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第三部 崩墜のオブリガード
43.背筋に凍みる炎塵
しおりを挟む永遠にも等しい開闢の後、イベリス郊外の段丘に伏せる三つの人影が――俄かに動き始める。
両手で耳を抑えながら見上げたヴィーノの視野を遮っていた幕は、黒い噴煙と共に剥がれ落ち、
内圧に耐えかね――
まるで音も無く感じる程、あるがままに天高く解き放った。
「っく……み、耳が……アーアー、おい! ルッチ! メリー! 大丈夫か!」
「な……んっ……ヴィ、ヴィーノさん! っスかこれ!?」
「ヴィーノ! 上! 空から……何か降って――」
メリーの言葉尻を踏み潰すように降り襲って来た雨礫は、城内に存在した様々な物質を伴い、
致命傷は与えないながらも確実に不快と苦痛を三人に強い続ける。
「い! 痛てっ!! な、なんスかこりゃ……!」
「っく……な……んだこの匂いは……錆びたような……」
頭部を守っていたヴィーノは額を伝う生暖かい液体を、人差し指で掬い取る。
黒とも茶とも赤とも言えない砂利を含んだそれは――
その質感と異臭が全てを物語っていた。
「……!! おい! すぐここを離れるぞ!!」
「な、何よ急に! アンタ、イベリスに忍び込むんじゃなかったの!?」
「それどころじゃねぇメリー! 見て分かんねぇか!? 城内はもう……」
「ど、どういう事っスかヴィーノさん! イベリスが何だってんスか!」
「細かいことは分からんが……大分収まって来たな。とにかくこっち来い」
呼ばれてヨロヨロ這い寄るルシアノとメリーに、ヴィーノは指に付いて乾いたソレを見せる。
怪訝そうに指の後に互いを見合わせた二人は、眼前にある互いの容貌を相見て驚愕した。
「あ、アンタ……どっか怪我したの!?」
「そりゃお前だろ! 血だらけじゃねぇか!!」
そして同時にヴィーノの方に振り返ると、状況を遅ればせながら把握する。
「ヴィ、ヴィーノさん……アンタも……いや……これって」
「ああ……俺等がどうこうってんじゃねぇ。こりゃ城内から吹っ飛んできたもんだ」
「ちょ、ちょっと……じゃぁイベリスは……」
メリーの問いに、ヴァンは答えなかった。そしておもむろに坂の上を指差す。
「今から登坂してクロヴィレ方面に行くのは危険だな……ルメールにも報告した方が良い。
ルッチ、船で街まで急いで戻るぞ」
「む、ムリっスよ! 下りだから大人三人でも行けましたが、遡上なら一人でギリっス」
「そうか……迂回路はあるか? 出来るだけイベリスから遠い道の方が良い」
少し悩んだルシアノは腕で顔を拭い、先導しながら河岸沿いを北へと駆け出した。
***
ルメール北東に位置するルコルノ樹林は上質なオーク材の産地だったが、
イベリス側による過度な伐採により無残な荒地を晒していた。
疎らに残る切株、放置された枯れ枝、剥き出しになった地肌、餌場を失い消えた動物達――
皮肉な事にそれら全てがヴィーノ達の逃避行を手助けする形となった。
動植物が居ないと言うことは猛獣や猛禽も寄っては来ない。それでも悪路と傾斜で疲弊して、
野営を挟みルメールに到着した時には、既に日を跨いでいた。
埃まみれ血まみれの三人が奇異の目を払い、
街中を駆け抜けて河畔の領主館に辿り着いた時、日は輪環蛇が互いを追う頃に差し掛かっていた。
領主館と呼ぶには実用性や利便性を重視した質素な平屋は、閑散とした魚市場の様相を呈し、
屈強な男達が疎らに行き来して、河に浮いた魚や桟橋を侵食する汚泥の除去に勤しんでいる。
その中心で指示を出す一人の大男が――アラニス領主、ルシオ・アラニスだった。
「お、親父い! た、大変だ!! イ、イベリスが……!」
「んだぁルッチ! 小汚ねぇ格好しやがって……なんだ? そっちの連中は」
「ああ、この人らは……ってそんな事はどうでも良いんだよ! イベリスが!」
「落ち着けってんだ! ほれ、とりあえず顔拭け。そういや何かデケェ音がしてたな?」
ルシアノは手渡された手拭い――ルシオが首に掛けていた――を受け取ると、嫌々顔を拭う。
ベッタリと付着する黒い赤を見て、ここに至るまでの過酷な道中を思い出す。
順を追って父親であり領主であるルシオに経緯を説明する間、誰も口を開かなかった。
「……あんなにデケェ町が一瞬で崩壊するたぁ、信じらんねぇ……」
「現実だ……アンタは領主として決断しなきゃなんねぇぞ」
話の途中、部下が手渡した手巾で遅ればせながら顔や手、腕と露出部を拭いたヴィーノが、
首を捻り懊悩するルシオに釘を刺す。ルシオは訝し気に腕を組む。
「……アンタぁ何者だ? この辺じゃ見ねぇ面だが」
「この前話したろ親父! 叔父上の代わりにルメール視察に来たヴィーノさんだっての!」
「ああ、アンタが……イベリスに忍び込もうとしてんだって? 何だってそん――」
「――そんなことはどうでも良いのよ! ルメールはどうするのか聞いてんの!」
「何だ嬢ちゃん! キャンキャン吠えんじゃ……ありゃ、オメェ……どっかで」
顔を逸らすメリーを覗き込むルシオの肩を掴んで、ヴィーノは真顔で声を落とした。
「……これは予想だが、イベリスを落としたのは帝国だぞ。素直に考えりゃ分かる事だが、
閉鎖された町を内から破壊出来る勢力なんて他には考えられん。つまりだ……」
『すぐにもここに押し寄せるぞ』というヴィーノの言葉に、ルシオは胸倉を掴んで返した。
「な、何言ってやがる! こんな寂れた灰まみれの町に何の用があるってんだ!」
「目的か……正直分からん。領土なのか、金銭なのか……それとも人なのか。
とりあえずは向こう様の視点で考えてみるんだ。何にせよイベリスを破壊する必要があるか?」
思考と共に緩んだルシオの手から、スルっと滑り降りたヴィーノは首筋を擦りながら続けた。
「……単純に帝国兵がイベリスを占拠したって話ならまだ解る。
あそこを拠点にエスパニを手中に収めようって腹だろうからな。だが実際は根絶やし――」
「――帝国は……エスパニを手に入れようとは思ってないってこと?」
黙るルシオの代わりに答えたメリーの疑念の中にも、まだ明確な答えは生まれて居なかった。
ルシアノは戸惑いながら問答する三人の姿を順に見回し、最後にルシオが重い口を開いた。
「……クソが……目的が領地じゃねぇって事は……んなもん答えは一択じゃねぇか」
「ど、どう言う事だよ親父!! 奴らの目的って何なんだ!」
「ルッチィ……さっきそこの兄さんがハッキリ言ったろうが……イベリスを破壊してんだ。
土地や銭金でもねぇ、とすりゃぁ……って話だろうがよ」
「ま、まさか……」
掌で口を覆ったメリーを一瞥して、少し考えるような仕草を取ったヴィーノは更に続ける。
「いや……俺も最初はそう考えた。けど、なら尚更壁に覆われたイベリスを破壊するか?
そんな必要があるか? 元々牢屋みたいな街だ。領主を処理すれば済むと思わないか?」
「そ、そうね。住民が目的では無いってことよね……」
「け、結局どういうことなんスか、ヴィーノさん!?」
「オメェも少しは自分で考える癖を付けろルッチ。兄さん、スパッと言ってやってくれや」
ルシオの諦め顔に、ヴィーノは一瞬言い淀んで、考えて言葉を選んだ。
「これは……あくまで予想だが。目的は……都市でも領地でも財産でも……人間でも無い。
とすりゃ……行動そのものが目的としか考えられねぇ」
「行動? それって町を破壊したこと? そんなことして何の意味があんのよ」
「意味を求めるなメリー。結果だけを見ろ。俺等はイベリスで一体何を見た?」
「何って……なんか黒い幕が空……って……アンタ、まさか……」
何かに気付いたメリーに、目を伏せて追認したヴィーノが確信を、全員に一言で告げる。
「ありゃ……実験だ」
***
「だから!! 避難しなきゃマズいだろ親父! 他の町にも知らせなきゃよ!」
「バカやろう! 領主の俺がルメールを放って余所に行けるか! 死守すんだよ!」
「む、ムリよ! 守るならマドールに退かなきゃ! ここじゃ守り切れない!」
触発されたように長々喧々諤々と言い争いを続ける三人を、ヴィーノは顎を擦りながら眺め、
そして考えていた――現状の最善を。
情報が少なすぎて判断がしづらい上に、対抗出来る手札が無い。選択肢はそう多く無かった。
ヴィーノの頭に浮かんだ案は、比較的効果があるであろう3つ。
《防衛》に重きを置くのであれば、今すぐにでも東のルメール大橋を抑えなければならない。
《避難》を選んでも民衆を連れて危険な月明崖を抜けなければならず、困難な道のりとなる。
《伝達》を選ぶのであれば、現地状況を理解しているヴィーノ達三人が分散する必要がある。
どれも重要で、どれもがリスクのある事だった。
「よし……分かった。全部やろう!」
「はぁ? 何言ってんのよアンタ! 無理に決まってんでしょ!」
「そ、そうですよヴィーノさん! 一つに絞らないと!」
同時に食って掛かるルシアノとメリーの額を指で弾いたヴィーノは、ルシオを見据えた。
「アンタはアラニス領主だろ? ルメールもだが、領内の他の町にも責任があるはずだな?
ならどれを見捨てても、その責務を果たしているとは言えない。違うか?」
「そ、そりゃぁ……そうだが。つっても一体どうすりゃ良いってんだ?」
「正直被害をゼロにするのは無理だ。だからそこんとこは最初から覚悟しておくしかない。
その上で優先して守らないといけないのは何だ? 戦えない女子供だ。そうだな?」
「お、おう! 俺等野郎共は、最後の一人になっても戦う覚悟は出来てるぜ!」
「アラニス卿……そうじゃねぇ。アンタも死んじゃダメだ。旗が折れたらそこで終わる」
「お、おい! ど、どうしろってんだ!」
「良いか、少し長くなるが一回しか言わないから、みんなよく聞いてくれ」
そしてヴィーノは、アラニス領主ルシオ、その息子ルシアノ、同行人メリーに方針を話した。
3つの対抗策を分散して同時進行させることで、
出来る限りのアラニス領の住民を月明崖からセローナへ退避させるという基本方針に沿う、
その流れを。
そしてその分岐によりアラニス領は大きな天秤の上で揺れる事となる。
***
必要最低限の武装だけを持ってルメールから小走りでルメール大橋の袂で息を整えていた頃、
日は一角馬が水辺に微睡む頃に差し掛かっていた。
「ハァハァ……ヴィーノ! 本当にこれで良かったの!? 防衛に加わった方が――」
「ふぅ……ルシアノがダルシアに行った以上、こっち方面は俺かお前じゃなきゃ無理だろ!
あの親子には連中を纏めて貰って、急いでルメールに防壁を築いて貰わなきゃならねぇ!」
「そ、それはそうだけど……間に合うの!?」
「どうだろうな……馬が使えりゃ良かったんだが、そもそもルメールは漁港で馬屋がない。
街道沿いでも無いから必要最低限の荷馬しか無いってんじゃ、流石に無理は言えんさ」
「けど、クロスビレッジはアンタが行く必要ないでしょ! 誰でも良いんだから!」
「そうは行かねえよ。代案を出した俺が一番危険な所に行かなきゃスジが通らないだろ」
「で、でも……それじゃアンタが」
事前の打ち合わせで決めた役割――メリーはグランリバー沿いを遡ってマドールへと向かい、
ヴィーノはクロスキャンプへと避難勧告に走り、ルシオが折を見て橋を封鎖する。
互いの任務の岐路に差し掛かって、本来ここまで同行する理由など何一つ無かったメリーは、
場合によっては最後になるかもしれない対話を、今更試みようとしていた。
それは『逃げて欲しい』という言葉を、思いを飲み込んだまま離れられなかったからだった。
「まぁ俺はこれでもしぶとい方だからな。戦闘に自信が無いから、逃げ足だけは速いんだよ。
そういう判断が出来るかどうかってのも伝令には重要でな。ルメールの連中じゃ無理だろ」
「それは……そうかも知んないけど! け、けど!」
「メリー、解ってくれ。これ以上問答してる暇は無いんだよ。マドールはお前にかかってる。
ディエゴに伝えてすぐに北門を封鎖して防衛してくれ。あそこを抜かれたら終わりだ」
「そ、そんな事言ったらマドールだけじゃないでしょ! グレンデス領だって!」
「まぁそれはそうだがな、経路的に一番最初に到達するのはマドールだ。
そこで抑える事が重要だってのはお前も理解してんだろ。
何をゴネてるのか知らんが良いから行け!」
「わ……分かったわよ! アンタ……死なないでよ! 言いたい事山ほどあんだから!」
「わーったわーった。次会った時にゆっくり聞いてやるよ」
手をひらひらと振るヴィーノを睨みつけて、メリーは河沿いを駆けて去って行った。
その後ろ姿を何となく懐かしそうに見送ったヴィーノは、再び視界の奥に橋を見据えた
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