花と娶らば

晦リリ

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 中座した蘇芳が清三を伴ってやって来たのは、それからすぐだった。
「藤村様をお連れしました」
「……父さま」
 受け取った文を開けないまま、布団の上に座っていた芹が顔をあげると、開いた襖の向こう、蘇芳の後ろから清三が顔を出していた。清三とは一昨日も祠参りをするために会っている。しかし言葉を交わすことはなかった。
 幼い頃は膝に抱き上げられたり、手を繋いで散歩をした記憶は確かにあるのだが、離れへ移されてから、父の態度は一変した。とはいっても、食事は三食必ず届けられ、成長や季節にあわせて着物も誂えてくれる。高価なものはねだれないが、蘇芳を通じて、紙や墨や書物、たまにはささやかな玩具が欲しいと言えば、それらもすぐにそろえてくれた。けれど、会いに来てくれることなどないし、祠参りに時に顔を合わせてもしかけてくるわけでもない。芹から声をかけたこともあったが、どこか悲しげに顔を反らされてしまったため、それからは声をかけることもやめた。
 思わずつぶやいた芹の声が聞こえたのか、清三はちらりと視線をあげるとやはり悲しげに眉根を寄せて俯いてしまったが、ぎしりと畳を軋ませながら部屋に入ってきた。
「……芹」
「あっ、…は、はい」
 どうしたのだろうかと自分の横に座するところまでじっと父を眺めていた芹だったが、まさか話しかけられるとは思わず、思わず上ずった声で返事をしてしまうと、遅れてやって来た恥ずかしさから、耳まで赤く染めた。
「鬼に…鬼に襲われて脚を痛めたと聞いたが、調子はどうだ」
 緊張しているのは清三も同じようで、探るように当たり障りのない言葉をかけてくる。けれども数年ぶりの会話に舞い上がってしまって、芹はあの、あの、と敷布団の上で正座をして、膝の上にかぶさったままの上掛けを握りしめた。
「す、蘇芳が手当てをしてくれました、大事ないです」
「熱も出たと聞いたが」
「もう下がっています」
「そうか……さちは、お前の母は熱が出ると七日は寝込んでいたものだったが、丈夫に育ってくれたな…」
 清三はどこかほっとしたように呟くと、それきり黙ってしまった。あぐらをかいた膝の上に両腕をのせ、その間で手を組んで、まるで木彫りの仏像のように座り込んでいる。
 数年ぶりに話が出来たことは嬉しいし、傍にいてくれることも常にないことで、嫌われているわけではないようだと確認も出来た。けれど、この雰囲気は耐え難い。
 むず痒いような、焦るような、何とも言えない気持ちに戸惑って部屋の隅にいる蘇芳をちらりと見ると、彼は背筋を伸ばして座しており、置物に徹しているとばかりに口を真一文字に結んでいた。
 蘇芳は口やかましく言葉を挟んでくるような男ではないし、このもやもやとしたわだかまった雰囲気をどうにか和ませてくれるような気性の明るいたちでもない。
 自分が打破するしかないのかと頭を巡らせていると、それまで視線を組んだ自分の指に投げていた清三がおもむろに顔をあげた。
「芹」
「は、はい」
 こんなにまっすぐ父が自分を見てくれるのは、もしかせずとも十年ぶりなのかもしれない。嬉しいことのはずなのに、胸が嫌に騒いだ。
「蘇芳から、八尋様より文を預かってきたと聞いた。もう、目は通したか」
「…いいえ、まだです」
 芹の手のひらに載ったまま、文はまだ開かれずにいる。蘇芳が出ている間に読んでもよかったのだが、なんとなく恐い気がして、そのまま手慰みに端の方を撫でただけで、中を透かして見ようとさえできなかった。
 渡されたきりの文を父に差し出すと、それを受け取った清三は蘇芳に差し出した。
「読んでくれるか」
「はい」
 受け取った蘇芳は一礼すると、躊躇なく文を開いた。横にざっと流し、もう片手を添えて、折りたたまれていたそれを露わにした。
 朗々と響き渡るような大音声などではなく、諳んじた和歌を口ずさむような、落ち着いた声で、蘇芳は文を読み上げた。
 内容は、実に簡素なものだった。
 もう少し待てるかと思ったが、今回の襲撃を受けて、もう看過出来ないほど芹の神気が強まっていると感じた。本来ならば七つで迎えに行く予定だったが、今の今まで待った。十六の誕生日の翌日、蘇芳と共に参じるように。違えれば七代先までの加護は解かれ、蘇芳も任を解く。心するように。
 そういったことを読み上げて、蘇芳は文を閉じた。
「どうぞ」
 元のように折りたたまれたそれは芹の手元に戻ってくる。蘇芳を疑うわけではないが、自分でも文を開いた芹は、決して長くはない文字の羅列を三度見返して、詰めていた息を短く吐き出した。
 いつかは来る、もしくはもしかしたら一生来ずに済むのではと思っていた日が、とうとう現実を伴って訪れた。
 物心ついた頃から、清三から言い聞かされてはいたのだ。生まれ持った神力が強すぎて、お前は人里では生きていけないと。たびたび村を襲う鬼たちは、お前の力を狙ってやってくるのだと。
 幼い頃は、なぜ自分だけ離れに幽閉されて生きなければならないのかと悲しさも憤りもあったが、それを聞かされてからは、自分が悪いのかと悲しさだけが残った。
 だからこそ、いるだけで周囲に災いを及ぼす疫病神のような自分を、幽閉をしながらも無碍にせずに育ててくれた父には感謝をしていたし、いつかその時が来ても、逆らったりして周囲を困らせることなく、粛々と受け止めようと思っていた。
 けれど、その時が来てしまった今、芹の胸中は粛々などとは程遠く騒いでいた。
「お前には、苦労ばかりかけてすまない。だが、お前が産まれた時に八尋様と交わした約束なのだ。八尋様は約束をたがえず、蘇芳を遣わせてくれた。おかげで鬼たちが襲ってきても、人死には出なくなった。そのうえ、飢饉にも見舞われずにいる。それもこれも、八尋様のおかげだ。だからこそ、今になって約束を反故にすることは……」
 苦しげに清三は言い募り、芹は視線を文からあげられないまま父の声を聞いていた。けれど、声はただの音として耳を通り過ぎていく。
 すまないと繰り返す声をどこか遠くに聞きながら、芹はふと、傍らに座したままの蘇芳を見やった。いつもはそう動くこともない眉が少しばかり顰められて、眉間にも薄く皺が寄っている。
 長年一緒にいるが、胸中に抱えている思いの真相はわからない。ずっと一緒にいすぎて、忘れてしまうほどだったのだ。蘇芳は、八尋から遣わされて芹を見守っているだけだったのだと。けれど、彼の表情を見る限り、その時が来てしまったことを、喜んでいる風には見えない。そのことにどこかほっとした芹は、父さまさえこの場にいなければ、いつでも自分を受け止めてくれる腕に身を投げられたのにと、茫然とそんな事を考えていた。
 父がいつ部屋を出て行ったのか、芹は気付かなかった。
 開かれたままの文が、吹き込んできた風に揺らされて両の手のひらの中でかさりと音を立てたのに気付いて、芹は二度瞬きをした。
 いつの間にか、差し込む光は傾く陽の色になっていた。
 傍らにはいつものように蘇芳が座っており、芹が乾いてしまった口腔をごくりと無理やり嚥下した唾で潤すと、湯を、と短く言って腰をあげた。
 居間を挟んで向こうにある土間で蘇芳が火を起こし、湯を沸かす、いつも通りの音を聞きながら、芹は翳りゆく陽の中でも変わらずに黒々と文の上を走る文字の羅列を指先でなぞった。
 父が言っていたように、今更このことに関して嫌だと突っぱねることは出来ない。芹が生まれたことで、ただでさえ鬼や妖からの襲撃が多かった村には異形たちが現れやすくなったと聞いている。けれど八尋は蘇芳を芹の護衛にと遣わせ、藤村家が統治する場所に自ら加護を与えてくれた。おかげで鬼たちからの襲撃で好きなように荒らされ、時には命まで奪われていた村人の懸念は少なくなったし、どういったわけか、定期的に雨が降るようにもなったため飢饉に見舞われることもなくなり、また大洪水が起きて川に飲み込まれるようなこともなくなった。
 芹が生まれたことで襲撃が増えはしたものの、それをとどめてくれているのだ。本来ならば生まれてすぐにどうにかなってしまってもおかしくなかった。それを、十五年も伸ばしてくれたのだ。その上、八尋は約束さえ守れば、七代先までの加護をと言ってくれている。感謝こそすれ、今更になって約束をたがえることなどできなかった。
 けれど、十五年もの間、芹は成長してしまった。
 十年前のあの日、土蔵に閉じ込められたままでいればもしかしたら、心が死んで、何も感じずに今日という日を迎えられたかもしれない。自分の身がどうなるかという不安も、両親や兄弟とももう二度と会えなくなってしまうという悲しみも感じずにいられたかもしれない。
 けれど十年間、芹は幽閉こそされたものの、大切に育ててもらったと自覚していた。
 食うに困ったことはないし、腐ったり痛んだものを与えられたこともない。離れといえども厠や水場、居間に私室、簡素ながら厨も兼ねた土間と、村に住む一般の農民たちの家よりも広い家を一軒、庭付きで与えられている。着ているものだって、成長に合わせて誂えてもらった物を毎日替えており、穴など空こうものならすぐに代わりの新しいものが届けられた。自由はないが、読み書きを教えてもらったので書物の中から世界を伺うことは出来たし、蘇芳がたくさんの植物を植えてくれたおかげで、庭先の景色は季節ごとに異なる風情で芹の目を楽しませてくれた。
 親兄弟との交流がほとんどないのは寂しかったが、その分蘇芳がずっと傍にいてくれた。世話をするだけでなく、話し相手になってくれたし、悪いことをすれば叱ってくれた。勝手に庭に出て木登りをして落ちた時など、一時間も説教をされた。読み書きを教えてくれた頃は、よく出来れば頭を撫でて褒めてくれたし、父にも内緒にしていたが、ごく稀に、離れから出て裏山に連れて行ってくれたこともあった。もちろんそれだけでなく、些細なことから喧嘩をして、三日も口を利かなかったことだってある。
 生まれてから十五年、幽閉されてから十年。芹の記憶には悲しいときも嬉しいときも、ずっと蘇芳がいた。
 だからこそ、あの土蔵に閉じ込められたままでいれば覚えなかった感情までもが育ってしまっていた。
 これからどうなってしまうのか、不安と恐怖がない交ぜになって胸の中にぐずぐずと溜まっていくようだ。そして同時に、背中を無理やり誰かに押されて転びそうになりながら走るような、そんな焦りがあった。
 けれどその正体にこれと言った名前を与えられないまま芹が文の白い面を眺めていると、盆を手にした蘇芳が脇に膝をついた。
「芹様、白湯を」
「あ……うん、ありがとう」
 湯の注がれた碗は受け取るとほんのり温かく、文を掴んだまま凍ったように動かなかった指のこわばりが解けるようだ。それほど熱くはないそれを一口、二口と飲むと、僅かな甘みが、乾いた口腔を潤した。
「これ、蜜が入ってる?」
 よくよく見ると、白い碗に入った白湯は、僅かに橙がかっている。匂いはそれほどしなかったが、確かめるようにゆっくりともう一度飲むと、確かに甘みがあった。
「はい。芹様を祠に送ってから下山する時に、山道で見つけたので」
「蜂に刺されなかった?」
「はい」
 もちろんと蘇芳は頷くが、芹はなんて恐ろしいことをと震えあがった。
 幼い頃、庭先に咲いた花に留まっていた蜂を指先で突いて刺されたことがあるのだ。指が無くなってしまったのではと思うほどの衝撃と痛みがあり、わんわんと泣いて蘇芳に助けを求めたのを、芹は今でも覚えている。少し離れたところで果樹の手入れをしていた蘇芳は飛んでくるなり芹の指先に残った針を小刀の腹で飛ばして毒を吸い上げ、ざぶざぶと水で指を洗うと、とりあえずと軟膏を塗りつけてくれた。指先の腫れはすぐに引いたものの、針から注がれた毒のせいか、それとも興奮したせいか、その日の夜は熱まで出した。それ以降、芹は普通に飛んでいるだけでも蜂が苦手になってしまい、蜂蜜が甘いことを知ってはいたものの、それを蘇芳にねだったことはなかった。
 本当に刺されやしなかったかと白湯を飲むのもそこそこに盆に碗を置いた芹は、正座をした膝に置かれた蘇芳の手を取った。
 書物以上に重いものを持つこともない芹の頼りない手に比べると、二回りも大きな手のひらは温かく硬い。長い指は節が高くしなやかだったが、芹の指よりは長かった。
 両手で蘇芳の手を掴み、蜂刺されはないかと確かめていた芹は、ふと、手の甲のあたりに走っている斜めの線に気が付いた。そこだけ肌の色が薄く、盛り上がっている。他の肌との違いは僅かなものだが、よく見ると同じようなものが手首より上にもいくつかあった。
「蘇芳、これ傷?」
「既に完治して、これはただの跡です」
「他にもある?」
「いくつか」
 事もなげに蘇芳は言うが、芹は胸元に収まった臓器がどくどくと早鐘を鳴らして脈打つのを感じた。
 昨日、芹は蘇芳が鬼に変化した姿を見た。小山のように大きくて、あの青錆色の鬼もかなわなかった。それほどに強い彼も傷を負うのかと思い、昨夜見た裸の上半身を思いだそうとしたが、あの時も蘇芳は変化を解くなりさっさと服を着てしまったのだと思い返して、芹はずいと身を乗りだした。
「腕以外には、ない?」
「………はい」
 たっぷりと置いてしまった間を自分でも失敗したと思っているのか、蘇芳は芹に取られていた自分の手を引くと、布団の上に投げ出されたままだった文を畳んで傍らにおいた。
「芹様。八尋様よりのお迎えですが」
「腕以外の傷跡、見せて」
「…お見せするようなものではありません」
「いいから、見せて!」
 迎えなど、黙っていても来てしまうのだ。そんな事より、今はいつもは着物でしっかり隠されている蘇芳の体に走る歴戦の傷を自分に突きつけておきたかった。
「傷は全て塞がっています。痛みもありません」
 どうあっても蘇芳は見せたくないのか、口を真一文字に引き結んでいる。これは、絶対に甘やかさない時の顔だ。この顔をされてしまえば、今までの芹は譲ってはもらえないのだと諦めるしかなかった。けれど、今はそれよりも焦る気持ちが体を突き動かした。
「芹、さまっ」
 座っていた布団から跳ね上がって乗りかかると、慌てながらも蘇芳は両手で芹を抱き留め、そのまま後ろにごろりと転がった。それをいいことに上に圧し掛かり、蘇芳の胸に両手をついて上背を起こした芹は、そのまま襟ぐりを掴み、左右に開いた。
 きっちりと着込まれている襟ぐりは勢いと布の固さで芹の指先を僅かに痛めたが、そんなものさえ、今はどうでもいいことだった。
 無理やり開いた蘇芳の胸元は、普段の働きや自ら日課としているという鍛錬のためか、しっかりとした筋肉がついていた。山のようなものではなく、骨に沿ってしっかりとついたものだ。けれど、それらの上には手の甲にあったような、細い傷跡がいくつもあった。小さいものは無数にあり、大きいものは十尺ほどもあった。
「…背中にも、あるの」
「背中にはありません。一筋も」
 押し倒されて服をはがされ、しくじったという表情を隠しもせずにいた蘇芳だったが、芹に問われるときっぱりと否を返した。きっと嘘ではないのだろうと、芹は強くつかんだままだった襟に絡みついた指を解いた。
 くしゃくしゃになったあわせから、もう既に塞がった傷跡が見える。
 背中に傷はないと、芹の世話係であり、護衛でもある男は言った。それは彼が一度も敵に対して背を向けたことがない表れだ。そして、その背に守られて、芹は今まで生きてこられた。
 きっと昨日の鬼のようなものをいくつもいくつも相手にしながら、芹を守ってきたのだ。
 八尋の元へ参じて、その後自分がどうなるかは知れない。けれど、無数の傷を負いながらも芹を大切に育て、守ってくれた蘇芳を前に、首を振ることなど出来るはずもない。
「芹様……?」
 自分はなんて浅はかな人間だと、芹は深く思った。
 この身がどうなるかわからない不安は尽きず、恐怖さえある。それなのに、身を呈してまで蘇芳が自分を守り続けてくれたことが何よりも嬉しかった。
 申し訳なさと喜びと不安が入り混じって、胸の中はもうぐちゃぐちゃだ。いっそ混乱している胸の中で、どの感情に押されたものかわからないが、せりあがるものがある。
 はあ、と熱い息を吐いたと同時にぽろりと頬を雫が転がり落ちて、それを追うようにくずおれた芹を、蘇芳は抱きしめてはくれなかった。代わりにどこか恐る恐る触れてきた大きな手のひらが頭を撫でてくれて、芹は確かに、様々な感情がない交ぜになった胸の中で、歓喜がひときわ強く鼓動を跳ね上げさせたのを感じていた。


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