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だいたいチーバくんのおかげでややこしくなった話

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 隼人は最近、朝の電車で気になっている人がいる。

(よし、今日も乗ってきた)

 視線の先は、開いたドアから入ってきた、スラリとした体型の学生である。
 スマートに決まったソリッドショートの髪型。伸びた背筋。乗り込む際の足運びにも優雅さがある。

 彼の名前は知らない。
 ブレザーのエンブレムから、通える学区内では一番偏差値の高い高校の生徒であること。同じくブレザーの学年章から、自分と同じ高校二年生であること。そして生徒会の資料や議事録を持っていたことがあり、どうやら生徒会役員であること。その程度しかわかっていない。

 隼人は始発駅の次の駅で乗るため、いつも席に座れてしまっている。だが、この駅まで来るとさすがにもう空席はない。
 乗ってきた彼は、サッと車内を見渡すと……隼人の座っている席のすぐ前に来て、止まった。そしておもむろに吊り革をつかむ。

 これは今日だけではない。一か月前――新年度が始まったときから、ほぼ毎日である。こちらが座っている席は毎回違うのに、必ず目の前に来るのだ。

 最初は「たまたまか?」と思っていたが、さすがに一週間二週間と続くと不自然さを感じてきた。もしかして、こちらを意識している……のか? と徐々に考えるようになり、今ではもう確信に変わっている。これだけ続けば偶然であるはずがないと思っていた。

 電車が動き出すと、彼はきれいなスクールバッグから、授業ノートと思われるものを取り出し、読み始めた。
 隼人のほうも、今日は中間テストの最終日であり、車内で少しでも勉強したほうがいい立場だ。とりあえず殴り書きのノートを出し、開いた。もちろん集中はできない。どうしても彼のほうを観察してしまう。

(しっかし、ものすごいイケメンだよな、こいつ)

 彼はノートをやや離して持っているので、顔がよく見える。おそらく、誰が見ても美顔と言うだろう。特に、シャープな眼鏡の奥の、鋭い切れ長の瞳。その威力は格別だ。同性である隼人もドキドキしてしまう。彼と視線が合いそうになるたびに慌てて逸らせ、不自然さがないように努めた。

 そうしていると、彼は手に持っていたノートを仕舞い、次のノートを取り出した。
 その瞬間。
 彼のスクールバッグのポケットから、正方形でピンク色の何かが飛び出した。
 四つ折りであったと思われるそれは、空中で崩れて広がり、隼人の膝をかすめるようにして床に落ちた。

「――!」

 それはハンドタオルだった。ピンク基調に水玉模様。しかも真ん中には、変わったポーズを取った、赤色のゆるいキャラクタが描かれている。

(このキャラって、チーバくん、だよな……?)

 目の前に立つ彼の怜悧な印象に、あまりにも合わないものであった。
 隼人は混乱したまま手を動かしてそれを拾い上げ、彼に差し出した。

「落ちたよ」

 イレギュラーな展開で頭が整理できていないままだったので、落ちたことを明らかに認識済であろう彼に、さらに指摘の言葉をかけてしまった。そのおかしさに気づく余裕もなかった。

「すまない。ありがとう」

 彼の薄い唇から、言葉が発せられた。初めて聞いた彼の声は、その顔同様に理知的な鋭さを感じさせるものだった。
 眼鏡を中指で直してから、スッと伸ばされた彼の手。受け渡しの瞬間、手と手の距離は数センチほどまで接近した。いつも観察はしているが、あらためて間近で見るその手は、絹のような白さとキメの細かさだった。野球部でピッチャーをやっている隼人のマメとタコだらけの手とは、まったく異なっていた。

 受け取ったハンドタオルをバッグに戻す様子を目で追い、そのまま彼の表情を確認する。毎朝見てきたものと変わらない、冷静沈着な秀才のマスク。

(あ、これって。見とれてる場合じゃないのかな……?)

 これはチャンスか。いや、あえて向こうがチャンスを作ってくれたのか? 仲良くなるきっかけは落とし物から――そんな話も聞いたことがあるような気がする。印象とは正反対のご当地ゆるキャラグッズを落とし、わざと隙を作ることで、こちらが話しかけやすい状況を作ってくれたのか?

 そんなことを思った隼人は、相手のためにもここは何か話しかけないといけないと、自信のない頭を一生懸命回転させようとした。しかし、やはりうまい話しかけ方がなかなか思いつかない。
 焦った。この機会を逃すと、次のチャンスがいつ来るかわからない。

「あのさ。いつも俺の前に立ってるよな?」

 結局、他に球種が思いつかなかった隼人は、直球を放った……が。

「ああ。君はいつもこの次の駅で降りるから。そのあと空いた席に僕が座れるからな」

 隼人の頭に、ピッチャーライナーが直撃した。強い、衝撃。

(うあああ! そういうことだったのかよ!!)

 そしてそのあとは、今まで経験したことがないような恥じらいの熱を顔に感じた。実際に発火したのではないかと思うほどだった。

「あっ、そ、そうだよなっ。立ったままだと疲れるもんな。アハハハ」

 慌てて作り笑いするのが精一杯だった。
 最初から勘違いをしていたのだ。彼は別にこちらに興味があるわけではなかった。こちらと話したいなどという思いがあるわけでもなく、ただの席取り要員としてしか認識していなかったのだ。

(やべ、これスゲー恥ずかしいやつじゃねーか)

 よく考えたら、こんないかにも秀才というオーラの人間が、自分のような運動バカを相手にするわけがなかったのかもしれない。自分、何を勘違いしていたのだろう――。

 がくりとうなだれ羞恥に駆られ続けていたら、あっという間に学校の最寄り駅についてしまった。
 隼人は網棚の野球用バッグを取り、頑張って作った笑顔で彼に小さく会釈すると、逃げるように下車した。

 駅の改札を出て、通学路をとぼとぼ歩いていく。
 惨めだった。

 が、いつのまにか到着していた校門の前で、ふと思った。

(ん……? いや、待てよ)

 今のは、単に自分の勘違いが判明し、現状がわかっただけのことで、別に何かがマイナスに振れたというわけではないのではないか?

 逆に、事実がわかってよかったのかもしれない。自分が席取り要員ということは、また自分が座っていれば、彼は目の前に立ってくれるということでもある。ならばここから先、チャンスはいくらでもあるということではないだろうか?

(よし――)

 落ちていた肩が、元どおりになった。
 天を見上げる。みずみずしい、春の青空。

(仲良くなるために、これから頑張っていこう)

 隼人は新たなスタートを誓い、校門をくぐるのだった。


 なお、テストの結果は全教科赤点だった。



 * * *



 総一郎は最近、朝の電車で気になっている人がいる。

(よし、今日もいるな)

 視線の先は、同じ車両の席に座っている学ラン姿の学生である。高校二年生になったとき、総一郎の気まぐれで乗る車両を変えたことで、同じ車両の乗客同士となった。

 彼の名前は知らない。
 だが学生服が学ランの高校は、この地域に一つしか残っていない。よって、あまり偏差値の高くない某高校の生徒であることはすぐに特定できた。また、網棚に野球用バッグが載っており、たまにチャックの隙間からグローブが見えていることや、手にできているマメやタコから、どうやら野球部員だということもわかっている。

 総一郎はいつものように、彼の座っている席のすぐ前に立った。もちろんこれは今日だけではない。毎日だ。

(しかし、いかにもスポーツマンという感じに見えるな、彼は)

 一言で言えば「スリム」のくくりになってしまう体型なのだが、一味違うのである。
 学ランの上からでもわかる、がっしりとした肩。相当鍛えているのだろう。そして、座っていることで一段と際立っている太ももの筋肉。両隣で死んだように眠っているサラリーマンのそれとは、質がまったく異なる。

 観察が不自然にならぬよう、総一郎は授業ノートをバッグから取り出した。もちろんその中身を読むつもりなど微塵もない。今日は中間テスト最終日だが、勉強は十二分に足りている。

 総一郎は勉強するふりをしながら、観察を続けた。一ヶ月続けてきてもなお、彼を見ることは飽きない。

(さぞ学校では人気があるに違いない)

 顔にも、体育系の爽やかさがある。動くのに邪魔にならなそうな自然な短髪、スラっとした鼻筋。眉毛も細眉で、よくある手入れに失敗したような不自然な感じではなく、ナチュラルな印象だ。もともと形がよいのだろう。しかも柔らかそうだ。

 そして、野球少年らしい純粋な光を放つ瞳。これが何よりも素晴らしい。視線がまともに合いそうになるとバツが悪そうに目を逸らす仕草も、何か心をくすぐられるものがある。

 そんなことを考えながら、総一郎はカモフラージュのノートを別の教科のものに交換しようとした。
 が……。

(――!)

 スクールバッグのポケットから、愛用のハンドタオルが飛び出し、床に落ちてしまった。
 それは所持品の中で、もっとも目の前の人物に見られたくないものであった。
 生地がピンク色で水玉模様の、チーバくんのハンドタオル。明らかに、相手が描いているであろうこちらの像には合わないアイテムだ。

(しまった……)

 無情にも広がりながら落ちたため、中央に特殊なポーズで描かれたチーバくんまでしっかり見られてしまった。この一ヶ月で彼に対し慎重に与えてきたイメージが……と焦る。

 せめてもの初期対応ということで、顔に出ないよう表情筋に集中した総一郎。その眼前で、彼の手がサッと床に伸びた。
 拾ってくれたのだ。

 チーバくんのハンドタオルを掴んだ彼の右手は、まもなくこちらに差し出されようとしている。手と同時に来るのは、あからさまな嘲笑か。それともドン引きな顔か。
 構える総一郎だったが――。

「落ちたよ」

 かけられた言葉は、そんな平凡なものだった。いや、言われなくてもわかっているぞ? そう突っ込めるような言葉だ。
 彼の表情も、いつものとおり朴訥そうで、かつ真面目なものだった。嘲笑の成分などまったくなかった。

 あらためて、差し出された彼の右手を見た。
 ハンドタオルが微妙に邪魔だ。ポジションはピッチャーで右投げだろうと推測するに至った指のマメや、バッティングのほうは左打ちなのだろうという推測に至った手のひらのタコは見えない。

 が、その代わり、ほどよいゴツさのある指先と、深く切られた爪がいつもより間近で見えた。
 手と手の距離がわずか数センチということに、気分が高揚する。

(いや、見とれている場合ではない……か?)

 予定では、もう一、二週間ほど後になってから話しかけるタイミングをうかがうつもりだった。だがこの状況、チャンスととらえ、存分に利用すべきなのではないか? 総一郎はそう思った。

 礼を言ったあと、そこから話を広げてみてはどうだろうか。うまくいけば、今日にも「他人」から「他人以上友達未満」への昇格が果たせるかもしれない。そうなれば、今日という日は祝日化してもよいほどのめでたい日となる――。

「すまない。ありがとう」

 まずは礼とともに、チーバくんのハンドタオルを受け取った。
 やや無愛想な言い方になってしまったが、キャラ的にはまあまあ無難であろうという自己評価を下した。これ以上のキャラブレは避けたかったので、いちおう及第点とする。
 よし。続いてこちらから何か言葉を――。

 ところが。
 総一郎よりも早く、相手のほうから想定外の言葉が飛んできてしまう。

「あのさ。いつも俺の前に立ってるよな?」

 そのタイミング、その内容。心臓が大きく跳ねた。飛び出るかと思った。完全に意表を突かれた。
 どう考えても、正直に答えられるはずがない問いかけだ。

 激しい動揺。
 そしてそれを表に出すまいという必死さは、新たなミスを生んだ。

「ああ。君はいつもこの次の駅で降りるから。そのあと空いた席に僕が座れるからな」

 とっさに、そう取り繕ってしまったのである。

(まずい……)

 言い終わるや否や、そう思った。
 彼の前に立つ理由が、「空いた席に座りたいため」。とっさに思いついた取り繕いにしては、完成度が高すぎやしないだろうか? しかも悪い方向に。

 若い学生でも朝の電車で座りたい人はたくさんいるだろう。リアリティがあるので、彼が完全に信じてしまった可能性がある。それではいけない。「あ、そう」で完結してしまう。その先がない。
 なぜこのような拡張性のない答えを選んでしまったのだろう。もっと話を広げやすい、たとえば本音が別にあることを匂わせるような、そんな感じにはできなかったのだろうか?

 また、人を『席確保要員』として扱っているような印象を与えてしまった可能性が濃厚であることも気がかりだ。
「僕のために席を取っておいてくれ」と言われて気分のよい人間などいないだろう。イメージの大幅悪化を招いたのではないか。

 さらには、実際には彼が下車したあと、自分は空いた席に座っていない。体調管理には気を遣っているので座る必要が特にないということもあるし、彼が温めた座席を使うことに少々気恥ずかしさもあったからだ。虚偽答弁にも当たってしまっている。

 最悪だ。今後にもつながらず、こちらに対しての印象が悪化したであろうという事実と、嘘をついてしまったという後味の悪さが残ってしまった。
 これはきっと、平成三十年史で振り返られてしまうレベルの愚答――。

 一人反省会を開いていると、彼の最寄り駅に着いたことを知らせるアナウンスが耳に入った。
 ハッとして彼を見ると、こちらに向けて笑顔で小さく会釈をしてきた。そしてサッと野球用バッグを取り、下車していく。
 総一郎は、それを目で追うことしかできなかった。

 彼がいなくなっても、反省タイムは続く。

(そもそも、だ)

 毎日彼の前に立っているのに、向こうからボールが飛んできた途端に慌てふためき、ミスを犯してしまうというのはどうなのだろう。トラブル対応集や想定問答集の一冊二冊くらいは作っておくべきだったのではないか。生徒会役員らしからぬ、お粗末なリスクマネジメントだったのではないか――。

 後悔に沈んでいるうちに、総一郎も学校の最寄り駅についてしまった。



 駅の改札を出て、通学路をとぼとぼ歩いていく。
 惨めだった。

 が、いつのまにか到着していた校門の前で、ふと思った。

(ん……? いや、待てよ)

 一概に悪い結果だけとも言えないのではないか? 
 彼を席確保要員呼ばわりしたことは当然よいことなどではないが、それは自分が今後も彼の前に立ち続けるという宣言をしたことにもなる。そして彼はそれに対し、笑顔をもって答えた。内心がどうかはともかくとして、申請書に承認印を押してくれたということだ。

 つまり、今回の失策によって不可逆的な関係解消となってしまったわけではない。明日以降も、堂々と彼の前に立つことはできるのである。

 虚偽答弁の罪悪感についても、明日以降、彼が下車したあと実際に席に座ってしまえばいい。そうすれば『嘘から出たまこと』となる。やや恥ずかしさはあるが、座ってみたいという思いがなかったわけではない。

(なんだ。絶望することはなかったな。まだ失点は取り返せる)

 落ちていた肩が、元どおりになった。
 天を見上げる。みずみずしい、春の青空。

(もうテストなどどうでもよい)

 明日また彼に会えるだろうから、テスト中の時間も使って頭の中の準備を整えておこう――。
 総一郎は挽回を誓い、門をくぐるのだった。


 なお、テストの結果は学年一位だった。





(『だいたいチーバくんのおかげでややこしくなった話』 終)
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