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第三章 黒き天使
第11話 今まで生きてきた中で、一番楽しかった
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アカリとミナトは、ふたたび契約の地・秋葉原へと戻ってきた。
一般的な会社であれば、終業直後と思われる時間。
そのせいか、駅前には人の数が多い。まだ日は沈んでいないが、ロータリーは周りの建物の影に入っており、やや暗く感じた。
空を見上げると、天高くそびえ立つ本魔の塔があった。
相変わらずの、黒く禍々しい姿。
「なんかあの塔、久しぶりに見る気がするね。そんなはずはないんだけど」
直近で見たのは、旅行に出る日の朝だから、つい昨日のことだ。
「……そうだな」
ミナトも、やや溜めたのち、抑えた声量で答えた。
二人は、契約を結んだファーストフード店の方角に向かって、歩き始めた。
――旅が、終わってしまう。
上野駅の少し手前でポンポンと頭を叩かれて目を覚まして以来、確実に迫ってきているその事実が、徐々に重さを増してアカリにのしかかってきていた。
明日からまた、なんの変わり映えもない毎日が始まる。
この不思議な悪魔とも、会うことはなくなる。
残念。
アカリの頭は、素直にそう感じていた。
「あーあ。ずっと一緒に、どっかに行っていたかったな」
それは、口に出すつもりではなかった。
やたら楽しそうで、同伴者として一生懸命。だが、彼にとっては旅への同行はあくまで『契約の履行』にすぎないはずだ。
だからそんなことを言う予定ではなかったし、何より恥ずかしい。
なのに、ボロッと出てしまった。
「俺もそう思う」
取り繕う間もなくまっすぐな同意が飛んできて、アカリは救われた。発赤しかけていた顔が、急速に元通りになっていく。
自分の隣、歩道の車道側で歩く彼を見た。
願いはきちんと叶えるが、他の悪魔のように魂を奪うことはしないという、ちょっと変わった悪魔。
その表情は、まだ旅行中と変わらない。悪魔の一種だということが嘘のような、優しく純粋な笑顔。
――よかった。
帰りの特急列車に乗っていたあたりから、彼は徐々に口数が減っていた。
ひょっとしたら、同じようなことを考えてくれていたのだろうか。
もしもそうであれば、うれしい。そう思った。
列車の冷房でひいていた汗がふたたび噴き出してきていたが、アカリは普段よりゆっくりと歩き続けた。
彼も、特に何も言わず、同じペースで歩いてくれた。
二人の目の前には、契約をおこなったファーストフード店。
ミナトが、アカリよりも少し前に出て、足を止めた。
その意味を理解しているアカリも、それを見て足を止める。
「アカリ」
「うん」
振り返って向き合ってきた彼の笑顔は、どこか寂しげで、先ほどまでに見せていたものとは異なっていた。
まだ彼と知り合って二日。だが、はっきりと変化がわかった。
「ここで、お別れだ」
ついに、旅は終わりなのだ。
「契約終了ってことだね」
「ああ。契約場所とみなされる範囲内に入った。今このときをもって契約終了だ」
彼は、背負っていたアカリのバッグを降ろし、渡してきた。
アカリは両手で受け取ったが、目線がそこに落ちることはなかった。
契約終了。そしてお別れ。
惜しみながら、普通にバイバイすればいい。
ここまで歩いている途中に、気持ちを整えようと、いちおうの努力はしていた。
していたはずだった。
きっと大丈夫だろう。そうも思っていた。
だが――。
「念のため言うけど、お前以外には俺の姿が見えないようにしたから」
そう言って彼が背中から悪魔の羽を出すと、努力は水泡に帰した。
「――!」
骨と骨の間の飛膜は、ところどころが傷んでいた。
左の羽は特に酷い。小さな穴がいくつも空いており、下部には線状に大きく裂けてしまっているところがある。
穴や裂け目は……赤黒く見えた。流れたのはきっと、人間と同じ、赤い血。
「羽……やっぱりボロボロだったんだ……」
「大丈夫だ。電車の中で言ったとおり、すぐ治るし、飛んで帰るには全然問題ないぞ」
ミナトは笑いながら、傷ついた羽を軽く揺らす。
「本当に大丈夫だからな? 心配するな」
彼は照れることもなく、頭を掻くこともなく。出発前や旅行中とは異質な笑顔のまま、もう一度そう答えた。
「じゃあ、もう行――」
「待って!」
その声で、大きく動かそうとしていたであろう羽が、ピタッと止まった。
「もう、二度と会えない……の?」
「ああ。もう二度と会えない。今見えているあの塔も、すぐに消えるはずだ」
「そう……。でも、やっぱり、今すぐここでバイバイって、なんか嫌だよ……もうちょっとだけ……」
「……」
「フライドポテトおいしいって言ってたよね? 今から食べていかない?」
「いや、遠慮しとくよ。サンキュ」
「じゃあ……あ、そうだ。塔の中を見せてよ。あんたにつかまったら運んでくれるって、旅行に行く前に言ってたよね」
「契約が終わっているから、それはもうだめだ。見せられない」
言わないはずだった言葉が、アカリの口から次々に出てきてしまっていた。
だがそれも、彼は流していく。
「なんか、冷たいね……」
「冷たいとか言うな。契約ってそんなもんだ」
「でも、契約って言ってもさ。私、言われたとおりに本をちゃんと読むかどうかわからないよ? サボるかもしれないよ? 今後も私を監視したほうが――」
「アカリ」
名前を呼ぶ一声だけで、アカリは言葉が出なくなった。
ミナトの声に、悲しそうな響きが含まれていたからだ。
アカリはうつむいてしまった。
「アカリ。お前は、俺との約束を破るつもりなのか?」
――。
破ると言えば、この先も会えるのだろうか。
「私は……」
そう言えば、この先も様子を見にきてくれるのだろうか。
また魔本を見ながら、説教をしてくれるのだろうか――。
「破らないよ」
でも、それを口にすることはできなかった。
「私は、たぶん守る。いや、絶対守るよ」
顔をあげ、目をしっかり見て、そう答えた。
約束を守る。彼のためにできることは、それしかないだろうから。
「だよな。そう言ってくれると思った」
彼がまた笑った。
その笑顔を見るのはもう、つらくなっていた。
しかしそれでも、アカリは頑張って目を合わせ続けた。
「じゃあ、俺はもう時間がないから。本当に行くぞ」
ミナトが、傷ついた羽を大きく広げた。
「……うん。わかった。ミナト、ありが――」
「アカリ、もうツイッターに変なこと書くなよ? 元気でやれよっ」
感謝の言葉を遮ると、彼は背を向け、空へと飛んだ。
「あっ、ちょっと待っ――」
思わず伸ばした手は、もちろんどこにも届かなかった。
彼の姿は、あっという間に小さくなっていく。そして塔の後ろに回り、すぐに目で追えなくなった。
「……」
礼すらも言わせてもらえなかったアカリは、空を見上げ、呆然と立ち尽くした。
* * *
何分くらい、その場でボーっとしていたのだろう。
誰もがうだるような暑さはそのままに、暗さが確実に増してきていた。
空も赤くなってきている。もうすぐ日没となるだろう。
「あ……」
目の焦点を取り戻したアカリは、塔が消えていることに気づいた。
もう完全に、いつもの秋葉原の景色となっていた。
――私も、帰ろう。
いつも使っている都営地下鉄の駅に向かって、歩き始めた。
もう、二度と会えない。それを考えないようにしようと思っても、無理だった。
足が地をつかめなくなっていて、歩いているというよりも、フワついているという感覚のほうが近かった。
肌に貼りつくシャツの不快感も徐々に薄れ、ただぼんやりとした景色だけが流れていく。まるで自分の目で見ていないようだった。
だからかもしれない。
普段は犯さないミスをしてしまった。
信号がない横断歩道。いつもなら、必ず左右を見て横断歩道を渡っていたのに。
このときだけ、うっかり、前だけを見て進んでしまった。
――あ。
左折してくる大きなワゴン車に気づいたときには、もう遅かった。
明らかに徐行ではない速度が出ていたと思われたが、アカリには不思議なほどスローモーションに見えた。
ゆっくりと迫る、大きな塊。
そのナンバープレートも、フロントガラスの向こうの運転手も。ぼやけてはいたけれども、ゆっくりと拡大していく。
ああ、はねられるのか、と、やはりぼやけた頭で思った。
だが、刹那――。
「――?」
体の後ろに強い衝撃があり、前に……いや斜め上の方向に、突き飛ばされたような、打ち上げられたような、そんな感覚がした。
抱えられている気がしたが、突然かつ一瞬のことで、何が起きているのかよくわからない。
よくわからないまま、パキパキという音とともに体が止まった。
「……」
空が、見えた。
横断歩道の向こう側に植えてあった、枝葉が細かく丈の低い植樹。音から判断するに、おそらくそこに背中から着地したのだろうと推測した。
発射時と違い、着地の衝撃はほとんどなかった。
痛みも……まったく感じていない。小枝のチクチクすらもなかった。
背中に感じるのは、この暑さでもまったく不快に感じない熱。
これは――。
「ミナト!」
起き上がると、やはりそうだった。
アカリの下にいたのは、黒い羽の生えた、褐色の青年。
車にはねられる寸前、彼が飛んできて助けてくれたのだ。
「アカリ……悪魔的には契約は終わったけどよ……人間的には家に帰るまでが旅行だろ……? 気を抜いたら……だめだ……」
彼は植樹に埋もれたまま、左手で魔本を開き、弱々しい笑顔を浮かべた。
「ああ、でも……お前がボーっとしてたの、俺が原因ぽいよな……悪かったな……」
もう会えないはずの彼がいるという混乱よりも、歓喜の感情が圧倒的に勝った。
アカリは彼の腕を取って起き上がるのを手伝い、そのまま抱きついた。
彼も、腕を回してきた。
すべてが、優しかった。
体も、腕も、手も。わずかに当たる、魔本の背すらも。
最初に会った日、そして旅行一日目。どうしてこの体につかまるのを断ってしまったのだろう――。
そう後悔するくらい、優しい感触がした。
なのに。
彼の手と魔本が、すぐにアカリの背中を滑り落ちた。
「え」
手だけでなかった。彼の全身から力が急速に抜けていった。
そしてアカリの体の前面を滑るように崩れ落ち、沈む。
「ミナトっ? 大丈夫? どこか大きなケガした?」
アカリは慌ててしゃがみこみ、彼の頭が地面に激突しないよう、両手で食い止めた。
さっき渡されたバッグが、すぐ前に落ちていた。それを枕にし、傷ついた羽を下敷きにしないよう、慎重に横向きに寝かせた。
「ちょっと待って。い、今救急車を」
急いでバッグのサイドポケットからスマホを取り出そうとしたアカリだったが、その腕がつかまれた。
ミナトの右手だ。
震えていた。
「気にしなくていい……ケガなんてしてない。けど、俺は契約違反で……消えてなくなるんだ」
「き、消え……? う、嘘だよね?」
彼の全身が、薄暮の中、うっすらと光に包まれてきていた。
それが意味するところは……認めたくなかった。
「……違反って何……わけわかんないし……。どこかケガしただけなんでしょ? ケガってすぐ治るって言ってたよね? 大丈夫なんだよね?」
「ごめんな。こうやって見せる予定じゃ……なかったけどな……。でも事故が……俺が消える前で……よかった」
彼を包む光が徐々に増してくるとともに、その褐色の肌が徐々に半透明になっていく。
「や、やだよ……。契約は終わったんだろうけどさ、また予定合わせて会おうよ。また旅行にも行こうよ。あんたが行きたいところに合わせるからさ。今度はさ、私がちゃんとガイドブック読んでガイドするから――」
「アカリ、これを」
左手で力なく差し出されたのは、彼が旅行中に持っていた魔本だった。
「さっき、俺、慌ててたから……礼を……言うの忘れてた……旅行、すげー楽しかった……サンキューな」
両目の瞼が、ゆっくりと閉じられた。
体全体を包む光が、いっそう強くなっていった。
「アカリ……人間として……この世に生まれる可能性って……どれくらいなんだろうな……」
「……」
彼が目をつぶったまま微笑む。
その体はどんどん実体がなくなり、ただの光に置き換わっているように見えた。
「人間として生まれるって……きっとそれ自体が幸せなんだ……。ああ、これは魔本の言葉じゃなくて……今考えた、俺の――」
体が完全に大きな光の塊となり、そこから小さな光の粒へ、急速に分解されていく。
やがて、何もなくなった。
あたりに響き渡る、アカリの絶叫。
それが途絶えると、意識を手放したその体が、ゆっくりと地に沈んでいった。
駆け寄ってきていたワゴン車の運転手の声。
集まってきていた通りすがりの人たちの声。
あたりは騒然となった。
一般的な会社であれば、終業直後と思われる時間。
そのせいか、駅前には人の数が多い。まだ日は沈んでいないが、ロータリーは周りの建物の影に入っており、やや暗く感じた。
空を見上げると、天高くそびえ立つ本魔の塔があった。
相変わらずの、黒く禍々しい姿。
「なんかあの塔、久しぶりに見る気がするね。そんなはずはないんだけど」
直近で見たのは、旅行に出る日の朝だから、つい昨日のことだ。
「……そうだな」
ミナトも、やや溜めたのち、抑えた声量で答えた。
二人は、契約を結んだファーストフード店の方角に向かって、歩き始めた。
――旅が、終わってしまう。
上野駅の少し手前でポンポンと頭を叩かれて目を覚まして以来、確実に迫ってきているその事実が、徐々に重さを増してアカリにのしかかってきていた。
明日からまた、なんの変わり映えもない毎日が始まる。
この不思議な悪魔とも、会うことはなくなる。
残念。
アカリの頭は、素直にそう感じていた。
「あーあ。ずっと一緒に、どっかに行っていたかったな」
それは、口に出すつもりではなかった。
やたら楽しそうで、同伴者として一生懸命。だが、彼にとっては旅への同行はあくまで『契約の履行』にすぎないはずだ。
だからそんなことを言う予定ではなかったし、何より恥ずかしい。
なのに、ボロッと出てしまった。
「俺もそう思う」
取り繕う間もなくまっすぐな同意が飛んできて、アカリは救われた。発赤しかけていた顔が、急速に元通りになっていく。
自分の隣、歩道の車道側で歩く彼を見た。
願いはきちんと叶えるが、他の悪魔のように魂を奪うことはしないという、ちょっと変わった悪魔。
その表情は、まだ旅行中と変わらない。悪魔の一種だということが嘘のような、優しく純粋な笑顔。
――よかった。
帰りの特急列車に乗っていたあたりから、彼は徐々に口数が減っていた。
ひょっとしたら、同じようなことを考えてくれていたのだろうか。
もしもそうであれば、うれしい。そう思った。
列車の冷房でひいていた汗がふたたび噴き出してきていたが、アカリは普段よりゆっくりと歩き続けた。
彼も、特に何も言わず、同じペースで歩いてくれた。
二人の目の前には、契約をおこなったファーストフード店。
ミナトが、アカリよりも少し前に出て、足を止めた。
その意味を理解しているアカリも、それを見て足を止める。
「アカリ」
「うん」
振り返って向き合ってきた彼の笑顔は、どこか寂しげで、先ほどまでに見せていたものとは異なっていた。
まだ彼と知り合って二日。だが、はっきりと変化がわかった。
「ここで、お別れだ」
ついに、旅は終わりなのだ。
「契約終了ってことだね」
「ああ。契約場所とみなされる範囲内に入った。今このときをもって契約終了だ」
彼は、背負っていたアカリのバッグを降ろし、渡してきた。
アカリは両手で受け取ったが、目線がそこに落ちることはなかった。
契約終了。そしてお別れ。
惜しみながら、普通にバイバイすればいい。
ここまで歩いている途中に、気持ちを整えようと、いちおうの努力はしていた。
していたはずだった。
きっと大丈夫だろう。そうも思っていた。
だが――。
「念のため言うけど、お前以外には俺の姿が見えないようにしたから」
そう言って彼が背中から悪魔の羽を出すと、努力は水泡に帰した。
「――!」
骨と骨の間の飛膜は、ところどころが傷んでいた。
左の羽は特に酷い。小さな穴がいくつも空いており、下部には線状に大きく裂けてしまっているところがある。
穴や裂け目は……赤黒く見えた。流れたのはきっと、人間と同じ、赤い血。
「羽……やっぱりボロボロだったんだ……」
「大丈夫だ。電車の中で言ったとおり、すぐ治るし、飛んで帰るには全然問題ないぞ」
ミナトは笑いながら、傷ついた羽を軽く揺らす。
「本当に大丈夫だからな? 心配するな」
彼は照れることもなく、頭を掻くこともなく。出発前や旅行中とは異質な笑顔のまま、もう一度そう答えた。
「じゃあ、もう行――」
「待って!」
その声で、大きく動かそうとしていたであろう羽が、ピタッと止まった。
「もう、二度と会えない……の?」
「ああ。もう二度と会えない。今見えているあの塔も、すぐに消えるはずだ」
「そう……。でも、やっぱり、今すぐここでバイバイって、なんか嫌だよ……もうちょっとだけ……」
「……」
「フライドポテトおいしいって言ってたよね? 今から食べていかない?」
「いや、遠慮しとくよ。サンキュ」
「じゃあ……あ、そうだ。塔の中を見せてよ。あんたにつかまったら運んでくれるって、旅行に行く前に言ってたよね」
「契約が終わっているから、それはもうだめだ。見せられない」
言わないはずだった言葉が、アカリの口から次々に出てきてしまっていた。
だがそれも、彼は流していく。
「なんか、冷たいね……」
「冷たいとか言うな。契約ってそんなもんだ」
「でも、契約って言ってもさ。私、言われたとおりに本をちゃんと読むかどうかわからないよ? サボるかもしれないよ? 今後も私を監視したほうが――」
「アカリ」
名前を呼ぶ一声だけで、アカリは言葉が出なくなった。
ミナトの声に、悲しそうな響きが含まれていたからだ。
アカリはうつむいてしまった。
「アカリ。お前は、俺との約束を破るつもりなのか?」
――。
破ると言えば、この先も会えるのだろうか。
「私は……」
そう言えば、この先も様子を見にきてくれるのだろうか。
また魔本を見ながら、説教をしてくれるのだろうか――。
「破らないよ」
でも、それを口にすることはできなかった。
「私は、たぶん守る。いや、絶対守るよ」
顔をあげ、目をしっかり見て、そう答えた。
約束を守る。彼のためにできることは、それしかないだろうから。
「だよな。そう言ってくれると思った」
彼がまた笑った。
その笑顔を見るのはもう、つらくなっていた。
しかしそれでも、アカリは頑張って目を合わせ続けた。
「じゃあ、俺はもう時間がないから。本当に行くぞ」
ミナトが、傷ついた羽を大きく広げた。
「……うん。わかった。ミナト、ありが――」
「アカリ、もうツイッターに変なこと書くなよ? 元気でやれよっ」
感謝の言葉を遮ると、彼は背を向け、空へと飛んだ。
「あっ、ちょっと待っ――」
思わず伸ばした手は、もちろんどこにも届かなかった。
彼の姿は、あっという間に小さくなっていく。そして塔の後ろに回り、すぐに目で追えなくなった。
「……」
礼すらも言わせてもらえなかったアカリは、空を見上げ、呆然と立ち尽くした。
* * *
何分くらい、その場でボーっとしていたのだろう。
誰もがうだるような暑さはそのままに、暗さが確実に増してきていた。
空も赤くなってきている。もうすぐ日没となるだろう。
「あ……」
目の焦点を取り戻したアカリは、塔が消えていることに気づいた。
もう完全に、いつもの秋葉原の景色となっていた。
――私も、帰ろう。
いつも使っている都営地下鉄の駅に向かって、歩き始めた。
もう、二度と会えない。それを考えないようにしようと思っても、無理だった。
足が地をつかめなくなっていて、歩いているというよりも、フワついているという感覚のほうが近かった。
肌に貼りつくシャツの不快感も徐々に薄れ、ただぼんやりとした景色だけが流れていく。まるで自分の目で見ていないようだった。
だからかもしれない。
普段は犯さないミスをしてしまった。
信号がない横断歩道。いつもなら、必ず左右を見て横断歩道を渡っていたのに。
このときだけ、うっかり、前だけを見て進んでしまった。
――あ。
左折してくる大きなワゴン車に気づいたときには、もう遅かった。
明らかに徐行ではない速度が出ていたと思われたが、アカリには不思議なほどスローモーションに見えた。
ゆっくりと迫る、大きな塊。
そのナンバープレートも、フロントガラスの向こうの運転手も。ぼやけてはいたけれども、ゆっくりと拡大していく。
ああ、はねられるのか、と、やはりぼやけた頭で思った。
だが、刹那――。
「――?」
体の後ろに強い衝撃があり、前に……いや斜め上の方向に、突き飛ばされたような、打ち上げられたような、そんな感覚がした。
抱えられている気がしたが、突然かつ一瞬のことで、何が起きているのかよくわからない。
よくわからないまま、パキパキという音とともに体が止まった。
「……」
空が、見えた。
横断歩道の向こう側に植えてあった、枝葉が細かく丈の低い植樹。音から判断するに、おそらくそこに背中から着地したのだろうと推測した。
発射時と違い、着地の衝撃はほとんどなかった。
痛みも……まったく感じていない。小枝のチクチクすらもなかった。
背中に感じるのは、この暑さでもまったく不快に感じない熱。
これは――。
「ミナト!」
起き上がると、やはりそうだった。
アカリの下にいたのは、黒い羽の生えた、褐色の青年。
車にはねられる寸前、彼が飛んできて助けてくれたのだ。
「アカリ……悪魔的には契約は終わったけどよ……人間的には家に帰るまでが旅行だろ……? 気を抜いたら……だめだ……」
彼は植樹に埋もれたまま、左手で魔本を開き、弱々しい笑顔を浮かべた。
「ああ、でも……お前がボーっとしてたの、俺が原因ぽいよな……悪かったな……」
もう会えないはずの彼がいるという混乱よりも、歓喜の感情が圧倒的に勝った。
アカリは彼の腕を取って起き上がるのを手伝い、そのまま抱きついた。
彼も、腕を回してきた。
すべてが、優しかった。
体も、腕も、手も。わずかに当たる、魔本の背すらも。
最初に会った日、そして旅行一日目。どうしてこの体につかまるのを断ってしまったのだろう――。
そう後悔するくらい、優しい感触がした。
なのに。
彼の手と魔本が、すぐにアカリの背中を滑り落ちた。
「え」
手だけでなかった。彼の全身から力が急速に抜けていった。
そしてアカリの体の前面を滑るように崩れ落ち、沈む。
「ミナトっ? 大丈夫? どこか大きなケガした?」
アカリは慌ててしゃがみこみ、彼の頭が地面に激突しないよう、両手で食い止めた。
さっき渡されたバッグが、すぐ前に落ちていた。それを枕にし、傷ついた羽を下敷きにしないよう、慎重に横向きに寝かせた。
「ちょっと待って。い、今救急車を」
急いでバッグのサイドポケットからスマホを取り出そうとしたアカリだったが、その腕がつかまれた。
ミナトの右手だ。
震えていた。
「気にしなくていい……ケガなんてしてない。けど、俺は契約違反で……消えてなくなるんだ」
「き、消え……? う、嘘だよね?」
彼の全身が、薄暮の中、うっすらと光に包まれてきていた。
それが意味するところは……認めたくなかった。
「……違反って何……わけわかんないし……。どこかケガしただけなんでしょ? ケガってすぐ治るって言ってたよね? 大丈夫なんだよね?」
「ごめんな。こうやって見せる予定じゃ……なかったけどな……。でも事故が……俺が消える前で……よかった」
彼を包む光が徐々に増してくるとともに、その褐色の肌が徐々に半透明になっていく。
「や、やだよ……。契約は終わったんだろうけどさ、また予定合わせて会おうよ。また旅行にも行こうよ。あんたが行きたいところに合わせるからさ。今度はさ、私がちゃんとガイドブック読んでガイドするから――」
「アカリ、これを」
左手で力なく差し出されたのは、彼が旅行中に持っていた魔本だった。
「さっき、俺、慌ててたから……礼を……言うの忘れてた……旅行、すげー楽しかった……サンキューな」
両目の瞼が、ゆっくりと閉じられた。
体全体を包む光が、いっそう強くなっていった。
「アカリ……人間として……この世に生まれる可能性って……どれくらいなんだろうな……」
「……」
彼が目をつぶったまま微笑む。
その体はどんどん実体がなくなり、ただの光に置き換わっているように見えた。
「人間として生まれるって……きっとそれ自体が幸せなんだ……。ああ、これは魔本の言葉じゃなくて……今考えた、俺の――」
体が完全に大きな光の塊となり、そこから小さな光の粒へ、急速に分解されていく。
やがて、何もなくなった。
あたりに響き渡る、アカリの絶叫。
それが途絶えると、意識を手放したその体が、ゆっくりと地に沈んでいった。
駆け寄ってきていたワゴン車の運転手の声。
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