れませんけど……
僕にはそれが正しいと思えません! 貴女を盾にして逃げるなんて有り得ない!」
「私の事なんてどうでも良いんです! 貴方は――」
「――良くないんですよ!!!! 全然良くない!」
初めて見せるラウルの激昂に慄いた馬が前脚を翻し、オフェリアは手綱を片手で引き絞る。
「どぅどぅ……馬が怯えます。落ち着きましょう……申し訳ありません、私もですね」
「はぁ……はい、そうですね」
「……言い方はともかく伝えたい事は伝わっていると思いますので、一から説明しますね。
私が言いたいのは、今の状況で最も優先すべきは貴方の命だということです」
「ですからそれは!」
「最後まで聞いてください。あの豚……じゃなくて元老長は無事では済んでないでしょう。
報告が事実ならマドールにも敵が押し寄せてます。お父上の安否も定かではありません」
「そ、そんな……すぐマドールへ行きましょう! 父上を助け――」
「――違うでしょう! それで貴方まで命を落としたら、エスパニはどうなるんです!?」
互いを案じる二人の齟齬は、対象の相違により平行線のままセバールまで続く事になる。
***
「小僧! お嬢様を連れて退くんじゃ!! お主らもじゃ! 退けええええ!!」
時同じくし、緑を灰が包んだ直後――バスターは駆け出さんとするグロリアの腕を掴んだ。
「離してください!! 爺が! 行かないと!!」
「バカ言うな! 聞こえなかったのか!! 言う通りにしろ! 逃げるぞ!」
「嫌!! 爺はただの執事なんです! 助けに行かないと!!」
「あの爺さんがそんなタマな訳ないだろ!! くっそ……こうなりゃヤケだ!!」
グロリアの腹部に腕を回したバスターは、軽く肩に担ぎ上げ、鎌を寝かせ踵を返した。
「な、何するんですか! 離……ど、どこ触ってるんですか!!」
「痛てっ、叩くな! 後で幾らでも謝ってやる! 舌噛むから大人しくしとけ!!」
強く腰紐を握るバスターの拳に観念したグロリアは、抵抗を止めて後方の噴煙を見送った。
あちこちから聞こえる狂乱恐慌の声は、徐々に遠ざかり――やがて聞こえなくなった。
四半刻走り続けたバスターは、力を使い果たし地に突っ伏して肩を激しぐ上下させていた。
降ろされたグロリアは責める事も出来ずにポーチから小瓶を出し、手渡す。
「……飲んでください」
「っはぁはぁ……ん……ああ……」
歯で咥え抜いたコルクをプッと吹き捨て、クリトリアで色付けされた薄青の液を流し込む。
色で区別されるポーションの効果で回復したバスターは、後方の静けさを見て座り込んだ。
「ふぅ……お嬢、ここはどの辺だ? だいぶ距離は稼いだと思うが……」
「……もう少ししたらセバールへ付きます。それより……どうして止めたんですか?」
「はぁ? そう言われたからだろ? 俺等のパーティーリーダーは爺さんだっただろうが。
私情で戦人の鉄則を見失ってんのは、むしろお嬢の方だぞ?」
「そ……それは。け、けど私達が行けば助けられたかも知れないじゃないですか!」
「それを私情だって言ってんだよ。何で爺さんが俺等を逃がしたか、もう一度よく考えろ。
俺等より先に逃げてった奴らはどこへ向かったんだ?」
「そ、それは……セバールかと……」
「だよな。何が迫ってんのかは分からんが、爺さんはその《何か》を抑える為に戦ってた。
『逃げろ』ってのはつまり抑えきれなかったってことだ。ならアンタの役目はなんだ?」
真っ直ぐ見上げるバスターの真剣な眼差しに気圧されずに見返して、グロリアは答えた。
「お父様に事態を伝えて、彼等を受け入れられるように……すること」
薄く笑って立ち上がったバスターは、俯くグロリアの頭に手を乗せ、軽く二回ノックした。
***
「ラウル様! ミーユが戻りました!」
セバール郊外、丘陵地帯の整地指揮を執っていたラウルの元に、オフェリアが駆けつけた。
背後には数台の荷馬車をミーユが先導し、一直線にこちらへ向かって来るのが見える。
「良かった! ラザレさんは支援を送……ってアレ? 衛兵は来てないんですか?」
「それが……」
オフェリアが聞いたミーユの報告は『人が足りないので物資のみ送る』というものだった。
事実パルベスは関門街に過ぎず規模的に衛兵が少なく、街に常駐している戦人も多くはない。
しかし領主不在で代理権限を持つメイヤーが、周辺の街に臨時招集をかける事は難しくない。
ここに《ギルドが無い城塞市とギルドを持つ衛星市》の歪な構造が凝縮されている。
この時ラザレが支援として送りつけた物、それは食料と大量のテントだった。
「……人手が来ないのは厳しいですが、これはこれで助かります……よね?」
荷下ろしされた山積みの物資を見て、渋そうに唇に指を当てるオフェリアは答えに迷った。
確かに物資は有難い――そこは間違いは無いが、問題は何一つ解決していない。
むしろ殺到する難民を、領内で最も遠方とは言え地理的に袋小路のセローナに留まらせる、
そのリスクが気にかかる。いざとなれば東の橋を落とせば月明崖からの侵入は阻止出来るが、
結局は南のガリバル隧道からセバール方面の、要道を抑えなければ窮地に変わりはない。
そんな状況でのラザレの贈り物は、オフェリアには――窮地に縛る為の鎖にすら見えた。
「……ラウル様。ここはミーユに任せて、私達はセバールへ向かうべきかも知れません」
「えっと……なぜです? あちらはソレル卿が対応しておられるかと思いますが」
「ここでは状況が分からないというのもありますが……
セバールが陥落してしまった時は、セバル橋かロレル橋を落とす必要が……」
「そ、それはダメです! 街が落ちた時には避難民が殺到してくるんじゃないですか!?
彼等の逃げ道が無くなってしまいます!」
「勿論出来る限り逃げた後にはなりますが……追撃を防ぐ為にはそれしかないんです」
「けど、それじゃ……」
「ええ。全ての人を助ける事は難しいでしょうし取り残されて犠牲になる人は必ず出ます。
しかし……そうしないと、隧道まで到達されてしまったら……」
続きは言わずともラウルにも分かっていた。
セビリスへ達したら、その時はノアールゲートまでの南エスパニも戦火に見舞われるのだ。
実際にはそこまでの意図は無い帝国の侵攻だったが、この時点では誰も知る由もない。
***
セローナからセバールへと再び馬を駆り、坂道を下るラウルとオフェリア。
深緑崖から難民を追い隘路を進み、セバールへ向かうバスターとグロリア。
二組四人の男女が要所で夜を明かした翌日、早朝に事態は激しく動き始める。
防塞の設営を開始していたフリオ達の元に、バスター達が駆けこんで来たのは、夕方の頃。
報告を受けてから採用した姑息な対抗策だったが、深緑道の攻防の結末を知らなかった彼は、
それが僅かな時間稼ぎにもならない事を未だに知らなかった。
故にフリオはここで決定的な過ちを犯してしまう。
時間を稼いで居る間に、住民を逃がす役目をオフェリアに任せたのは単に親心からであり、
恐らくそれくらいの猶予はあるだろう、という目測を外した理由が大きく二つある、
一つはセバールへの伝令ミーユが、第二師団の先鋒の槍騎兵しか目視していなかったこと。
そしてもう一つは、セバール西から王道を経て至るドリードが――真っ先に陥落したこと。
ドリードを治めるグレンデス領主セザール・グレンゼスは、この事変の序盤にて退場した。
指揮者の居ない街は、槍歩兵の分隊だけで瓦解し制圧されてしまったのだ。
対してラウルとオフェリアは既にこの時点でセバールに到着しており、翌日の報告に備え、
西門近くの宿で身体を休めることにした。
この時に時刻や領主への礼儀を重んじる事をせずに、疲労を押して防衛に加わっていれば、
あるいは未来は変わったかもしれない。好転したのか暗転したのかは分からないが。
ただ一つ言える事は、その場合ラウルが命を落としていた可能性は高いだろう。
フリオ・ソレルが率いるセバール防衛部隊、数十名。
住民を説得し、避難指揮する為に早朝街に入ったバスター・ロガーとグロリア・ソレル。
朝食を取った後、宿を出て異変を察したラウル・エスパニョールとオフェリア・ミルス。
そしてドリードからの難民を率いて、夜通し王道を南下していたフェニクセイジの二人。
明けて角兎月の三日目、角兎刻から始まったセバール戦役は、
方面の防衛線に過ぎないが、被害の大きさから――
ジャッカリーキャンペインと呼ばれ語られる、時代の転機となった。
エスパニ全土に吹き荒れた『レ・リベラール』と号する長い戦いの幕開けである。
レネ山脈とイベル渓谷に挟まれ切り立った道を先行し上下するラウルの背を見上げながら、
オフェリアの胸中は相反する二つの心で揺れていた。
本来セビリス――領主不在によりパルベスギルド――への伝令を担うべき職にいる彼女が、
依頼に理由を付けて断り、ミーユに代理を任せた事は妥当とは言えない。
戦人に過ぎないミーユがフリオの書状を手渡した所で、狡猾なメイヤーラザレに篭絡され、
援兵を送るなんて事にはならないだろう。
ラザレは上役のラウルを軽んじていた節があるが、本来護衛を付けるべき案件に
ギルド嬢を付けた事からもそれが伺える。
そんなラザレの裏をオフェリアが最もよく理解しており、だからこそラウルの身を案じた。
純朴ながらも意外と聡明で、何より貴族らしくない、どことなく戦人に近いラウルに対して、
育成紛いな講釈まで垂れた理由は、ただ『好印象だった』からに他ならない。
オフェリアはそんなギルド嬢としての理念だけを口実に、ラウルへの同行を優先した。
しかし一抹の不安が無いわけでは無かった。
パルベスへ赴任し直属の上司となったラザレに対しては油断出来ないという印象しかない。
職員を叱りつける横柄さは無くギルド嬢の評判も良い。間延びした口調も一見愛嬌がある。
しかし貼り付いたように崩れない笑顔の裏に垣間見える疑心と牽制がオフェリアには解る。
『柔和』を被って潜入した彼女こそが、誰よりも巧言を警戒していたからだ。
しかし確証は何一つない。今まで聞かされた複数の情報が噛み合うには十分とは言えない。
白銀海崖を封鎖した理由、詳細を説明しなかった思惑、
そして――監視の指示。
ラウルへの同行を指示された直後に確認したソーンガードリーダー・シェーラの封書には、
《南エスパニ領主ラウル、パルベスメイヤーラザレの監視》が明記されていた。
現在は場所が離れている為に同時遂行は出来ないが、雇主はラウルも監視対象にしている。
現況から逆算すると、エスパニでの急変を以前から知っていたのではないか、と推測される。
想定外だったのはラザレがラウルの同行に、監視者のオフェリアを指名したことだった。
選ばれた理由――そこにオフェリアは気づけなかったが故に災難に巻き込まれる事となる。
ラザレが『知っていた』のなら――
自身に不要な人物に行かせるのが最も合理的なのだと。
ガリバル隧道に到り、再び二択に迫られた時に気付けていれば――
元より自身の職務を優先して、若い雛鳥を見捨ててさえいれば――
互いを想いながら、互いを危険に晒し続ける、苦境には至らなかったのかもしれない。
***
「……はい? ラウル様、今なんと?」
「えっと……ですから、オフェリアさんは先にパルベスへ戻って貰っても大丈夫ですよ?
セバールまでは安全ですし、伝令に行くだけですから一人でも――」
「――何言ってるんですか! 何の為にミーユを走らせたと思ってるんです!?」
「えええ!? そ、それは急を要するから……ですが、彼女ももう着いてると思いますし、
ラザレさんが人員を送ってくれると思いますから……」
「はい!? 本気で言ってるんですか!?」
苛立ちを隠せないオフェリアは、他人に見せた事が無い剣幕で捲し立てる。
「本来貴方は真っ先に安全な場所に退避すべき立場の人です! 調査からしてそうです!
貴方が引き受ける必要なんてそもそもないんですよ? 領主の自覚はありますか!?」
「そ、それは……僕には責任がありますから……この事態だって全ては兄が――」
「粗末な粗忽者のことなんてどうでもいいんです!」
「そまっ……! そこっ……?」
「無礼を承知で言わせて頂きます! 貴方は領主や貴族に必要な資質を理解してません!
貴方達は平民や戦人を盾にしてでも生き延び無ければならないんです!」
「オフェリアさん! それは違います!! い、いえ……違わないかも知れませんけど……
僕にはそれが正しいと思えません! 貴女を盾にして逃げるなんて有り得ない!」
「私の事なんてどうでも良いんです! 貴方は――」
「――良くないんですよ!!!! 全然良くない!」
初めて見せるラウルの激昂に慄いた馬が前脚を翻し、オフェリアは手綱を片手で引き絞る。
「どぅどぅ……馬が怯えます。落ち着きましょう……申し訳ありません、私もですね」
「はぁ……はい、そうですね」
「……言い方はともかく伝えたい事は伝わっていると思いますので、一から説明しますね。
私が言いたいのは、今の状況で最も優先すべきは貴方の命だということです」
「ですからそれは!」
「最後まで聞いてください。あの豚……じゃなくて元老長は無事では済んでないでしょう。
報告が事実ならマドールにも敵が押し寄せてます。お父上の安否も定かではありません」
「そ、そんな……すぐマドールへ行きましょう! 父上を助け――」
「――違うでしょう! それで貴方まで命を落としたら、エスパニはどうなるんです!?」
互いを案じる二人の齟齬は、対象の相違により平行線のままセバールまで続く事になる。
***
「小僧! お嬢様を連れて退くんじゃ!! お主らもじゃ! 退けええええ!!」
時同じくし、緑を灰が包んだ直後――バスターは駆け出さんとするグロリアの腕を掴んだ。
「離してください!! 爺が! 行かないと!!」
「バカ言うな! 聞こえなかったのか!! 言う通りにしろ! 逃げるぞ!」
「嫌!! 爺はただの執事なんです! 助けに行かないと!!」
「あの爺さんがそんなタマな訳ないだろ!! くっそ……こうなりゃヤケだ!!」
グロリアの腹部に腕を回したバスターは、軽く肩に担ぎ上げ、鎌を寝かせ踵を返した。
「な、何するんですか! 離……ど、どこ触ってるんですか!!」
「痛てっ、叩くな! 後で幾らでも謝ってやる! 舌噛むから大人しくしとけ!!」
強く腰紐を握るバスターの拳に観念したグロリアは、抵抗を止めて後方の噴煙を見送った。
あちこちから聞こえる狂乱恐慌の声は、徐々に遠ざかり――やがて聞こえなくなった。
四半刻走り続けたバスターは、力を使い果たし地に突っ伏して肩を激しぐ上下させていた。
降ろされたグロリアは責める事も出来ずにポーチから小瓶を出し、手渡す。
「……飲んでください」
「っはぁはぁ……ん……ああ……」
歯で咥え抜いたコルクをプッと吹き捨て、クリトリアで色付けされた薄青の液を流し込む。
色で区別されるポーションの効果で回復したバスターは、後方の静けさを見て座り込んだ。
「ふぅ……お嬢、ここはどの辺だ? だいぶ距離は稼いだと思うが……」
「……もう少ししたらセバールへ付きます。それより……どうして止めたんですか?」
「はぁ? そう言われたからだろ? 俺等のパーティーリーダーは爺さんだっただろうが。
私情で戦人の鉄則を見失ってんのは、むしろお嬢の方だぞ?」
「そ……それは。け、けど私達が行けば助けられたかも知れないじゃないですか!」
「それを私情だって言ってんだよ。何で爺さんが俺等を逃がしたか、もう一度よく考えろ。
俺等より先に逃げてった奴らはどこへ向かったんだ?」
「そ、それは……セバールかと……」
「だよな。何が迫ってんのかは分からんが、爺さんはその《何か》を抑える為に戦ってた。
『逃げろ』ってのはつまり抑えきれなかったってことだ。ならアンタの役目はなんだ?」
真っ直ぐ見上げるバスターの真剣な眼差しに気圧されずに見返して、グロリアは答えた。
「お父様に事態を伝えて、彼等を受け入れられるように……すること」
薄く笑って立ち上がったバスターは、俯くグロリアの頭に手を乗せ、軽く二回ノックした。
***
「ラウル様! ミーユが戻りました!」
セバール郊外、丘陵地帯の整地指揮を執っていたラウルの元に、オフェリアが駆けつけた。
背後には数台の荷馬車をミーユが先導し、一直線にこちらへ向かって来るのが見える。
「良かった! ラザレさんは支援を送……ってアレ? 衛兵は来てないんですか?」
「それが……」
オフェリアが聞いたミーユの報告は『人が足りないので物資のみ送る』というものだった。
事実パルベスは関門街に過ぎず規模的に衛兵が少なく、街に常駐している戦人も多くはない。
しかし領主不在で代理権限を持つメイヤーが、周辺の街に臨時招集をかける事は難しくない。
ここに《ギルドが無い城塞市とギルドを持つ衛星市》の歪な構造が凝縮されている。
この時ラザレが支援として送りつけた物、それは食料と大量のテントだった。
「……人手が来ないのは厳しいですが、これはこれで助かります……よね?」
荷下ろしされた山積みの物資を見て、渋そうに唇に指を当てるオフェリアは答えに迷った。
確かに物資は有難い――そこは間違いは無いが、問題は何一つ解決していない。
むしろ殺到する難民を、領内で最も遠方とは言え地理的に袋小路のセローナに留まらせる、
そのリスクが気にかかる。いざとなれば東の橋を落とせば月明崖からの侵入は阻止出来るが、
結局は南のガリバル隧道からセバール方面の、要道を抑えなければ窮地に変わりはない。
そんな状況でのラザレの贈り物は、オフェリアには――窮地に縛る為の鎖にすら見えた。
「……ラウル様。ここはミーユに任せて、私達はセバールへ向かうべきかも知れません」
「えっと……なぜです? あちらはソレル卿が対応しておられるかと思いますが」
「ここでは状況が分からないというのもありますが……
セバールが陥落してしまった時は、セバル橋かロレル橋を落とす必要が……」
「そ、それはダメです! 街が落ちた時には避難民が殺到してくるんじゃないですか!?
彼等の逃げ道が無くなってしまいます!」
「勿論出来る限り逃げた後にはなりますが……追撃を防ぐ為にはそれしかないんです」
「けど、それじゃ……」
「ええ。全ての人を助ける事は難しいでしょうし取り残されて犠牲になる人は必ず出ます。
しかし……そうしないと、隧道まで到達されてしまったら……」
続きは言わずともラウルにも分かっていた。
セビリスへ達したら、その時はノアールゲートまでの南エスパニも戦火に見舞われるのだ。
実際にはそこまでの意図は無い帝国の侵攻だったが、この時点では誰も知る由もない。
***
セローナからセバールへと再び馬を駆り、坂道を下るラウルとオフェリア。
深緑崖から難民を追い隘路を進み、セバールへ向かうバスターとグロリア。
二組四人の男女が要所で夜を明かした翌日、早朝に事態は激しく動き始める。
防塞の設営を開始していたフリオ達の元に、バスター達が駆けこんで来たのは、夕方の頃。
報告を受けてから採用した姑息な対抗策だったが、深緑道の攻防の結末を知らなかった彼は、
それが僅かな時間稼ぎにもならない事を未だに知らなかった。
故にフリオはここで決定的な過ちを犯してしまう。
時間を稼いで居る間に、住民を逃がす役目をオフェリアに任せたのは単に親心からであり、
恐らくそれくらいの猶予はあるだろう、という目測を外した理由が大きく二つある、
一つはセバールへの伝令ミーユが、第二師団の先鋒の槍騎兵しか目視していなかったこと。
そしてもう一つは、セバール西から王道を経て至るドリードが――真っ先に陥落したこと。
ドリードを治めるグレンデス領主セザール・グレンゼスは、この事変の序盤にて退場した。
指揮者の居ない街は、槍歩兵の分隊だけで瓦解し制圧されてしまったのだ。
対してラウルとオフェリアは既にこの時点でセバールに到着しており、翌日の報告に備え、
西門近くの宿で身体を休めることにした。
この時に時刻や領主への礼儀を重んじる事をせずに、疲労を押して防衛に加わっていれば、
あるいは未来は変わったかもしれない。好転したのか暗転したのかは分からないが。
ただ一つ言える事は、その場合ラウルが命を落としていた可能性は高いだろう。
フリオ・ソレルが率いるセバール防衛部隊、数十名。
住民を説得し、避難指揮する為に早朝街に入ったバスター・ロガーとグロリア・ソレル。
朝食を取った後、宿を出て異変を察したラウル・エスパニョールとオフェリア・ミルス。
そしてドリードからの難民を率いて、夜通し王道を南下していたフェニクセイジの二人。
明けて角兎月の三日目、角兎刻から始まったセバール戦役は、
方面の防衛線に過ぎないが、被害の大きさから――
ジャッカリーキャンペインと呼ばれ語られる、時代の転機となった。
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