花と娶らば

晦リリ

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 さやさやと衣擦れの音と、僅かな足音がそこかしこで動いているのを聴きながら、その日の芹は大人しく離れの居間に座していた。
 普段は芹と蘇芳しかいない離れの庭が三ヶ月に一度、女中や男衆で溢れる日がある。それは祠参りの日だった。
 芹が朝餉を終え、人心地ついた頃から準備が始まるそれは、まずは身を清めることから始まった。いつもより念入りに体を洗い、風呂から上がれば白衣に白袴を着込み、裸足を足袋に収める。準備のためにこの時だけ母屋からやってくる女中たちに髪を乾かしてもらい、それが終われば山から汲んできた清水をつけた榊で全身を掃った。
「……支度は終わりです、芹様」
 女中たちは最低限の会話しかしてくれない。もう何年も続く慣習なので彼女たちに話しかけることを諦めている芹は、首を巡らせて蘇芳を探した。
「蘇芳、お腹すいた」
「祠まで水だけで我慢してください」
「水じゃ足りないし、厠行きたくなるから嫌だ」
「それなら我慢してて下さい」
 いつもは既に朝餉を口に入れている時間だが、祠参りの日は潔斎だとかで、普段は芹に甘い蘇芳も水以外は渡してくれない。そうこうしているうちに昼が過ぎるため毎度毎度芹は蘇芳に間食を求めるが、祠で食べるのがしきたりだからと、水しかくれなかった。
 太陽が中天を過ぎた昼過ぎ、芹は屋敷の裏にある山へと赴く。小さな輿に乗せられ、その周りを白装束に身を包んだ女中と男衆が取り囲む。彼らの先導は蘇芳と、離れの外で輿を待っていた清三だ。
 総勢三十名ほどで山へ登り、一刻ほどもかけて中腹にある祠につくと、一帯の清掃が始まる。三ヶ月に一度しか来ないため、夏は野草が生い茂り、冬は枯葉や雪が降り積もっている祠の周辺を片付けるのだ。
 皆がざわざわと各々手にした箒やはたきなどで清掃をしている間、芹はといえば、輿の中でひたすらに座っているだけで、暇なことこの上ない。いっそ輿から出られれば普段話をすることなど叶わない女中たちともなにかしら話が出来るのだが、掃除が終わるまでは出ることも許されていなかった。
「蘇芳、そこの、切株のところに落ちてるの何?」
「どんぐりですね」
「あ、今うさぎ走ってった」
「本当ですか」
「ねえ、なんか良い匂いする」
「金木犀ですね。ほら見えますか、もう時期だ」
 輿の格子窓からちらりと見える男衆や女中たちを眺めながら時折蘇芳に話しかけて無聊を慰めていると、やがて掃除も終わり、ようやく芹は輿からおりるのを許される。
 ここからは芹の仕事だ。
 女中たちが運んできた酒や饅頭、果物や菜物、肉などの供え物を祠の前にある石段に並べ、芹を筆頭にして祠へ叩頭する。
 祠に祀られているのは、藤村が治める村とこの一帯の山々を守る神だ。芹はその神へ供えられる供物の一部として、この地を参拝していた。
 参拝が終わると、供え物をそれぞれ一口ずつ食べる。ようやくの食事なので一口がつい少し大きめになってしまうが、それは愛嬌だ。
 いつもは食べられないような餡がたっぷり詰まった饅頭や、好物ではあるものの高価なのでなかなか食べられない焼いた鯛など、豪華な食事をちょこちょこと食べて、最後に酒で唇を潤す。飲んでもいいものらしいが、酒精の匂いが苦手な芹は、口をちょんとつけるだけに留めていた。
 皆に見守られながら一人だけの宴を終えた芹は、そのまま祠へあげられる。十年近く前、芹と義母の妙が身を寄せ合って入った祠の中は相変わらずがらんどうで、恐ろしくなるほど静かだ。
 ここで芹はたった一人、一夜を過ごさなければならない。
 昔言いつけられたように、なにに声をかけられてもなにがあっても声を立てず、蘇芳の合言葉が囁かれるまで、祠の扉を開けてはならない。
「蘇芳、あの」
 丸まれば体を横たえることは出来るが、壁に背を預けて座り込んだ芹は、白袴の裾を直してくれている蘇芳に声をかけた。
 たった一人、祠の中で過ごすのはもう幼い頃からの習慣でいい加減に慣れた。けれど、それも心の拠り所があるからだ。
「……ああ、はい。どうぞ、芹様」
 差し出されたのは、蘇芳の数珠だ。あの日のように芹は毎月蘇芳からこの数珠を借り、一晩かけて数珠の数を数える。もっとも数えきるより先に寝入ってしまうので、全てを数えたことはないのだが、それでもこれがあるだけで恐怖心や不安は吹き飛んだ。
 祠の中に座り込んだまま、手を差し出すと、蘇芳の大きな手が芹の手首に数珠を通してくれる。数珠が三重ほどに巻かれ、最後に手のひらにかけられると、少しばかり重くなった手を引っ込めた。
「いいですか、芹様」
「うん」
「扉を閉めたら、声を出してはいけません」
「うん」
「合図は?」
「覚えてるよ」
 初めて祠で一夜を過ごしたあの日から、祠参りの終りを告げる合図と合言葉は変わっていない。
 戸を三回叩き、「白根草を迎えに来た」と蘇芳が言った後、また三回叩扉する。それが約束だ。
 それがない限り、芹は絶対に扉を開けない。こんな山奥に他の者が訪れることなど早々あることではないが、戸を叩くだけの者、「居るのはわかっているぞ」としゃがれた声をあげる者、蘇芳や清三、果ては妙と同じ声で「芹や芹や」と囁きながら祠の周りをかさかさと動く者が出たこともある。その間、芹はひたすらに数珠を握りしめていた。
 恐怖がないと言えば嘘になる。実際外になにがいたか芹にはわかり得ないが、どんな音も呼び掛けも、山道をあがってくる蘇芳の足音とともに遠ざかり、あるいは多少の喧騒のあとに霧散した。
 今夜も、なにかしらが扉を叩くかもしれない。けれど、きっと大丈夫だ。
「それでは芹様。また、明日の朝」
「うん、また明日」
 数珠の巻きつけられた手を振ると、観音開きの扉が外から閉められる。内側から閂を掛けると確認するように外から二度三度、扉が押されてギイギイと軋んだ。
 下りるぞ、と清三の声が響き、このためだけに山を登ってきた人々がさわさわとさざめきながら山を下りていく気配を扉越しに見送って、芹は祠の中で薄く目を閉じた。
 もうじき日が暮れる。あたりは暗闇に包まれ、木々の隙間から差し込む月光だけが頼りになる。
 そういえば今日は月は出るのだろうかと考えながら手慰みに数珠の珠を数えはじめた芹だが、やがて寝入ってしまい、次に目覚めたのは虫さえも鳴かない深夜だった。
 しんと静かな月の光が針の穴ほどのごくわずかなすき間から差し込む祠の中で目を擦った芹は、なにがしかの気配に気付いた。
 多くはない。ひとつかふたつ程度だ。枯葉を踏んでがさがさとあたりを歩き回っている。数珠を握りしめながら、芹は静かに瞼を閉じた。
 祠は小屋で、決して頑丈なものではない。外にいる何者かが乱暴に扱ったり、突進でもされようものなら壊れてしまうだろう。
 けれど、芹はじわじわと浸透してくる眠気に逆らうことなくいられた。
 やがて陽が昇る。蘇芳が迎えに来る。そうすれば外にいる何者かは退けられる。合図と合言葉を経て、芹は外に出られる。それは絶対なのだ。
 足音だけならまだいいが、呼ばれると眠気も飛んでしまうので、静かにしてほしいな、と緊張感など一切ないことを考えながら祠の狭い床に丸まった芹は、ひやりと冷たい数珠に頬をつけ、またそのまま眠りのふちに落ちていった。 


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