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第二部 擾乱のパニエンスラ

36.街という名の牢獄

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 イベリスは大河沿いの斜面を利用して建造された港湾都市で、それを高い城壁で覆ったのは、
あの悪名高い――元老長イサークである。


 東の河岸から唯一の通用門である西門まで扇状に広がる大都市は、
連なる石壁を外堀が包み、傾斜を利用した地下水路が排水を港に流すという、
浄水整備が重視された王国の中でも珍しく、下水道が採用された歴史がある。

 こんな最果てまで来る羽目になった理由は、ただの使用人の《願い》を受けてだった。



 帝国皇女、とは言え罪人の護送にわざわざ王子が出向く必要は無い。

衛兵で事足りる任務だ。

姉――王の命も一度は断った。だが俺は何故かここに居る。

 『お願い――』と覗き込んだリコの屈託の無い眼差しを思い出すと、無性に心が騒めく。


 不躾なガキで余りにも世間を知らず、呆気に取られることも多い。
とはいえ、嫌いでもない。アレの表情からは嘘や怖れが感じられないからだ。
疑念渦巻く城内で生きて来た俺にとっては、
《嫌いじゃない》が何気に難しく、そして珍しい。


 この忌々しい黒髪を格好良いとかほざく無神経さも、女王を親しげに名前で呼ぶ無遠慮さも、
薄ら笑いを浮かべる官僚や顔色を伺うメイド、露骨に牙を剝く豚より遥かにマシだ。 


 そしてそんな許容とは別の、暗い感情があることも自覚している。


 純粋に支配された無垢に人間の汚い部分を見せて、《染めて》やりたいという醜い願望――


 そして恐らくは、皇女の身ながら単身潜入を、意味も知らされずに押し付けられたこの女も、
恐らく釈然としない思いを抱えているだろう。
あれ程の戦闘術は幼い頃から義務に責任を重ね、
口から無理矢理詰め込まれるように叩き込まれたはずだ。何も求めず、何も欲さずに。


 この女は俺と似ている。
色んな要素で相容れることはないがリアーナがリコに多少なりとも、
気を緩めてしまうのは多分同じ理由なのだろう。

 ……だからといってどうという事はない。
女王の指示で受け入れ態勢を整えているであろう、豚に女を引き渡して帰る、
それで終わる話で重要なのは、その先だ。


 王都に戻ったらすぐに自分の駒を増やす必要がある。
野心を隠さない――奴に対抗する為に。

今思えばリコの入隊を許可したのも心中にスッと入り込む、あの性質が使えると思ったからだ。
何故か姉に執心して城に残った大男に関しても同じ理由に過ぎない。


 そう、それだけだ。友達だ何だと戯言を姉が言っているのだと思うと、
何を今更――という、暗い思いが沸々と湧きあがる。


 俺を孤立させたのは他の誰でも無く姉さんじゃないか! 
母さんが死んで……兵も遠ざけて、居場所すら奪われて
城内で生きていくには、こうなるしか――



 いつもの陰鬱な脳内描写を繰り広げていると時間が経つのも早く、郊外の馬房へと到着した。
この馬房という存在が実に面倒で、ここから先は徒歩になる。

 王国の各都市は基本的に安全面や衛生面で馬の乗り入れが禁止されているからだ。


 街の中央を縦断する大通りのみ通行出来たマドールは特殊な例で、
大半は馬房で預けてから、別の門で馬車を乗り継ぐ手間を取る。

 各都市で禁止する理由は異なるが、都市の建造の際に害獣や外敵の侵入を防ぐという建前で、
構造や立地を選定したルールやプルーブは理解出来る。

 恐らくルール州都ロレントは西部からの、プローブはアルヘ区外からの侵入を阻む為だろう。
しかしイベリスは河を挟んだ向こうに帝国があるだけで地続きではない。

 イベリスの玄関であるクロスキャンプに至っては、往来自体を監視している印象すら感じる。
十字路で要所ではあるが、イベリスに近すぎて町自体の必要性が乏しい。


 ともあれそういった経緯があり、郊外に馬房商が姿を現すようになったのも自然の事だろう。

馬房は害獣にとっては格好の餌場にもなり、それらを撃退できる力量が馬房主には必要になる。 
そんな危険の伴う商売だという事は、目の前の主の体格が証明していた。


 「へい、らっしゃい。お客さん、馬は二頭だけですかい?」


 「ああ、後でリコって名の栗毛が合流する。代金は代わりに払っておく」
 男に銅貨を8枚渡し、馬から降りる。


 毎度ーと声を上げ手綱を取ると、チルトがリアーナを降ろし
荷が空になった馬を引き連れて、馬房主は奥へ引っ込んでいった。


 「お、王子! わ、私は一足先に街へ行き、えーっと……い、色々と手配してきます!」
 身振り手振りを交えて不自然な挙動をするチルトにイライラしながら手で払う。

 「お前はもう行って良いぞ、帰りは適当に何とかする」

 「わ、わかりました! あ、あの……お、お気をつけて」
 受け取ったリアーナの私物――武器。何だこりゃ? 何を気を付けるってんだ。


 しかし何度見ても物騒な武器だと思う。
牧畜ギルドで良く見る軟鞭と外観は一致しているが、先端がまるで違う。
こんな物で調教された家畜はそのまま挽肉になるに違いない。
 輪状に巻かれて螺旋に結わえられた胴体は硬度と柔軟、
蛇と錯覚するような黒さを併せ持ち、その弾力とは異なる鋭利な尖牙が穂先に鈍く輝く。
こんなものを喰らえば体に風通しの良い穴が開くだろう。

王国で見られる得物とは本質的に設計思想が違う。
 
 『これ』は身を守る為のものではなく《殺す》事に特化しているのだ。


 見慣れない武器を鑑定していると、手を縛られたリアーナが恨みがましい視線を向ける。


 「なんだ? 心配しなくとも引渡しの時に返してやる。にしても何だこの凶悪な武器は……
こんな物で人を打ったら問答無用で即死だろ? 帝国ではこれが普通なのか?」

 当然の如く答えは帰って来なかった。


 大きく息を溜めて叩きつけてから、無骨な石積みの城壁に埋もれた城門を見る。


 外壁がメインで門がサブと見間違える程に、他の都市とは全てが異なり内部が伺い知れない。

城門も木材ではなく鉄で一層の威圧感を顕していた。俺はこれと似た建造物をよく知っている。
護衛兵にも縁が深い場所、これはまるで――牢獄。

 王城も息苦しい場所だが、ここは遥かにそれに勝る。
こんな所で暮らしていたら間違いなく1日も保たずに発狂するに違いない。
出来ることなら門兵に押し付けて帰りたい。

 「……そうもいかないか。 おい、動くなよ」

 独り言ちリアーナの後ろ手の縄を解いて前で縛りなおし、そして薄布をかけて、覆い隠した。
怪訝そうな顔をした女を一瞥し、振り絞って重い足取りを前に、先へと押し進める。

 引渡しもイサークに会うことも、無愛想な虜囚も、女王への報告も、全てが億劫で仕方ない。
仕方なく訪れた街の威圧感がムカついて気に入らない。


 そして門を潜った後の悲劇が自らの未来を決定付けた事に、この時は気づけなかった。



  ***




 「何だこれは……」

 イベリスの衛兵に皇女を預けた後、断れない歓待の招待を嫌々受けて長い坂を下り始めると、
上層の華美な街並みとは打って変わった下層の貧民街が目に入った。

 高さがそのまま身分に直結しているかのような街構造に吐き気がしながら、
最も高い位置に存在する領主館に向け重い足取りを進める。
勧められた力車の手配は丁重に拒否した。

 王都より勾配のある坂道を徒歩で向かうなんてのは正気じゃないが、
敵地の状況を少しでも把握しておきたかった。それにそもそも信用が出来ない。

 イサークが用意した物は端から警戒しておくに越したことは無いが、路地裏に溢れる貧民や、
必死の形相で力車を引く――奴隷を目にして、すぐに思い直す事になる。


 やはりあの愚物を排除しない限り、この国に未来は無いだろう。
ある程度覚悟はしていたが、直視に堪えない光景を見ると自らに課した義務を後悔する。


 そんな風に周囲の有様をつぶさに査定していると、眼前に見知らぬ二人組が現れた。


 「これはこれは、王子殿下ではありませんか? このような所をお一人でどちらへ?」

 「……なんだお前達は。俺は忙しい、とっとと失せろ」
 小太り髭男が長槍を斜めに下げ行く手を阻む。後ろではひょろ長男が変わった大槌を地面に、
ドスンと降ろして人差し指をこちらに向けた。

 「アニキィ! やっちゃおうよ! 弟の敵討ちだ!!」
 「まぁ待てボイド、俺等の仕事忘れたのか? てかコイツは関係ねぇだろ」
 「けどよぉ!! オリャぁもう我慢なんねぇ! 誰でも良いぜ!!」

 「イサークの手下か。俺に手を出したらどうなるか分かってるんだろうな?」

 見合わせて一瞬止まった大小の男どもは、プッと噴き出して堰を切ったように笑い出した。


 「だーっはっは、バッカじゃねぇか? お前、自分がお尋ね者って自覚ねぇんじゃね?」
 「ぶっぶふ、ア、アニキ、こりゃ聞いてた以上に世間知らずだなこりゃ」

 「おい、ふざけるなよ、お前ら叩っ斬ってやるからそこに――」
 ――腰にかけた手が白刃を抜き放つ前に、不意に視界が靄に包まれる。 


 「ぶわっ なんだこりゃ!! ボイド! に、逃がすなよ!」
 「わ、わかってるよアニキ! ど、どこだ! 出て来やがれ!」


 引かれた手と小さな声を頼りに、霞む視界に薄っすら浮かぶ見知った顔に従って――走った。


  
   ***



 路地裏を抜け後姿を追い坂を駆け、人気のない倉庫街へ辿り着いて、息を切らした男の――
肩を掴んで強くこちらへ引き寄せる。


 見知った男の名前はパストル・サラス。
グレンデス領の貴族子弟でスクール時代の同期生だ。

エスパニ貴族という事で意図的に遠ざけていたが、何かと絡んで来た典型的な優等生である。 


 「パストル! なんだこれは、一体どうなってるんだ、この街は!?」 

 「王子! 何故こんな所に一人で……気を付けて下さい! 貴方の手配書が出回ってます」
 「何だ、手配書ってのは! あの豚は正気を失ったのか!?」

 「私もイベリスの募兵要請で昨日ここに着いたんですが、複数の雇われシニアパーティーが、
貴方の身柄にかかった懸賞金目当てで動いてます!」
 「とち狂ったのか? 俺はこれでも王子だぞ??」

 「さっきのはモドバルの手下です。依頼に応じて来たら何やら妙な犯罪者が集まってるんで、
私達も隙を見て街を出ようとしてたんです。まさか王子が護衛も付けずに……」

 「護衛か……辛気臭い奴だったから追い払った。そんな事よりあの豚は一体何を企んでる? 
何の目的で俺を捕まえようとする??」
 「それは私にも分かりません……仲間も嫌な予感がするから止めろ、とは言っていたんです。
私は家の繋がりがあって要請を断れなかったんですが……」

 「そもそもアイツが手配なんかしなくても、俺はまさに今領主館に向かう所だったんだぞ?
なんでわざわざ連中をけしかけてくる必要がある?」

 「それは……自分の手を汚さない為かと……」
 「ふざけやがって……さっきの二人組を締めあげて吐かせてやる」

 「や、止めて下さい! 多勢に無勢です! 今は街から脱出すべきです!」
 「脱出ったって……抜け道はあるのか?」

 「正門へ向かうのは正直得策ではありません。衛兵や手下が網を張ってるかと思います…… 
ここから北西の橋の近くに地下水路への階段があります。降りて真っ直ぐ西に……まずい!
誰か来ます! とにかく橋を探してください! こっちは何とかします!」 


 「……分かった。パストル、礼は後で返してやる……任せたぞ」


 
  ***



 「はぁはぁ……この辺か? 入り組んでて分かりにくい……鬱陶しい街だな」

 寸刻の間、坂を下り道を折れ、人目を避けて路地を駆け抜けた先に、
城壁際に吸い込まれる、下水溝に架かる小さな橋はあった。

何とも言えない異臭に包まれた空間に人気は無い。


 鉄柵の向こうに落ちていく薄汚い水の先は……見えないが、人が通れるような隙間は無い。


 「どうしろってんだ……流石に柵を斬るのは無理そうだが」

 下手を打って武器まで失ったら後々面倒な事になりかねない。
 それでなくともこんな汚水に身を投じるなんて真似出来る訳がない。

見渡していると鉄柵の左右の壁に出っ張りが見える。


 「どうしたの? お兄ちゃん」



 振り返ると薄紅の長い髪をした少女が佇んでいた。
ニコニコと可愛らしい笑顔を向けている。


 「誰だお前は? いや、この辺に扉とか無いか? どこかの入り口とか……」

  少女が手招きする後を追い、鉄柵の左に回り込むとアーチ門の奥に木製の扉が見えた。


 「この鍵なら叩き割っても問題無さそうだな……助かった感謝す――」


 チクッ と感じた鈍い痛みは、崩れる下半身と倒れる上半身、そして変わらず笑みを見せる、
少女の表情を視界に捉えたまま、

意識を暗闇の水底へと突き落していった。


 この時はすっかり忘れていた。
イベリスがイサークの作り上げた牢獄だったということを。
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