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1 宅配サービス業者の男――ガノータ

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 大学附属病院で末期癌の化学療法を受けていた弟の春樹はるきが喀血して治療の断念を言い渡された。何もしないのに入院を続けられても困ると転院を迫られ,緩和ケア病棟のある国立病院へと移ったものの金銭的な事情から帰宅を余儀なくされた。
 17歳から30年間ひきこもってきた私は,入院中の弟に対する付き添いは疎か,見舞いすらできなかったことに忸怩たる思いを抱いていた。従って自宅看護ぐらいは精を出そうと意気込んでいたが,3箇月見ないうちに瘦せ細った体をくねらせ,血や胃液を吐く弟を前にして茫然自失するばかりだった。
 襖の陰に隠れるように座っている私へ声をかけ,弟が頼んだ。
 キッチンへ行きたいから手を貸してくれと言うのだ。弟の帰宅する前から鳴り響いていた火災報知機の電池切れを知らせる音が気になって仕方ないので電池交換をするのだときかない。
 天井につく火災報知機は,梯子を使わないと到底手の届かない高さだ。梯子を持ち出すとなれば,収納庫がわりの東南に位置する部屋へ行かねばならない。真っ平御免だ。そこは隣家と最も接近する部屋なのだ。
 それで電池交換を断念するよう説得を試みた。
 10年前に越してきたこの家の隣人は村のごろつきどもを動員して我が家への嫌がらせを日々の楽しみとしている。嫌がらせを原因とする心労が祟り,母も弟も癌になったのだ。
 母の他界した年に家と土地の売却を考えたが,家のリフォームは無理で,建物の取り壊しにも法外な費用がかかるとかで,手もとに残るものは雀の涙ほどと分かり何もかも諦めた。
 弟がびくりと痙攣するみたいな動きを見せた。
 火災報知機の音なんぞ呆気なくのみこんでしまう震動と哄笑が襲来したのだ――隣人家族が我が家の板塀にボールをぶつけて興じはじめた。
 せっかくの説得が台無しになった。うちの発する音がうるさいせいで倍返しをしているのではないかと言って心配の度合いを強めていくので,深夜に家の周囲を回ったが,微塵の音も漏れていなかったと噓をついたものの,不安がおさまらないようなので,弟の入浴中に金槌を火災報知機目がけて投げつけたところ,見事に逸れて照明を破壊してしまった。
 プリンの欠片とコーヒー味の栄養飲料少量を弟が口にしたあと,暗闇のなかで食パンをかじった。黒いゴミ袋で目隠しした出窓の外では,心身ともに矮小野卑な隣人の年寄りが塀に飛び乗り喚き散らす日課を今なお続けている。
 おぞましく直視したことなどないが,下品で醜悪な歪んだ汚顔を突きのばす短躯は無理やり視界に割りこんで甲高く調子はずれの汚声を発し,吐き気を催す気分を植えつける。
 おお,汚らわしい――今日も最悪な1日がはじまった。郵便局の配達員が往来を走り抜けていく。午後1時ぐらいらしい。
 座敷を覗けば,横たわる弟がスマホで自撮りしながら何かを喋っている。
 生配信しているのだ。
 弟は長方形の画面のむこうへ懸命に呼びかけた。
 貧困のため病院から駆逐された末期癌の病人が如何に死んでいくのか興味のある人や,家族や恋人が癌と格闘中で病についての情報収集をしている人があるならば,自らの死までのカウントダウンを観察してほしい。そして少しでも面白みを覚えたり参考になったりした点があるならば,投げ銭してくれないかと。
 すぐにたまった投げ銭を電子マネーに交換して,通販サイトで食料を注文しながら弟が微笑した。「僕が生きとるうちは,ネエネに腹いっぱい食わしちゃるけん」
 自分は殆ど飲み食いできない状態にありながら,姉の食い扶持を案じる弟の真情に感謝しなければならないはずだった。しかし実際は心中穏やかならぬものがざわざわと押し寄せている――ほしたら春くんが死んだら,あたしはどうなるんよ?
 父も母も私に気儘な生活をさせるためだけに粉骨砕身して働き,死んでいった。両親の生きざまを見てきた弟も,姉に対する孝行を当然の行為と信じている。
 いや,当の本人に,家族から庇護される天稟の権利が備わると考えている節さえある。
 こんな自分を卑怯で嘆かわしくみじめだと感じる。でもどうしようもない。今更改心できるはずもないし,しようとも思わない。それどころか,独りで生きる力のない私を残し次々といなくなる家族が恨めしい。
 弟に至っては私を守るべき最後の砦でありながら,覇気なく,じき死ぬと決めてかかり,生きることをすっかり諦めてしまっているのは甚だ不甲斐なく腹だたしい。弟には是が非でも生きてもらわねば困るのだ。私が生きるために――
「ネエネ……」干涸びた皮膚と骨だけの腕をのばして涙を流す。
 つられて私も泣いた。姉の気持ちを見越して,憂悶の情に駆られた弟の清らかさに動じたのではない。天地が転覆したとしても,弟の延命という我が儘の叶わぬことを改めて痛感させられ,行く末の不安に襲われ感情が昂ったのだ。
 いつまでも血で汚れた手を握りかえさずにいると,ついに力尽きたそれは畳に落ちた。
 同時に来客を知らせる呼び鈴が鳴る。
 また隣人家族のクレームかもしれない。無視しておけばよいと言ったが,弟は起きあがろうとする。相手にするなと薄い両肩を押さえつけた。
「出ないと壁や門扉を壊されるよ――辺りを糞尿で汚されるよ――ごろつきたちを連れてきてお金をゆすられるよ――」
「口はきかない――目もあわさない――絶対に反応しない――」
 そんな遣り取りを10分ぐらい続けた。
 座敷の雨戸が叩かれた。弟と抱きあう――
 来訪者は宅配サービス業者の名前を告げた。通販サイトで注文した食料が届いたのだった。
「そのままお待ちください――」弟は姉に奥まった廊下へ隠れるよう指示してから,時間のかかることを繰りかえし謝罪しつつ,もどかしい動作で窓ガラスをあけたが,俄に咳きこみながらうずくまった。
「お客さん?――」業者の男が呼びかけた。「なんか壊れたら後で直します。てことで,取り敢えずあけますね――」そう言うなり,鍵のかかる雨戸を力任せに一気にあげた。
「ハル……」何かしらの感情がこもる声だった。「宛て先に夏山なつやま春樹って見たとき,多分そうじゃねぇかって思ったよ」
「ガノータか……」弟は吐血に染まる口もとを押さえながら窓のほうを見て,脱力したみたいに崩れ落ちた。
「おい,ハル!――」地面から高い位置に設けた窓に飛びこんでくる。
 障子戸に隠れたものの,男は気づいて何か言おうとする。
「姉だ,僕の姉だよ。何もきくな――」弟は垢抜けた物言いをした。「それより,おまえ,靴脱げ――」
 男が謝り,指示に従う。
「それから,あのさ,すっごく痛むんだ。末期癌でさ。どうにかならないか……」喘ぎあえぎ何度も腹痛を訴える。私には「痛い」の「い」の字も言ったことがなかったのに。
 大量の髪を整髪料でオールバックにかためた男は,飛び散った血によって水玉模様宛らに染め抜かれた布団に弟を寝かせると,その全身を優しくさすった。
「そんなことしたって治まらないよ!」弟が苛立って声を荒げた。姉には見せない傲慢な態度だ。
 男がスマホで誰かに連絡すると,数分後に耳にも鼻にも唇にも金環をつけたモヒカン刈りの黒人が現れた。そして傷の目だつ腕を窓に突きいれ,白い紙片を置いて去った。
「お姉さん,お水をお願いできますか――」艶々とした小麦色の肌におおわれる精悍な顔を緩めて整った白い歯を覗かせる。
「ネエネ,いいよ――」弟が身を起こそうとする。
 透かさず男がキッチンの場所を尋ねた。
 私と2人きりになると,男との関係について20代に都会暮らしをしていたときの知りあいだと,弟は説明した。
 火災報知機の問題が解消された日,賀之歌がのうた緋恋ひれんはうちに住みつき弟の介護をはじめた。
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