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シスとロウとルウルウ
しおりを挟む夜中のうちに少し吹雪いたものの、朝になれば曇天は去り、陽射しが雪を照らしていた。
ルウルウは家にある中でいちばん中綿が分厚い手袋を嵌めた手で不器用にブーツを履こうと試行錯誤していた。マフラーを三重に巻き、セーターの上からコートを二枚羽織っているせいでもこもことして動きづらいことこの上ない。それでも顔が出ているので寒く、寒さに弱い体はすぐにあくびをして眠気を訴えた。
いつもよりは少し暖かいが、ルウルウがぱっちりと目を覚まして起きていられる気温ではない。それでも外出の用意をしているのは、家の中に誰もいなかったからだ。
いつもなら目覚めればカウチのそばのベッドにロウがいて、シスがキッチンにいるのに、今日は誰もいなかった。
暖炉はあかあかと燃えていて、寒さのあまり蛇に戻ってしまうことは避けられたが、ひとりでいることなど滅多にないルウルウだ。あっという間に心細くなって、毛布をずるずると引きずりながらシスの部屋、ルウルウの部屋、ロウの部屋、それから水回りも見て、地下にも行った。倉庫部分はもちろん、その奥のシスの研究室にも入った。年に一回、足を踏み入れるか踏み入れないかというほどめったに入らない場所は薄暗く静かで、その奥の蔵書室の扉もそっと開けてみたが、人の気配はおろか誰もいなかった。
地下からあがってきたら誰か戻っているだろうかと思ったが、しばらく待ってもシスもロウも帰ってこない。ますます不安になってきて、こうやって外に出る用意をしていた。
もしかしたらシスは湖に張った氷に穴をあけて釣りをしているのかもしれないし、ロウは近頃も満足に動ける様子はなかったけれど、シスの薬が効いて動けるようになったのかもしれない。
きっと外に二人ともいるんだと踏んで、どうにかブーツを履き終えたルウルウは暖炉に手を伸ばした。
ここで燃えているのは炎だが、シスが魔法で熾したものだ。普通の炎のように他に燃え移ることはなく、薪の上に設置しているものとルウルウには説明してくれて、シスはルウルウが知らないことや考えもつかないことをするんだと感動したのをおぼえていた。
たまにシスがやっていたように、炎を少し持っていけるだろうか、と細めの木を差し込んでつつくと、まるで蜂蜜のように枝先に炎がぬらりと移った。燃え広がらないだろうかとドキドキしながらしばらく見つめるが、シスの炎はすくった分以上は広がらず、ほっと胸をなでおろしたルウルウは小さな松明を片手にそろりと外に出た。
「さむい……っ」
風は穏やかで陽も射しているが、頬を包む空気は痛いほどに冷たい。体をすくめ、ぶるぶると震えながら階段を降りた。
家の前には畑があり、今は麻の布で覆われている。その横を通り過ぎれば、すぐに湖だ。
「し……シス、ロウー……」
湖には誰もいない。小鳥が鳴く声もなく、時折ぱささ、と枝から雪が落ちる音だけがした。
しんと静まり返っているなかに佇んでいると、ぼうっとしてきて眠くなる。
いつの間に蛇から人になれるようになったか、ルウルウは自分でもわからない。けれど人になっても蛇のころの習性は抜けず、今もシスとロウを探したいのに眠気がゆったりと体と思考の自由を奪おうとしていた。
シスもロウも、ずっと一緒にいた。きっと二人はどこかに出ていて、けれどルウルウを一人でずっと置いてきぼりにしたりはしない。
「家に……戻ろ…」
ここで倒れたりなどしたら、それこそ凍死してしまう。二本の足が動くうちに、人の姿を保っていられるうちに家にあがらないと、と今にも閉じそうな瞼を擦りながら振り返ろうとしたルウルウは、ふと視界の端で動いたものに気づいた。
枯れ木と雪に覆われた向こうから人影がやってくる。
「シス……?」
眠気で目がぼんやりとして仕方がない。思わず声に出してから、ルウルウはちがった、とつぶやいた。
冬に覆われた森から現れたのは、ロウだった。シスとは身長もほとんど同じだったので、見間違ったのかもしれなかった。
昨日まではベッドから起き上がることも大変そうだったのに、ロウは雪を踏みしめ、危なげない足取りで歩いてくる。
ざくざくと雪に足跡をつけながら森から出てきたロウは、一面の雪の中で佇むルウルウを見ると雪を踏む歩幅を大きくした。
「なにしてるんだ。冷えるだろう、早く中に……」
「ロウ。体、もう痛くないの? それになんか……そういえば、ロウってこんな風だったね」
やってきたロウは、まるで昨日まで病床に臥せっていたのが夢のようだ。出会った時のように若々しく、吐く息はか細くもなく冷気に反応して白くけぶった。
「痛くない。シスが作った薬が効いたんだ」
「シスが? すごい、やっぱりシスはすごいね。小さい頃は泣き虫だったのにね、どんどん大きくなって……今じゃ僕よりも色んな事が出来るし、なんでも知ってる。シスは本当にすごいなあ……」
ルウルウはあまり頭はよくないし、長く生きているうちの半分も覚えていないほど忘れっぽいが、シスを拾った時のことは忘れたことがない。ルウルウの冷たい肌に猫の子のような声を上げていたあんなに小さかった赤ん坊が、ルウルウの大切な人の病を治すまでに成長してくれた。なんて誇らしい、なんて嬉しいことだとさっきまでの眠気も吹き飛んだ。
けれど、ふと見渡してもシスはいない。ロウの後ろから誰かが来る様子もなければ、雪を踏む音もしなかった。
「ロウ、シスは? あれ、それってシスの鞄?」
ふと、ロウが肩からかけている小さな鞄が目に入った。これはシスが愛用しているもので、猟に出たりするとナイフや紐なんかを入れていた。それをなぜロウが持っているのかと首をかしげると、ロウは浅くうなずいた。
「そうだよ」
「借りたの? やっぱりシスも一緒だったの?」
近くにいるような気もする。けれど、姿はどこにもない。ここにいるのはロウとルウルウだけだ。
「シス」
周囲に響くように、思わず一歩踏み出して上げた声は雪に吸い込まれて消える。
「シスは旅に出た」
語尾が消え、一瞬の沈黙のあと、ロウが言った。
「薬が出来たら旅に出ると言っていただろ。ルウルウは寝ていたから、俺が見送ってきた。鞄は、その時に俺にくれたんだ」
「そんな……ーーー見送りたかったのに、シス……」
一ヶ月や一年では足りないくらいの長い間、シスは旅に出るかもしれないと言っていた。もしかしたら、戻ってこれなくなる可能性だってある。自分でも覚えていないほど長く生きているルウルウとは違い、シスは人間なのだ。ある日どこかで死んでしまってもおかしくはない。
彼の決断をルウルウのわがままで止めたくはなかったが、それでも最後になるかもしれないのだから、森を分けていく背中をせめて見送りたかった。そのためなら、寒くても眠くても我慢できたのに。
ロウが来た方向の森の奥を見ても、薄暗く白い景色が茫洋と続いているだけで、シスの後ろ姿はおろか、足跡さえもわからなかった。
みるみるうちに目のふちに涙がたまって、雫になって頬を落ちていく。冷たい体で作られた涙は、それよりももっと冷えた頬に凍りそうな跡をつけて落ちていく。けれどそれが本当に凍ってしまうより先に、手袋を嵌めた手が頬を挟んだ。
「大丈夫だ、ルウルウ。ずっと一緒だったんだ。姿はなくても、心はずっと傍にいる。ルウルウが思う限り、ずっと」
分厚い毛糸越しに、人の肌の温かさが頬を包む。ロウは、遠くまでシスを見送りに行ってくれたのかもしれない。土や草や、石のような様々な自然の匂いがする。それはこの森の匂いだった。
シスはこれから、ロウにしたように人々を救いながら遠く遠く旅をしていくのだろう。傍にいてくれないのは寂しいが、そうして生きていく彼を誇らしくも思う。なにもかも忘れてしまいやすいルウルウだが、その気持ちだけは忘れずにいようと思った。
「うん……」
見送ることはできなかったが、泣いていてはシスの旅立ちにふさわしくない。自分でも涙を拭ったルウルウを、ロウの腕が抱き締めた。
大切に育てた子が救った背を抱き返して、ルウルウはようやく微笑んだ。
まだ雪深い森のどこにも新しい季節の息吹きは見つけられないが、その笑みだけは春の木漏れ日のように暖かかった。
男の命が絶えたのは、吹雪いた夜半のことだった。
向かいのソファに座っていたシスは、ロウが傍らのカウチで眠るルウルウを見たあと、静かに瞼を下ろしていく最後の瞬間を眺めていた。
わずかに上下していた体が微塵も動かなくなり、物となり果てたのを確認したあと、ベッドマットの下にかませていたシーツの端を引き出し、それでロウを包んだ。
もとはシスと同じくらいの身長があり、体格も立派だったのに、加齢と病で痩せた体は軽い。丸めた絨毯でも運ぶように肩にかついで外に持っていき、とりあえず雪の上におろした。
さっきまでは窓をかたかたと揺らすほどに風が吹いては雪が横殴りに降っていたが、すでに吹雪はやんでいる。きんと凍える空気は、月明かりをひときわ鮮やかにさせた。そのなかにロウを置いたまま一度家の中に入ったシスは、地下の研究室から肩掛けの小さな鞄をつかんだあと階上に戻った。暖炉の炎の魔法をかけ直して消えないように補強したあと、ルウルウの傍らに片膝をついた。
「……ルウルウ。見えるものだけが真実だ。……返事をして」
眠る白い耳にしみこませるよう、ひっそりと囁きかける。
本来ならば、長い長い詠唱と緻密に計算された陣が必要なのだろう。この魔法を完成させるまで、何十枚もの紙を書き散らし、何百冊の本を読み漁った。そうして組み上げた魔法は、これまでの知識と経験を凝縮して短い言葉の中に封じられた。あとはもう、シスがその意思をもって囁くだけだ。
声に反応し、けれど眠ったままのルウルウの淡い色の唇が薄く開いた。「はい」と従順な声がシスに渡された。
流れる白銀の髪を撫で、毛布をかけ直してやると微笑むように口許が綻んで、細い体がくるりと丸まった。
これからシスは消える。それはルウルウのためだ。彼が幸せに微笑んでいられるためにシスは消える。その判断に、なにひとつ後悔はなかった。
白い寝顔を見守る。けれどそれも長くはない。背を向けて家を出ようとした時だった。
「シス……、そば、に、……」
寝言はすぐにむにゃむにゃと形を失って消え、語尾は何を言っているかわからない。それでも、シスにはその一言で十分だった。
「おやすみ、ルウルウ」
パタリと静かに扉を閉め、玄関から地面へと降りる階段を軋ませながら降りる。冬の夜更けはどこまでも静かだ。
雪の上に置いたままだったロウを担ぎ上げる。もう場所は確保してあり、そこに運ぶ手筈は整っていた。
シスもルウルウもこの森で長く生活しているが、行動範囲は違う。ルウルウは家を含めた湖のほとりを中心に少し歩いた程度と、森から出るときに使う獣道くらいにしか足を踏み入れない。シスも同じ範囲を歩くが、猟や薬草の採取などのため、それより更に広く深く、森へ分け入ることが多かった。
ルウルウがいつから森にいるかは知らないが、少なくともこの森を広範囲にわたって把握しているのシスの方だ。大きなうろのある大木がある場所、珍しい茸の群生地、奥が氷室になっている深い洞窟。それらがどこにあるか、すべて頭に入っている。もはや森の管理人と言っても過言ではない膨大な知識があった。
だからこそルウルウが絶対に足を踏み入れない場所もわかっている。
樹々の間を縫うように歩き、シスしかわからないように魔法で目印をつけた石を辿る。氷の張った小川をまたぎ、斜面を下り、そうして着いたのは洞穴だった。
ひさしのようにせり出している岩板から内部の壁にいたるまでびっしりと生えている苔には霜がおりている。奥からは外気と同じかそれ以下の冷気が漂っていた。
炎を起こしてしまいたいが、あまり暖かくなるとロウの遺体が傷む。それは避けたい。
光の魔法だけを手に宿し、白い息を吐きながら、シスは奥へ奥へと下って行った。
洞窟の奥は緩やかな下り坂になっている。幾重にも分岐した中を歩いていくと、やがて壁が氷に覆われ始める。床や天井の岩肌もやがては氷が覆い隠すようになり、そうして行き止まりでようやくシスは歩を止めた。
ここはシスが魔法をかけた氷室だった。雪が降る外気と同じくらいには温度が低く、吐く息は白く凍る。さすがにあがった息で胸を喘がせながら、ロウを床に降ろしたシスは、すぐに包みを開いた。
すでに硬直しているロウは、顔色の悪ささえなけば眠っているようだった。けれど触れた肌は生者とは明らかに違う冷たさと弾力で、彼の肉体だけがここにあることを示していた。
ロウは死んだのだ。生き返りはしない。けれど、これから彼は生き続ける。ルウルウとともに、ルウルウが永遠の眠りにつくまで。
「……ありがとう、ロウ。おかげで、ルウルウを幸せにできる」
肩から斜めにかけていた小さな鞄を探る。中には手のひらに収まるほどの小瓶と薬瓶、それと革のケースに収められたナイフ、懐中時計が入っていた。
小瓶のふたを取り、開けたまま氷の床に置く。ことんという小さな音は氷壁に反響したが、すぐに消えた。
しゃがみこみ、ナイフを手にする。革のケースから抜くと、ほの暗いなかでも鋭利な刃先はつやつやと光った。
磨きこまれたナイフを、そっとロウの左手首に当てる。加齢と死によって張りがなくなったために縒れる皮膚を裂くように強めに刃を滑らせる。浮いた骨を削ったような鈍い音もしたが、ややあってシスが採取したかったものが傷口からどろりと垂れた。
生きているときならばさらさらと流れてあっという間に小瓶を満たしたかもしれないが、とうに死んだ体からあふれだした血はなかば凝固しかかってどろりとしている。腕を柔く押してようやく小瓶が満たされた。
これで、全部がそろった。
ルウルウが求めた恋人の姿はロウだった。しかし彼は死んだ。ルウルウのそばにずっといられるわけではなかった。
ロウが死んだことは、シスだって残念だった。これほど長くルウルウと続いた男はいなかったし、ルウルウという生き物の本性や生態を忌避したり軽んじてはなれずにいてくれた。それなのにいなくなってしまっては、ルウルウはまた悲しむことになるだろう。
三人ほど前の男以前はすっかり忘れ、街ですれ違ってもきょとんとしているようなルウルウだが、それでも二十年以上もいたロウがいなくなれば、これまで以上に泣いて悲しみ、あの白い頬をしとどに濡らすことは容易に想像できた。だから、こんなことになってしまうなんて、とシスもそれなりに悲しんでいた。
けれど、病になったロウが死んだというのなら、シスだってそれなりにやりようがある。なんといっても、シスはそばに居続けることができるのだ。ロウが言うところの願いによる魔法の発動で、おそらくは不老になった。彼は二十数年もシスの姿が変わらなかったと言ったが、研究で使っていたノートや書き付けにねんとなく記したものを見返したら、どうやらシスは更に何十年以上も生きているらしかった。
歳をとらず、よほどのことがないかぎり生き続けるのだろう。万が一少しでも衰えがあるようなら、また魔法をかけなおせばいい。研究は日々進んでいる。森の外に露見しないだけで、シスは多くの魔法を意のままに操ることができるようになったのだから。
だからこそ、こんな魔法と薬学の応用を行うことが出来るのだ。
採取した血液のほんの一滴を、薬瓶の中に落とす。粘度の高いそれは粒の形を残したまま透明な薬液にぽとんと落ちて包まれ、はじけるようにぶわりと溶けた。
様々な知識を、シスは自分の頭に叩き込んできた。師などおらず、本に記されている魔法が、自ら編み出した術が人の世で尊ばれるか、もしくは蔑まれるか、あるいは怖れらるかなど知らない。興味もなかった。ただ、ルウルウが喜ぶか、それだけがシスにとってのすべての基準だ。
だから、この魔法を参考にした本に禁忌だとか非人道的だとか書かれていても、シスは特になにも思うことはなかった。
すっかり血が溶け込んだ薬瓶を軽く揺らす。赤い雫はごく少量で、薬の色を変えるほどでもない。まるで水のようなそれをシスはためらうことなく、それこそ清水でもあおるように喉に流し込んだ。
一瞬視界が揺れた。
次の瞬間には体が大きく浮いたような、それでいて地面に沈み込むような感覚がして、一歩二歩とおぼつかない足で踏み出すと、足先にロウの体が当たって止まった。視界が揺れている。立っていられるのが不思議だった。
まるで服が破れそうなほどにまで膨張したあと、手のひらに収まるまで収縮したかのようだった。けれど着ている服は破れもしなければ余って体にまとわりつくこともない。ただそういう感覚が体中にあった。
時間にして、おそらくは十秒もなかったかもしれない。懐中時計の長針は動いていなかった。
少しの違和感はあるが、気にするほどのことではない。一週間もすれば馴染むはずだ。
ロウの遺体を持ち上げて、氷壁にぐいと押し付ける。侵食するように体中に氷が張り、やがてロウの体は壁の厚みを隔てた中に完全に埋まった。これで、誰かがうっかり入り込んでも手出しは出来ない。この体は、この先ずっと必要なのだ。世界でもここにしかない素材として。
懐中時計を見ると、そろそろ夜明けだった。出ていくときにルウルウは眠っていたが、陽射しが差し始める頃になると起きることもある。一人にしていては寂しがるだろうと、ナイフや小瓶を肩掛けの小さな鞄にしまって洞窟を出た。
次にここに来るのはいつになるだろう。血の一滴でどれだけ効果が続くかはわからない。理論と経験上は一年ほどで効果が切れるはずだが、さっき採取した分だけでも人差し指の第一関節が埋まるほどの量がある。もしかしたら、次に来るのは百年を超えた先かもしれなかった。
けれど、小瓶の血が絶えた時は、ここに取りにくればいい。ロウはこの先ずっと、氷の魔法が溶け尽きるまで肉体を腐らせることはできないのだ。
上機嫌で森を渡り、湖畔の家を目指す。心が軽かった。
シスはもういなくなった。ルウルウにはこれからいくつかの嘘をついてしまうことにはなるが、あの笑顔を曇らせないためには最善の策を立てられたし、なにひとつ抜け目なく動けた。
あとは、ただひたすらに彼と今までの生活を繰り返すだけだ。
「……ス、ロウ……」
ふと、静かな雪の森に声が響いた。目を凝らすと、木々の隙間からは湖畔の家がもう見えている。家と森の間に、ルウルウがいた。
やはり起きてしまったようだった。陽も射してきたし、部屋は暖かくしてから出てきたので、眠気に勝てたのだろう。けれどそのままでいては雪の上で倒れて眠りかねない。急いで部屋にいれなければとざくざくと雪を踏んで行くと、こちらに気付いたらしいルウルウが顔をあげた。
眠そうだった目が一瞬驚いたように見開かれて、真っ赤な双眸がキラキラと輝いた。
「ロウ。体、もう痛くないの?」
ルウルウはそう聞いた。それで魔法は完成された。ルウルウはシスが変化した肉体を、ロウだと認識した。
ルウルウはあれやこれやと話しかけてくる。嘘で塗り固めた別れの理由を告げても疑う様子もなく、信じきって涙さえこぼした。
「大丈夫だ、ルウルウ。ずっと一緒だったんだ。姿はなくても、心はずっと傍にいる。ルウルウが思う限り、ずっと」
華奢な体はかわいそうなくらい震えていた。寒さではなく、シスを失った悲しみで。けれど、どうにかそれも飲み込んだのだろう。やがてうつむいていた顔をあげると、目元を自分でぬぐった。
これが最後だ。
そう決めて、ルウルウを抱きしめる。
別れの涙はもう二度と流させない。ずっと一緒にいる。もしいつか、どうしようもない別離が来たその時は、いっそこの手で殺しても構わない。
それで彼がこれ以上独りに泣かずに済むのなら、そこまで自分が見守ろうと。
ほんの少しの力を込めてさらに抱きしめる。それからようやく腕を解いた。
「そろそろ中に入ろう、ルウルウ。冷えてきただろ」
「そういえば少し……ううん、寒いね」
「ジンジャーハニーを淹れるから、それで温まって。それから朝食にしよう」
一日が始まる。
細い背中に手をやって促し、着ぶくれたせいで足元のおぼつかないルウルウに寄り添いながら、一歩一歩と階段をのぼる。
段上まであがると、寒い寒いと言いながらルウルウは家に入っていった。一足遅く残されたが、頭や肩に乗った雪を払っていると、ふとその手のひらが視界にはいった。
少し褐色を帯びた肌。四角い爪。もとのシスの姿ではない。それはロウの姿だ。けれど、もう戻ることはできないし、戻るつもりもない。
この姿でルウルウと生きると決めたのだ。
「ロウ? なにしてるの、風邪ひいちゃうよ」
「……ああ、今入る」
早く、と腕を引かれて家の中に引き込まれる。
ぱたんと扉が閉じた湖畔は、またもとの静けさだ。それが百年前から変わらない風景であることはルウルウとシスしか知らない。
日々は過ぎ、雪が解ければ春になる。花が咲き乱れて命が様々に芽吹いていくうちに夏になり、暑さを越えて秋が訪れる。やがてまた冬が森を包む。
今日は、そうやって過ぎていく永遠の一日目だ。
いつかのように穏やかな陽射しがあたたかな、なんでもない日だった。
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