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第一話

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『このサファイアは君を守ってくれる。これで手の傷も痛くなくなるよ』

 私は右耳につけられたサファイアのピアスを触りながら、昔のことを思い出していた。このピアスは誰からもらったのかも忘れてしまった。それに片耳しかなく、もう片方は無くしてしまったのかもしれない。
 でも今思い出すのは嫁いできてからの話。

 毎日のように愛人の元へ向かう夫。私をストレス発散の道具と使う義母。そして体が不自由で私が世話するしかない義父。両親はお金が無く、売り飛ばされるようにこのフョードル家に嫁いだ私に、反抗する余地なんて微塵もなく、結婚した一日目から地獄が始まり、それは私が体を壊す六十二歳まで続く。

 私は最初に判断を間違った。伯爵であるエリック・フョードルと結婚せずに、冷徹と言われていたゲイベル騎士隊長と結婚していればよかったのかもしれない。まあ、どっちでも同じ結果になったかもしれないんだけどね。

 ベッドの中で今までのことを振り返っていた。震える手を上にあげてみると、骨と皮しかない。皴とシミと、かさかさとしている。これでも昔は才色兼備の美女と呼ばれていたのに。きっと今の私を見たら誰もそんなこと信じないんでしょうね。
 目を細めて天井から釣り下がる埃だらけシャンデリアはずっと変わらない。メイド達は私の世話が面倒になったのか、着替えだってまともにさせてくれない。
 つい一年前までエリックの世話をしていたのに、数か月もしないでこんな体になってしまうなんて思ってもみなかった。嫁いできて最初は義父の世話をさせられて、次に私のことが大嫌いな義母の世話をさせられて、今度は浮気ばかりの夫が寝たきりになって。そして最後に私。もう本当に介護ばかりしてきた日々だった自由なんてない。
 今でも覚えている。義父は優しかった。でも最悪な人だった。

「ソフィは美人だね。このうちへお嫁に来てくれて本当によかった」
「そんなことありません。私こそここへお嫁に来れて幸せです」

 私が無理に笑いかけると、義父は私が会いに行くたびに、胸を触ったりおしりを触ったり、陰部を見せびらかされたこともあった。若い私には本当に耐えきれない事だったけれども、誰も助けてはくれなかった。メイド達もコソコソと話してはくすくすと笑う。
 窓の外を眺めながら、今度は義母に言われた暴言の数々が頭をかすめた。

「まあ、なんて派手な髪なの!赤毛よ!赤毛!」

 今の私はお婆さんになって、髪が真っ白だけれども、若かりし頃の私の髪は燃えるような赤毛だった。それは美しいと言われる反面、古い固定概念に縛られる人にとっては魔女の髪色と信じられていた。

「魔女よ。魔女はきっとこういう髪をしているんだわ」
「本当に下品なのね。歩き方から貧乏人の匂いがするわ」
「気持ちが悪い近づかないで!」

 男爵家の長女として生まれた私は、伯爵の子供よりも確かに劣っていた。教育の質も違い知識量も断然違う。私は私なりに勉強して、伯爵夫人としてふるまっているつもりだったが、義母が思う伯爵夫人の理想像はとても高く、古臭かった。

「子供がまだできないの?」
「なんで跡継ぎが生まれないの?」
「子供が産めないなんて女として生きている意味があるの?」


 最後介護をしているとき義母は「死ね。この魔女!」とそう言った。自分が死にそうなとき、必死で私にそう言った。そして私がこの屋敷に何かしようとしたら呪い殺してやるとも言った。最後の最後まで私のことを嫌い、男爵家の私を恨み、自分の夫を私に取られることを怖がった。
 つい二年前、やっと夫であるエリックは私と一緒に過ごすようになった。

「君と一緒に居られてよかった」
「ソフィが居てくれたから、私は頑張れた」

 慰めの言葉を掛けられた。でも私は寝たきりになった夫の相手をしながら、早く死んでほしいと願うばかりだった。親の介護をすべて任せて、義父と義母を看取ったのは私だった。仕事はしていても、私のことなんて構ず愛人を作り、夜は外へ出て、私を義父と義母のいるこの屋敷に置き去りにする。
 結婚するときは私に旅行に連れて行ってくれるとか、そう言うことを言ってくれた。でも彼はそんなこと一言も覚えてはいない。

「君が居てくれて、幸せだった」

 まるで「俺は幸せだったから、お前も幸せだったろう?」とそう言っているようにしか聞こえなかった。早く首を絞めて殺してしまいたかった。でもそんなことできない。度胸が無いし、もう私はその時にこの屋敷に染まりきって、恨むことさえできなかったから。
 そして自尊心という物は塔の昔に捨て、ただ、私はこのフョードル家の道具でしかないということを知っていた。この場を打破できる力は無い。

「君と結婚できてよかった」
「そうですか」

 にっこりと私が笑いかけて見せると、エリックは穏やかな表情で亡くなった。私は貴方と結婚したくなかった。心の中でそう叫んでいても彼には届かない。
 覚えているのよ。貴方が覚えていなくともね。私が介護が大変だと言ったときあなたはなんて言った?

「君はこの家に嫁いできたんだから、自分の親同然だろう?それに君に俺の両親を想う気持ちがあれば、そんなこと屁でもないはずだ」

 怪訝そうな表情をしていたわね。あの日は嗅いだこともない香水の匂いがきつくって、私は頭が痛かった。私が生理の時だって貴方は無理に私に行為をさせようとしたわね。
 腹が痛い、頭が痛い、血が出てきてしまう。だから無理よ。そんな悲痛な私の叫びはあなたの心には届かない。無心でそれをした私の気持ち貴方には分からないでしょう。だってあなたは獣のようにただヤりたいときにヤって、嫌な時は拒絶するだけだもの。
 私の苦痛なんて知らないでしょ。

 窓の外を見てみると、青い空に緑色の芝がよく映えていた。今は初夏。この美しい立ち上る雲を眺めながら死ぬなんて私の一番の幸福じゃない。
 死ぬなら今日よ。ソフィ。貴方は今日まで頑張った。だから死ぬときぐらいは自分で決めましょう。

 スッと目を閉じ、両手を胸の上に重ねる。力を抜き最後の呼吸をすると体の感覚が無くなっていった。最後まで残ったのは聴力で、最後に聞いたのは鳥がさえずる声。
 人生一番の幸せね。

 しばらく暗い空間を漂っていた気がする。体に感覚が戻されて、目を開いてみた。なぜ目を開くなんてことが出来たかは分からない。でも目を開いて驚いた。布がこすれる音も聞こえる、布団が体に触れる触覚も分かる。起き上がってみると目の前に見えたのは燃えるような赤毛と、真っ白で張りのある手だった。

「はあ、どういうこと?」

 声はしわがれていない。若い時の私の声だ。部屋の中を見渡すと、部屋の右端に化粧台がある。急いで化粧台まで行って鏡を見てみると、十七歳ぐらいだろうか。少女の私が立っていた。
 思わず髪を触って、胸を触って、頬をぐりぐりと触ってみた。張りがあり、すべすべだ。
 何が起こったのか意味が分からず、せわしなく部屋の中を歩き回っていると、外から足音が聞こえてきた。そしてすでに亡くなっているはずのお母様が、ドアから顔を出した。

「早くしたくなさい。このシャロール家は貴方にかかっているのよ」
「お母様、かかってるって何が?」
「この家の借金よ!寝ぼけてないで、さっさとしたくして。今日はフョードル伯爵と、騎士団のゲイベル騎士隊長がいらっしゃるんだから」

 あの、運命の日に戻っている。今の私は多分十七歳で、五十歳近く若返っている。
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