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魔女編
8:皇帝の訪れ(1)
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その日は突然だった。
「本日、皇帝陛下がレディとの顔合わせのために、後宮へお越しになります」
朝の身支度を済ませた後、女官がそれを知らせに来た。
夜には、メルセデスのお披露目も兼ねた、マリエルヴィ王国との戦争の勝利を祝う夜会があると告げられていた。だが、皇帝が来るとは聞いていない。
「今日は戦勝祝いがあるのではなかったのですか」
「はい。顔合わせはお昼を過ぎた頃ですので、それまでにお支度をなさってください」
夜ではなく昼過ぎとは急なことだ。
「陛下がいらっしゃるというのは、それは、つまり……」
メルセデスが冷や汗をかきながらぼかして尋ねると、意味を察した女官は深く頷く。
「はい。その可能性も踏まえて、お支度ください」
なんということだろう。メルセデスは内心大いに焦った。
本来の愛妾としての役目、すなわち子供を儲ける必要はないと思っていたのに。メルセデスが魔女と呼ばれた情報は間違いなく届いている。だから安心して、憎悪の的としての役目に専念していればよかったはず。
「なぜこんなに突然」
「どのレディとの顔合わせも、前日決定して当日の朝にお触れがございます。また、お時間も、どなた様も昼過ぎと決まっております」
つまりいつも通りということだ。
しかしいつも通りと言われても、自分には来ないと思っていたため、処女のメルセデスは準備不足だった。
女官が帰っていったあと、侍女たちに慌てて入浴させられる。彼女らに体を磨かれる間、寝台でどのように振る舞えばよいのか尋ねるが、かなり遠回しで詩的な表現によって手順を教えられた。祖国で得た、処女が迎え入れると痛いという情報が、メルセデスの緊張を高める。
風呂上がりに体へ香油の混じった保湿剤を塗られ、夜着ではなく一応昼間用の最も着脱しやすいドレスを着せられた。髪も整えられ、ゆるく束ねられて肩に流される。
あわただしく準備をするうちに、昼過ぎになってしまった。
再度女官の先触れがあり、皇帝が後宮に入ったと告げる。
椅子に座って待つメルセデスは手を握りしめて深呼吸を繰り返す。
目を閉じて次に開けたら、何もかも終わった明日になっていないだろうかなどと考えていると、控えの間から扉を開く気配があった。
ついに来た。メルセデスは立ち上がった。
「エンリケ・ダビド・アレグリア皇帝陛下のお越しにございます」
開け放たれた控えの間への扉から、まず女官が儀礼的に紹介をして、脇へ下がる。
その後ろから姿を見せたのは、白いマントを肩にかける、壮麗な衣装の男だった。
明るい茶色の髪で、顔はよくわからない。目元だけが隠れるように黒い薄布を下げている。鼻から下だけでの判断となるも、指導者としてはかなり若い。おそらく三十代。戦場へは出ないと聞くが、すらりとした均整のとれた体躯で、まったく鍛えていないようでもなさそうだ。
「メルセデスです」
何度も練習したように、片手でドレスの裾を持ち上げて礼を取る。
侍女たちは控えの間へ下がり、皇帝に付いてきた護衛の兵士たちも、同じく控えの間へ留まり、扉が閉められた。
二人だけになってしまった。
男は寝台ではなく、テーブルを挟んで奥のソファに座った。
「そなたも座りなさい」
大仰な口調で促されて、メルセデスもぎこちなく正面に座る。
この男こそが、帝国を十年で大国へ押し上げたアレグリア皇帝で、後宮の持ち主だ。
目元の薄布のせいで、表情どころか何に視線を向けているかもわからず、メルセデスは不安に思った。この男の不興を買えば、今日までの命になる。
シュザンヌとの練習を思い出しつつ、テーブルの上に準備されたティーポットからお茶を注ぐ。鎖は邪魔だが、カップにひっかけず上手くできた。
「聞いているだろうが――」
お茶の注がれたカップを前に置かれてから、皇帝が口を開く。と同時に、目元に薄布を下げていた装飾品を取り払ってテーブルに置いた。あっさりと山吹色の瞳と理知的で優雅な顔の全体が見える。
常日頃から顔を隠しているわけではないのだろう。穏やかな声音も相まって、急速な領土拡大を進める好戦的な印象は受けない。
「これは顔合わせであって、私はすぐに帰る」
「そう、なのですか?」
メルセデスは拍子抜けし、あからさまに安堵した顔をしてしまう。
「聞いていなかったのか……。私は現在まで、後宮の女たちと顔合わせ以外しておらぬ」
そう、皇帝は、この後宮の誰とも関係を持っていなかった。メルセデスが心配することは、少なくとも今日は起きないのだ。
侍女たちによる諸々の身支度は、今回もきっとすぐ皇帝が帰ると予想しつつも、念のためということでされたものだった。
「本日、皇帝陛下がレディとの顔合わせのために、後宮へお越しになります」
朝の身支度を済ませた後、女官がそれを知らせに来た。
夜には、メルセデスのお披露目も兼ねた、マリエルヴィ王国との戦争の勝利を祝う夜会があると告げられていた。だが、皇帝が来るとは聞いていない。
「今日は戦勝祝いがあるのではなかったのですか」
「はい。顔合わせはお昼を過ぎた頃ですので、それまでにお支度をなさってください」
夜ではなく昼過ぎとは急なことだ。
「陛下がいらっしゃるというのは、それは、つまり……」
メルセデスが冷や汗をかきながらぼかして尋ねると、意味を察した女官は深く頷く。
「はい。その可能性も踏まえて、お支度ください」
なんということだろう。メルセデスは内心大いに焦った。
本来の愛妾としての役目、すなわち子供を儲ける必要はないと思っていたのに。メルセデスが魔女と呼ばれた情報は間違いなく届いている。だから安心して、憎悪の的としての役目に専念していればよかったはず。
「なぜこんなに突然」
「どのレディとの顔合わせも、前日決定して当日の朝にお触れがございます。また、お時間も、どなた様も昼過ぎと決まっております」
つまりいつも通りということだ。
しかしいつも通りと言われても、自分には来ないと思っていたため、処女のメルセデスは準備不足だった。
女官が帰っていったあと、侍女たちに慌てて入浴させられる。彼女らに体を磨かれる間、寝台でどのように振る舞えばよいのか尋ねるが、かなり遠回しで詩的な表現によって手順を教えられた。祖国で得た、処女が迎え入れると痛いという情報が、メルセデスの緊張を高める。
風呂上がりに体へ香油の混じった保湿剤を塗られ、夜着ではなく一応昼間用の最も着脱しやすいドレスを着せられた。髪も整えられ、ゆるく束ねられて肩に流される。
あわただしく準備をするうちに、昼過ぎになってしまった。
再度女官の先触れがあり、皇帝が後宮に入ったと告げる。
椅子に座って待つメルセデスは手を握りしめて深呼吸を繰り返す。
目を閉じて次に開けたら、何もかも終わった明日になっていないだろうかなどと考えていると、控えの間から扉を開く気配があった。
ついに来た。メルセデスは立ち上がった。
「エンリケ・ダビド・アレグリア皇帝陛下のお越しにございます」
開け放たれた控えの間への扉から、まず女官が儀礼的に紹介をして、脇へ下がる。
その後ろから姿を見せたのは、白いマントを肩にかける、壮麗な衣装の男だった。
明るい茶色の髪で、顔はよくわからない。目元だけが隠れるように黒い薄布を下げている。鼻から下だけでの判断となるも、指導者としてはかなり若い。おそらく三十代。戦場へは出ないと聞くが、すらりとした均整のとれた体躯で、まったく鍛えていないようでもなさそうだ。
「メルセデスです」
何度も練習したように、片手でドレスの裾を持ち上げて礼を取る。
侍女たちは控えの間へ下がり、皇帝に付いてきた護衛の兵士たちも、同じく控えの間へ留まり、扉が閉められた。
二人だけになってしまった。
男は寝台ではなく、テーブルを挟んで奥のソファに座った。
「そなたも座りなさい」
大仰な口調で促されて、メルセデスもぎこちなく正面に座る。
この男こそが、帝国を十年で大国へ押し上げたアレグリア皇帝で、後宮の持ち主だ。
目元の薄布のせいで、表情どころか何に視線を向けているかもわからず、メルセデスは不安に思った。この男の不興を買えば、今日までの命になる。
シュザンヌとの練習を思い出しつつ、テーブルの上に準備されたティーポットからお茶を注ぐ。鎖は邪魔だが、カップにひっかけず上手くできた。
「聞いているだろうが――」
お茶の注がれたカップを前に置かれてから、皇帝が口を開く。と同時に、目元に薄布を下げていた装飾品を取り払ってテーブルに置いた。あっさりと山吹色の瞳と理知的で優雅な顔の全体が見える。
常日頃から顔を隠しているわけではないのだろう。穏やかな声音も相まって、急速な領土拡大を進める好戦的な印象は受けない。
「これは顔合わせであって、私はすぐに帰る」
「そう、なのですか?」
メルセデスは拍子抜けし、あからさまに安堵した顔をしてしまう。
「聞いていなかったのか……。私は現在まで、後宮の女たちと顔合わせ以外しておらぬ」
そう、皇帝は、この後宮の誰とも関係を持っていなかった。メルセデスが心配することは、少なくとも今日は起きないのだ。
侍女たちによる諸々の身支度は、今回もきっとすぐ皇帝が帰ると予想しつつも、念のためということでされたものだった。
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