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第一部 揺動のレジナテリス
2.郷愁の守人 ヴァレリアーノ・ヴァレンティ(EX-103)
しおりを挟む深緑に朱の帯が幾重にも射し込み、直立した木々が西側から円い黄金に滲んで溶ける。
質素な丸太小屋の裏に設けられた石積みの突端から、立ち上る煙の勢いが霞み始める。
無造作に転がる丸太に腰を掛けて燻りを眺めていると、暖炉の赤熱が幼い頃のぬくもりと、
それらを覆い隠し押し潰すような白銀の山嶺を思い起こさせ、郷愁に誘おうとする。
供養がてらに焼べた薪がパチパチと爆ぜ心の奥に追憶の種火を灯そうとするが、
背後に近づいてくる獣ならざる気配が、切望の渦に飲まれる意識を引き止めた
――というより、単に足音が夕刻を告げるヒヨドリの歌声に割り込んで鼓膜に届いただけだが。
作業をしながら首を支点に視点だけを背に向ける。リコの隣に立つ褐色の大男を視認して、
思わず立ち上がったが、脳裏を占めたのは排除ではなく――誰何だった。
本来であれば侵入者である時点で即対処すべき存在だが、黒褐色の肌、長身の風貌、
夕日に同化するような坊主頭、無骨な長槍を順に見るにつけ、不意に口角が上がる。
「……お前は、アイツの――」
「さっき湖で会ったんだけど、父さんに会いたいって言うから連れて来ちゃった」
見回りの仕方は教えたものの『排除の方法』を仕込み忘れて居た事に今更気づいたが、
それを我が子に問うても意味の無いことだ。怪我をさせなかっただけでも良しとしよう。
「あ、でもね、先に矢は射ったんだよ! けど避けられちゃって……」
「あー……なんだ、すまねぇな。こいつにも悪気はねぇんだ」
物騒な台詞を聴いて一気にバツが悪くなった。良しとしたのは間違いだった。
怒りも憤りもせず軽く目を伏せる青年に、久しく名乗っていない名を告げる。
「俺はヴァレリ……いや、ヴァンで良い、宜しくな」
「カイ……ル」
ズボンで拭いた右手を男は抑揚なく握り返して、軽く会釈を返した。
体格から見て20前半といった所か。整った眉と鋭い眼光は研ぎ澄まされた刃物のようで、
鍛えられた肉体とは相反する幼さも同居している。例えるなら子豹のような青年だ。
それ故にか、傍らの長槍が妙にしっくりしていて何とも微笑ましく思えた。
「槍は親父から貰ったのか……元気にしているのか?」
「解、ら……な。い。もう、随……分会っ、てな……い」
随分というのがどれくらいを指すのかは解らないが、俺がリオン――カイルの父親と、
最後に言葉を交わしたのは五十年祭の後、70年近く前の話だ。
科学的な通信手段が存在しないこの世界で安否を確かめる術は無い。
生存を確かめる事が出来ただけでも心から嬉しく思う。
そしてそれと同時に安心と同量の疑問が湧出する。
この青年は何故ここに来たのか、湖で何をしていたのか。
石柱の事や森を立入禁止区にした理由を知る者は今では殆どいない。
これらの条件から導き出されるアンサーは一つしかない。
袂をわかったアイツが今になって息子を俺の所に寄越す理由――を少し考えれば。
「あ……っと、カイルっつったか? お前は湖で何をしていたんだ??あれに関して……
親父から何か話を聞いているのか?」
「い……え」
二の句を待っている俺の要求を察したカイルが続けた。
「ここ……に、は、貴方……に会い、に」
湖でも石柱でもなく目的は俺だということだが、肝心なことは何も聞いていないようで、
安心した反面得心出来ない事も多い。
だが確信には触れずに無口な青年から情報を引き出す手が、他に思い浮かばないのも事実だ。
「そうか……なら良い。お前もあそこにはもう近づくなよ。特に、湖には絶対に入るな」
「な……ぜ?」
「危険だか……いや……危険か、どうかが誰にも《解らない》からだ」
なぜ――か。俺も何を言っているのか。どう説明してやれば良いのか、
他に上手い言い方が思い浮かばない。
目に見えないモノの危険性を説こうとしても、理解するのは難しいだろう。
説明出来ない以上、近寄らせないという対策しか取れない状況が歯がゆく、もどかしく思う。
表情が変わらないので是非を判断できないが、性格も遺伝しているのなら
無闇に警告に反するような事はしないだろうと、一つ息を吐いて、
原初の問いを投げかけようとした、まさにその時、ところで――と発する前にカイルが動いた。
蔦に巻かれた筒状の皮革が目の前に差し出される。
「こ……れ、を渡すよう……に、と」
紐解き押し広げる薄汚れた筒の中に包まれていた《一本の金属板》を見て、
胸の内側が締め付けられるような感覚に陥る。
出来る限り見たくなくて意図的に意識から、物理的に眼前から遠ざけてきた物を、
唐突に見せつけられて、自らの矮小さを再自覚させられた。
「……なぜ、これを俺に?」
「解ら……な、い」
たどたどしい話口調が伝言役に向かない所まで似やがった友の息子に手渡された皮紙を、
もう一度無造作に開くと、内側には殴り書いたような文字が綴られている。
《****に***これ**の役****だ
すまな**もし****の為****託す》
長旅の雨露で滲んだのか読めない部分が大半だったが、主語のない虫食い文でも、
文中の二つの単語だけでその意図は察する事が出来た。
《役》は恐らく役目――そして《託す》
何故だ?
これを持つ者であれば、その重要性がそれこそ俺達一個人の生命より
遥かに重いという事は理解しているはずだ。
容易――でも不用意、でもなく預けるのであれば何かしら余程の、
文字通り自らの命を引き換えにせざるをえない理由があるということになる。
「なにそれ?」
顎の無精髭をさすり思案にふける横から、玩具に興味を示す赤子のようにリコが覗き込む。
指二本程の太さの淡い黒の金属板。不規則に並んだディンプル、
その上端に刻印されている擦れて潰れた二つの文字を、見つめながら応える。
「これか……? これは……鍵だ」
意図は解った。だが、そこに至る経緯を知るには情報が足りない。
記憶の奥、更に奥の階層に封印した過去を強引にロードして、
意味を解こうと高速回転する脳のクロックを、懸命に思考が追いかける。
そして、それを手助けするようにカイルから下の句が届いた。
「最……後の夜。父……と会っ……た、そ……の日、少……話をし、た。
『自分……は、道……を誤…‥った』、『行き……たい道、を行……くべ……き、だった』と。
そし……て『責……務、を、果たさ……なけ、れば』と、言っ……た」
ゆっくりなら結構喋れるのかと思うと同時に、眼前の息子と面影が重なった盟友が、
今まさに何をしようとしているかを察し、自分がこれから何をすべきなのかを悟った。
アイツが『職務』を口にすると言うことは、間違いなく《奴》を止める――いや殺す事だろう。
もしそうなら、その責務が最も重いのは誰よりも俺だ。奴が何をしようとしているのか、
それは解らないが、何であれ間違いは正し、正せないなら力づくで止める。
これは誰よりも俺の役目だ。
奴の唯一にして無二の友でサブリであった俺が――
決別を自ら招いてしまった俺が果たせなかった――約束。
「そうか……ご苦労だったな。今日はもう遅い、飯食って泊まって行け」
「自分……は、野……宿。そう……し、てき……た」
余計な遠慮まで似やがって。この手の扱いには慣れている――と、構わずに小屋へ向かって、
左手を上げて手招きをした。
「ガキが遠慮すんな。頼みたい事もある、黙って付き合え」
半ば強引な誘いだがカイルも嫌そうな顔をせず、というより能面で頷く。
「やったー! 色々聞かせてよ!」
嬉しそうに小走りで先導して家の玄関に走っていくリコと、後ろを付いて歩くカイルを、
夕日がシルエットにするまで、つい見つめてしまった自分が居た。
日は地平――森平線に沈み、深淵で暖かい闇が緋色の空を塗りつぶしていった。
***
木窓から漏れる灯かりが虚空に吸い込まれ、素朴なパンと燻された獣肉で胃袋を充たす頃、
ランタンに温もりを求めて忍び込み、集り始めた飛虫の傍らでリコはすぅっと寝息を立てた。
さっきまで騒がしく質問責めしてたかと思えば……多めのホットミルクが功を奏したようだ。
眼前の木皿を片付ける為に、そっと席を立ち、いつもの事と予測して椅子に垂らしてあった
薄手の布をリコに掛け、再度テーブルにつき寝顔に小声をかけた。
「相変わらず落ちるのが早いな……手間がかからなくて結構なこった」
聞いているのか聞いてないのか、変わらぬ面持ちで虚空を見つめて居るカイルを見ていると、
能動的に話を切り出さない旧友の事を再び思い出す。
「知ってるか? お前の親父のあだ名、仲間の中じゃシーサーって呼ばれてたんだ」
胸元から出した自家製の薬用タバコを咥え、蝋燭で火を付け暖気と共に吸い込んだ。
「お前とよく似た坊主頭がな……こう、伸びると、こんな感じにな」
紫煙が揺れる頭上の空間を両手で捏ね繰り回して、少しでも視覚に訴えかけようと試みる。
「んで髭の伸びるのが早いのなんの――アフロ頭と繋がってな?しまいにゃ名前がライオネル、
渾名がリオンだろ? ライオンに似てるってんで、仲間の1人がシーサーみてぇって言い出してな、
現物見てみたら結構クリソツでウケんだよ、強面なとことかな!」
当時をムービーのように脳裏に投影していると頬が緩むのを感じた。
「それでって……まぁ解んねぇか。ここにゃライオンとか居ねぇしな……」
言ってて何だが通じる訳がないのだ。目の前にあるカップに残った冷めた乳白に、
木壺から木匙で黒粉を掬い一振り入れて混ぜ、茶色に変わる液体を見つめながら自省した。
何せ父親以外に話の接点が何も無いのだ。これは中々高度なミッションだと挫折しかけたが、
こいつのことを、もう少し詳細に知っておきたいのも事実だ、少し頑張ってみるか――
と気を取り直し、鼻息を一つついてから当たり障りのない話題を振る方向に切り替えた。
「ところで……お前いまいくつだ?」
「10……で……す」
「じ……じゅ、じゅうぅぅ?」
自分でも驚く程、滑稽な奇声に腰も釣り上がったが、開いた口が塞がる訳を俺は知っている。
取り繕うように座りなおしてこの話題をこのまま続けるか迷った。
成人に見えるこいつの母親は……いや、あえて聞くような事ではない。
聞いた所で答えが返ってくるとは思えないし、リコと同じ古来種は他に一人しか知らない。
つまり、リオンもこの始世界の一員になれたのだろう。
そして恐らく同世代と交流するような機会があったのなら、このような育ち方はしない。
その辺はリコにも通じる物があるが、他人と比較して物事を考える思考が備わっていない。
我が子にとっても大きな課題だが、無駄な問いを繰り返すよりも本題に入った方がマシと、
場の盛り上げを諦めて裏ポケットにしまっておいた物を取り出して――机の上に置く。
「俺もな、お前に頼みがある。託されといて悪ぃんだが、これはお前が持っててくれ」
手製の丈夫な長紐を上端の小さな穴に結わえた薄黒のそれを卓上に置き、
懐から取り出した薄青色をした似て非なるそれを、そっと横に並べて置いた。
「俺も持ってんだが、こいつはリコに持たせる……こっからが重要だが――」
落ちていく蝋と共に親友の息子に幾つかの頼み事をし、無駄に4つ並ぶベッドへ案内した。
寝室に抱き運んだリコの隣でカイルが寝息を立てるのを待ってから、静かに裏口を出た。
透き通った夜の張り詰めた空気を胸一杯に吸い込んで、階段に腰を掛ける。
小夜啼鳥と木葉梟の輪唱が反響する深い森の中で、
腿についた両肘から伸び交わる腕の先端、組んだ掌から伸ばした人差し指で唇に触れる。
指先に薄くついた苔がアロマのように薄く香る。
眼を瞑ると、小さな灯かりも空の明かりも消えて、潰れそうな暖かさに包まれた。
永遠とも思える長い時間、後悔しかなかった。
結果だけを見れば、全てから逃げて――全てを捨てたのだろう。
そうすることが正しいと、あの頃は本気で信じていた。
他に道はあったかもしれない。何かを諦め、何かを譲ればこうはならなかったかもしれない。
考えの違いなんて容易に埋められるような、ほんの小さな傷だったのかもしれない。
彼女……ヒルダが滝底に、暗闇にその身を委ねた時も、もっと言葉を尽くせば、何か別の――
未来が……あったのだろうか。
合わせた掌に顎を乗せ瞼を薄く開く。
木陰から覗いた寄り添う双子月が、眩くて、眩みそうで再び世界を閉じた。
それはまるで、祈っているかのようだった。
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