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5 薔薇の道化師

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 私が家を出たのは人生で最悪の時期だった。一番の理解者である母を亡くし,大学を退学し,何をする気力も失っていた。それでもそばには2人がいてくれたから生きようと決めたのだ。あのときに貰った言葉は心に響いた。
「今あとを追ってもお母さまを悲しませるだけだ。そのときが来るまで何とか生きてみようよ」
 そうだ,彼もちょうど母親と死別したばかりで,同じ境遇にある互いを慰めあったのだ……
 ホストクラブで渡された薔薇の一輪が風にさらわれた――同じ境遇,母親と死別,彼――彼は一体誰? 観空でも聴蝶でもない。どうして,そんなことがありうるだろうか。でも,ああ,そうなのだろうか。そうなのかもしれない……
 通りすがりの誰かとぶつかる。「ごめんなさい」
 白塗りの顔面に桃色の丸い頰と墨色の薄い唇――道化師だ。クリスマスは過ぎたというのにサンタの格好をしている。もじもじと後ろに隠した両腕を出してみせれば,抱えきれないほどの薔薇の花束があらわれる。
「これ,私に?」
 忙しげに瞬きしながら繰り返し頷く。
「ありがとう」花束を受けとれば,道化師は小躍りしながら雑踏のなかに消えた。身も心も熱くなる。
 携帯の呼びだし音が響く。ジーンズのポケットに手をやって気づいた。携帯は家に置いてきたのだ。意識的にしたことだった。
 呼びだし音が電話のベルから『エリーゼのために』の曲にかわる。花束のなかから曲が聞こえる。薔薇の花に埋もれて見知らぬ携帯が出てきた。道化師の消えた方角に目を走らせたが,それらしき人影はない。
 携帯を耳にあてる。「ガウジ――あんただね」
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