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しおりを挟む陶器が重なってぶつかり合う音を聞きながら、芹は夕餉のあとの気怠い満腹感に眠気を覚えて柱にもたれかかっていた。
既に陽は落ち、薄雲がたなびく夜空には月が瞬いている。灯皿に点した小さな火と月明かりだけが部屋の中をぼんやりと明るくしている中、芹は視線の先にある狭い土間でこまごまと動く男を見ていた。
既に湯あみは済ませたし、夕餉も今しがた終えた。揺れる小さな火だけを頼りにするほど読みたい書物があるわけでもなく、かと言って余りある時間を慰めるものが他にあるわけでもない。あとはもう寝るだけだ。
芹の朝餉から夕餉まで、蘇芳はこの離れにいてくれる。その間はなにかと芹に構い、話し相手になり、世話を焼いてくれるが、それが終われば彼は母屋の方へ帰ってしまう。いつ何時芹になにがあっても駆けつけられるように、母屋の中でも一番離れに近い部屋を貰ったと話してはいたが、それでも芹と同じ離れにいるわけではない。
離れに移されてから二年ほどは、蘇芳も一緒に離れで暮らしていた。けれど七歳を迎えた日からは蘇芳は屋敷に部屋を貰うようになり、それ以来は夜の間は離れなければならなくなった。
夜の闇はとても静かで長い。
話す相手は誰もおらず、囲いに周囲をおおわれいるため、虫の声もどこか遠い。耳が痛くなるほどの静寂に包まれて眠るが、長すぎる夜の間に目が覚めてしまうことは多い。
月明かりがなければ目を閉じているのか開いているのかさえ分からないような闇の中、考えるのは自分の世話をしてくれる男のことだ。
今日の蘇芳はこんなことをしていた、こういう顔をして笑っていた、怒っていた、しゃべっていた。そんな事ばかりを考えている。それは寂しくもあり、けれどどこか胸の奥の方がじんわりと熱を持つような感覚も覚える。
そういえば今日もいでくれた柿はとても甘くて美味しかったな、と考えていた芹は、ふと目の前が翳ったことに気付いて視線をあげた。
「芹様。俺はそろそろ戻りますが」
手拭いで額を拭きながら、昼間に使った籠やござを片付け終えたらしい蘇芳が声を投げてくる。今日はもう彼の仕事は終わりだ。蘇芳は屋敷に戻り、芹は離れに残される。
行ってしまうのかという寂しさと、せめて送り出さなければという気持ちがせめぎ合う胸中に突き動かされた芹が膝立ちで畳を擦りながら寄ると、三和土に座っていた蘇芳は笑いながら手を伸ばしてきた。
「昼間に外に出すぎましたね。頬が赤い。火照った感じはしませんか」
「……する」
確かに少し頬が熱い気がする。日頃外に出られないせいで、久しぶりに陽に当たった頬が日焼けしたのかもしれない。
自分で触れるよりも先に伸びてきた手のひらが頬を包んで、芹は小さく顎を引いて頷いた。
「ひりひりはしませんか」
「しない。明日には治ってるよ」
「そうですか」
撫でられている頬が熱い。日焼けのせいなのか、蘇芳の手が温かいせいなのかわからないでいると、やがて大きな手のひらはゆっくりと離れた。
「それじゃあ、俺はそろそろ」
「うん。おやすみなさい」
また明日、と蘇芳は離れを出て行った。
離れの屋敷の窓にはすべて格子が嵌っているため、雨戸などは開いたままだが、唯一の出入り口である引き戸には鍵がかけられる。
ごとりと重い音を立ててかけられた錠前が軽く戸にぶつかる音と、それほど広くない庭を横切って行く足音、二度聞こえる閂の差し替えの音のあと、遠ざかって行く足音が聞こえなくなるまで上がり框に座っていた芹は、やがて完全な静寂のなか、のそりと畳に両手をつき、四つん這いで寝間まで移動した。途中、居間にある灯皿に灯った火をなんのためらいもなく吹き消すと、家の中はしんと沈んだ闇に包まれた。
蘇芳が敷いてくれた布団にごろりと横になり、眠気など微塵も感じていない瞼を薄く閉じる。
目を開けているときより少しだけ深度を増した闇の中、浮かび上がるのは昼間の記憶だ。
甘い柿が美味しかった。
柿は結構大きかったのに、取ってくれた蘇芳の手のひらにすっぽりと収まっていた。
蘇芳の手のひらは、温かかった。
連鎖的に思いだしたのは、さっきまで頬に触れていた熱だ。手のひらが離れるなり忘れていたのに、やけたのではと言われた頬が熱を持ち始める。
頬どころか耳や首までわずかに汗ばむような熱に肌が震え、褥に放り出された脚をぎゅっと縮こめて、芹は丸くなった。
「………ん…」
蘇芳のことを思いだして熱が出るのは、今日が初めてではない。もう何年前からかなど忘れてしまったが、そのくらい前から不意に顔が熱くなったりすることがあった。けれど最近になってそれが、顔や首だけでなく、下腹にまで伝播するようになってしまった。
へそより少し下の、薄い腹の奥の奥のあたりがじんと疼くように熱を抱える。自分の腹の中にどんな臓腑が詰まっているかなど芹にはわかりもしないが、その熱さが下腹を拠点にして、下肢に広がるのがたまらなかった。
脚をすり合せると、その刺激で下肢の間にわだかまった熱が少しだけ和らぐ気がする。それなのに下腹の奥の疼きはより一層ひどくなる気がして、体の中で行き場を探して巡る熱にうなされながら、芹はしんと更け行く夜を過ごした。
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