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前編

7.危機-1

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 年度の始まりである夏が終わり、秋も過ぎ、暦年の最後の月が目前に迫る冬のある夜。
 イリスの研究室には、来客があった。

 寝姿勢に近くなる診察台へ体を預けた、三十代ぐらいの素朴な顔立ちの男。
 悲痛に顔を歪めながら男の語る話を、隣の丸椅子に座るイリスは相槌を挟みつつ聞き入っている。

「――そうして、私は妻と娘を、見殺しにしたんです……」
「あなたの所為ではありません。……辛い記憶をよく話してくださいましたね」

 イリスはアルヴィドへの復讐の過程で、記憶を取り出す魔術を編み出した。
 それまで記憶に関する魔術として存在したのは、記憶を見る魔術や、消す魔術だけだった。イリスの記憶分離の魔術のように、物体として取り出し、それを本人か第三者へ再度入れ直すこともできる術は他にない。
 記憶を消す魔術は、心身を病むほどの辛い経験をした人間に対し、治療を目的に使用されることがある。しかし、従来のそれは記憶を大まかな範囲でしか消せなかった。記憶は消し過ぎると人格を損なう。辛いことを忘れられても、人が変わってしまうという重大な副作用を引き起こす恐れがあった。
 対して、イリスの記憶分離の魔術であれば、細やかに選んだ範囲を、消すのではなく取り出しただけになる。万が一人格が変わってしまった場合には、出した記憶を戻せば取り返しがつく。また、分離した記憶の内、比較的問題がなさそうな部分だけ本人へ戻し、治療の効果と副作用の中庸を探ることができる。

「お約束通り、私は事故の記憶と、その後あなたがそれを思い返してしまった時の記憶を、探して抜き取ります。後から支障が出た場合は、時間はかかりますが、少しずつ分離した記憶をあなたへ戻して、最適な状態に近づくよう努力します」

 悪用されれば危険な魔術であると理解しているイリスは、編み出した術の詳細を公開しなかった。ただしルーヘシオンで働き始めてからは、精神治療を行う国立病院の紹介を経た相手に対してのみ、記憶分離の魔術を用いての治療を施している。
 現在は教師と、限られた相手への治療と、記憶分離の魔術の悪用を防ぎつつ普及させる方法の研究が、イリスの主な仕事である。

「お願いします。先生」
「はい。ではあなたの記憶に触れるための準備をします」

 そう言ってイリスは、三つの薬品を取り出して診察台の隣のテーブルへ並べた。

「まずこれが、魂を体から抜きやすくする薬です」

 青い香炉に入れた薬品を示す。
 吸い込んでいる間だけ効果がある薬だ。特別な魔法道具の香炉で、一番近くにいる人間だけに薬の成分が届く。

「他人の頭の中の記憶は、肉体を持ったままでは見ることができません。あなたのどの記憶を取り出さなくてはならないのか、私が魂だけの存在になって、確認しに入らせてもらいます。そのための薬です」

 イリスが魂だけになって、男の記憶を確認し、必要な記憶を取り出してくる。体から魂を抜くことは非常に危険だが、治療のためにはやむを得ない。

「次にこれが、魔力を失わせる薬です。あなたへ投与します。一時的なもので、記憶の分離を終えて、少し休憩した頃に効果は消えます」

 液体の入った瓶と注射器を示した。

「杖や呪文を用いなくても、微弱ですが念じるだけで魔力は操れます。魂だけになった私が記憶を覗いた時、あなたの防御本能が働き、魔力で拒絶される場合があります。魂は繊細ですから、弱い魔力の抵抗を受けただけで過敏に反応し、強制的に自分の肉体へ戻されます。そうして無理に戻ると、体に魂が上手くなじみません。自ら戻った場合と違って、体を動かせるようになるまで時間がかかってしまいます」

 つまり、魔力で魂を拒絶されると治療が中止になり、イリスの体もしばらく動かなくなるので、患者が抵抗しないよう魔力を止めておくということだ。
 彼の魔力の有無は、紹介状に記載があったため知っている。

「最後にこれが、眠り薬です」

 黒い香炉の薬を示した。青い香炉と色と中身が違うだけの同じ道具であり、これも最も近い一人にだけ薬が効く。

「この術は私の秘術です。詳細の秘匿のために、治療中は眠っていただきます。これらの使用に同意してくれますか?」
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