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愛のないやり取り

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ヴァーゼルとアレクシスが退室してから数時間して、リュアンダル殿下が訪ねてきたことをメイドが知らせた。
リュアンダル殿下と会うのは、あの日以来。
動揺と戸惑いで、羽根ペンを持つ手が震え、書いていた文字の先が滲んだ。
ふたりが帰ってから、私はふたたび王太子妃教育へと向き直っていた。
今書いているのは、招待状のカードだ。
数種類のカードを流麗な文字で仕上げなければならないので、この一枚は失敗だ。
そう思い、腰をあげようとしたところでメイドの焦った声が聞こえてきた。

「ああ、案内はいいよ。勝手知ったる城だ」

「……!!」

驚いて、椅子から立ち上がる。
その時、ペンスタンドに慌てて羽根ペンを戻そうとしたのが原因だろう。
羽根ペンを指先にひっかけてしまい、指が黒く汚れた。
殿下の前だと言うのになんて失態。
慌てて手巾を探そうとしたところで、リュアンダル殿下に話かけられた。

「ヴァーゼルとアレクシスの話はなんだった?」

いつもと同じ穏やかな笑顔。
いつもと同じ、優しい微笑み。
春の湖面を写し取ったような色合いの瞳が、私を見ていた。

「殿下……」

「ああ、シュネイリア。手が汚れちゃったね。拭いてあげる」

リュアンダル殿下が、私の手を取って、ハンカチをポケットから取り出した。
刺繍の美しい、絹のハンカチだ。その白いハンカチが私の黒く汚れた指に触れそうになり、咄嗟に彼の手を振り払っていた。

「いけません。汚れてしまいます」

強く振り払ってしまってから、我に返る。
私は、彼のハンカチを汚したくないから手を離したのだが、リュアンダル殿下には、彼に触れられたくないから手を解いたように見えたかもしれない。
慌てて、取り繕うように顔を上げる。
リュアンダル殿下は、表情をこそげおとしたように、恐ろしいくらいの無表情だった。
彼のそんな顔を見たことがなくて、言葉を失う。

「……ハンカチは、汚れを拭くものだよ」

いつもリュアンダル殿下は穏やかに、優しく微笑んでいるから。
表情を無くし、静かに私を見つめる彼の瞳の冷たさに、息を呑む。
怯えたように何も言えなくなってしまった私の手を、リュアンダル殿下は問答無用に掴んだ。

「ほら、貸して?」

「あ、の……」

「シュネイリア。今まで僕は、きみに心を砕いてきたつもりだったんだけど、なにがいけなかったのかな。それとも、僕みたいな男はそもそも嫌い?」

「何の、話を」

指が、彼の白いハンカチで拭われる。
あっという間に、彼のハンカチが黒く汚れた。
それが、まるで私がつけた消えない傷のように見えてしまって、いたたまれない。
視線を逸らせずにいると、掴まれた指を、手首を、そのまま引き寄せられた。

「……!」

「きみの想い人の話だよ」

彼は、私を抱きしめながら言った。
背を軽く撫でられて、驚く。
なにか、意図を含んだような触れ合いに思えた。

「殿下……?」

「アレクシスとヴァーゼルのお茶会は楽しかった?」

彼に言われて、思い出す。
私は、彼らとのお茶会で交わした話の内容を、リュアンダル殿下に伝える必要がある。
私は、彼の胸をそっと押した。
リュアンダル殿下は、すぐに離れた。

やはり、心苦しい。
この、息の詰まるような雰囲気が。
今までとは異なる、空気感が。

「……ヴァーゼルは、ルディグラン公爵から。アレクシスは、ミャーラル様から強く言われ、私を訪ねたと言っていました」

「ふぅん。ルディグラン公は、ヴァーゼルの立太子を。ミャーラル嬢はおおかたシュネイリアの弱みでも探りに来た、ってところかな」

報告を義務付けた割には、彼はつまらなそうな声で言った。
予想通りだったのだろうか。
私は、じっとリュアンダル殿下を見つめた。
視線を逸らしたくなる思いを捩じ伏せて、彼の瞳を見つめて、言う。

「……殿下」

「なに?」

「……先日は、申し訳ありませんでした」

私はドレスの裾を持って、頭を下げた。
撤回や訂正はできないけれど、彼を傷つけたいわけではなかった。
私が謝罪すると、リュアンダル殿下はしばらく黙っていたものの、やがて尋ねてくる。

「先日って、きみが僕のことを、蛇蝎のごとく嫌っている、って話?」

「それは……」

「いいよ。別に。きみが、王太子妃としての義務を果たすならば、僕はそれ以上何も言わない。公務の時は、それなりに取り繕ってもらわなきゃ困るけどね。でも、シュネイリアはできるでしょう?今まで、できていたみたいに。嫌いな僕の前でも、きみは微笑むことが出来る」

「…………っ」

いますぐ、あれは嘘だと言いたかった。
だけど──言って、どうするの?

ほんとうは愛しているの。でも、あなたは私を愛していないから。想いを返せないと苦悩するあなたを見たくないから、婚約破棄してほしくて、嘘を吐いた。

そう、彼に全て言うの?
もしかしたら私は、近いうちに死んでしまうかもしれないのに?

この一方的な想いだけ告げて死ぬなんて──それこそ、呪いのようだ。
くちびるを噛む私に、リュアンダル殿下が笑う。

「僕は気にしないよ、シュネイリア。きみが、心はともかく、その体をほかの男に明け渡さない限りは、僕からは何も言わない。心は、自由だ。僕たちは立場や肩書きといったものに縛られて暮らしているが、その心までは、なにものにも囚われない。法にも、立場にも、誰にも、強制することはできない」

その言葉は、まるで彼の心の内を示しているようだった。
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