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2 最低野郎

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 弟は賀之歌の世話に文句ばかりつけている。感謝の言葉一つ述べないし,要求度も高い。
「そこ,摑んだら痛いよ――そんなとこ触るな! 服,脱がすなって! 自分で脱げるから!」
 風呂に入るらしい。生来潔癖症であるために,ひどく体力を消耗するというのに頻りに入浴したがる。はじめは機嫌よくつきあっていた賀之歌も,弟の暴言が度をこしているので,最近は不機嫌になっているようだ。
「この変態野郎め!――」明瞭な音声にならない掠れ気味の罵声がバスルームに響いた。
 ああ,またはじまった……
 細い声が,野太い怒号に搔きけされた。
 いつもと様子が違う――バッタンバタンと震動が押しよせる。バスルームへ行ってみた。
 艶消し硝子の引き戸を弾き飛ばし全裸の賀之歌が出てくる。全身の筋肉が赤黒く隆起して胴体に彫られた満開の桜が咆哮する虎に花弁の嵐を降らせていた。
「ネエネ……」賀之歌の背後でタイルに倒れた弟が頭を擡げて大きな瞳を震わせた。
 賀之歌が濡れた体を拭きもせず,弟と寝起きを共にする座敷へと足早に消えた。
「僕を風呂にいれるとき服が濡れるじゃろ。ほれで裸やったんよ」薄い唇をつりあげる。
 着がえを済ませた賀之歌は戻ってくると,洗い場に脱ぎ散らかした衣類を片付けてから,抵抗する弟のあちこちを力ずくで洗いはじめた。
 隣人家族の哄笑も,地面の踏み鳴らしも,延々と続く布団叩きや自動車ドアの開閉も,板塀の蹴りつけも,石や汚物の投げこみも,近辺の空き地に屯するごろつきどものバイクエンジンの吹かしさえも,一切の切り取られた静寂に沈むキッチンで,賀之歌のつくった食事を野良犬みたいに貪って日の暮れないうちから炬燵に潜りこみ両眼を閉じた。 
 微かな物音を耳にして真夜中に目覚めた。座敷へと忍び寄る。
「さっき薬をうっただろ――痛みは治まってるはずだぜ」
「大きな声を出すぞ。ネエネが起きてくる」
「気づいたって助けにくるもんか。癌の弟を食いものにして生きてるような碌でなしが。まるで寄生虫じゃねぇか」
「ネエネを悪く言うな!」
「そんなに姉貴が大事かよ――だったら俺を邪険にしちゃいけねぇよな。俺がおまえらの面倒を見てやってんだから」
「死にかけてる人間によくも――おまえって奴は――」
「ああ,最低だよ――もとから知ってたはずじゃねぇか。一旦は突っ撥ねた最低野郎に,なんでおまえは助けを求めた? こうなるって分かってたはずだぜ」
 戸外の何処か遠くで,しわがれた声を聞いた気がする。小動物か夜鳥のそれだったのかもしれない。
「……泣くなよ……そんな泣くな。な,何かあっても姉貴が路頭に迷うようなことにはさせねぇから……」
 衣擦れが雨を呼んだ。はじめはさわさわと次第に窓を叩く音が激しさを増しながらやがては暴風を伴った本降りへとかわった。
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