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二章:賢者食い
その頃、交渉成立
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その日、魔法協会セドア地方司令官ライラック・ハワードは、自身の執務室で歯噛みしていた。
王家からの勅命。
至急、国境を閉ざせ、とのことだ。
ハワードは焦燥と恐慌、予定外の事態への怒りに混乱していた。
(な、なんだ……?ついにあれに気付かれたのか?いや、そんなはずはない。こんな辺境の地だ。こんな過疎った街にいちいち偵察部隊を送り込むはずがない。そのはずだ……)
なにせ、グレイスリー伯爵は上手くやっている。【いいひと】の仮面を被ることが得意で、世渡り上手、口も上手いあの好々爺がそう簡単に尻尾を見せるとは思えない。
では、なぜだ……?
今年三十五歳、出世を望むなら早ければ早い方がいい。
(私は、こんなド田舎の街で終わるような男ではない……!)
こんなクソ田舎に骨を埋めて溜まるか。
とにかく、金だ。金さえあればすべてうまくいく。グレイスリー伯爵からのお礼金はとんでもない破格だが、それでも足りない。
王都近辺主要都市の魔法協会幹部に賄賂を送り、階級を上げてもらって、いずれは城に住む王宮魔法協会管理人になるのが彼の夢だった。
魔法ギルドを動かす主要人物はすべて、アーロアの中央、王の住まう城で仕事をする。そこから各地に指示を出すのだ。
城から指示を出すだけ。基本、彼らは現場に行くこともなければ城から出ることもしない。
いわば、楽な仕事、というやつだ。魔法ギルドに所属するすべての人間が憧れ、夢見る席と言える。
彼は、その楽な仕事に就き、さらには権利を行使し、自分がさんざん頭を下げた無能な上役どもを使い潰してやる算段だった。魔力も薄いくせに、権力だけは持ち合わせているやつらは、魔力が少ないことをコンプレックスに思っているために卑屈な連中が多い。そんなやつらに嫌味を言われ、鼻で笑われ、田舎司令官と笑いものにされた屈辱は忘れられない。
這いつくばらせ、靴の底でも舐めてもらおうか。
ハワードは下卑た野望を抱きながら自身の顎に触れる。しかし、やはり金が足りない。
今でもじゅうぶんな額を払ってもらっているが、それでも賄賂にするにはまだまだ不足なのだ。
(…………少し、交渉してみるか)
しかし相手はあの賢者食いの伯爵。
頭が少しいっちゃってるのだ。にこやかな笑みを常に浮かべ、気さくな話し方とは裏腹に、やつはとんでもないことをしている。
悪どいやつが悪に手を染めるのは、世の常だ。そう驚きはない。
だけど──一見無害に見える、人畜無害で温厚な人間こそが悪事を働いている、となると。
その人間の本質は底知れない、途端、全容がはかれないものとなる。
その時、扉が数回ノックされた。
それで空想の世界から戻ってきたハワードは意識して厳格な声を出す。
「何だ」
「失礼いたします。お客様がいらっしゃっております」
「……アポイントメントは取っていないだろう。突然の来訪など、失礼にも程がある。追い返せ」
「しかし──」
従僕が続きを言う前に、勝手に扉が開かれた。そのあまりの非礼さにハワードは目を見開いた。
そして、すぐにまた別の意味で驚くことになる。
「急ぎ、この地方を治める司令官殿に話したいことがあります。ご無礼、お許しいただきたい」
現れたのは、ひとりの青年だ。
長い銀髪をたなびかせ、腰には剣を佩いている。身に包んだ赤の軍服は、紛れもない。この国の近衛騎士を示す、近衛服──。
「挨拶が遅れました。私の名は、テール・トリアム。……トリアム侯爵家嫡男であり、王女殿下筆頭近衛騎士の位を戴いております」
「侯爵家……王女、殿下」
縁のない単語に、唖然となるばかりだ。
驚きのあまりただ言葉を繰り返すだけの彼に、男──テールはすっと目を細めた。
「単刀直入にお聞きします。この街──セドアに、私の婚約者が滞在していないでしょうか?」
(婚約者)
ハワードは唖然とした。
そんな高貴な女性がこの街にいるなどという報告は受けていない。テールの質問の答えは『否』だったが──。ちょうど金のことで悩んでいたハワードはしめた、と内心ほくそ笑んだ。
これは危険な賭けだが、もう彼には時間が無い。早く、早く出世しなければ。同年代のものはみな、王都中心部に配属され、輝かしい経歴を織り成している。これ以上、遅れをとるわけにはいかないのだ。
「……トリアム侯爵令息様。恐れながら、そのような高貴な女性の報告は入っておりません。ですが──街を探してみれば、見つかるやも」
ハワードはにったりと笑った。
しかしその直後、彼は困ったようにため息を吐きながら、両手を広げてみせる。
「しかし、我が街は今それどころではないのです。突然の国境閉鎖でたいへん混乱している。国境が閉ざされるとなると、港町であるセドアにとっては大打撃。その対策で私共も身動きが取れず」
「つまり、金があれば動けると?」
テールの言葉に、ハワードは高笑いをしたくてたまらなくなった。この男、意外にも話がわかる!そうだ、金だ。金がすべてを解決する。
ハワードはにやつきながら、顎をすりすりと撫でた。
「いやぁ、ことはそう単純なものではないのですよ。……しかし、軍資金を調達していただける──というのなら、セドアを預かる【魔法協会セドア地方司令官】の名にかけて、全力でご令嬢の捜索をいたします」
テールはハワードの現金な発言に不快感を覚えたのか瞳を細めてみせたが、黙ってポケットを探る。中から、重たげな小袋が姿を現す。
麻の巾着に包まれたそれは見るからに重そうで、彼が少し持ち上げただけでコインの音が幾重にも鳴った。
彼はそれを手にしたままま、ハワードに告げる。
「前金だ。あなたが私の婚約者を見つけられたのなら、それの二倍の額を払う」
ハワードは黙って巾着を受け取った。
紐を解いて見てみれば、中には黄金の煌めきが。
(ひとつ、ふたつ、みっつ……)
すべて、金貨だ……!
それが一体、何枚入っているのだろうか?今すぐにでも数えたくなるのをぐっと堪え、やにさがった顔でハワードは紐を締めた。
「ええ、ええ。トリアム侯爵令息様のお気持ち、確かに頂戴いたしました。貴方様のおこころをむげにしないよう、誠心誠意務める所存です」
(はっ、お高くとまってる貴族の坊ちゃんが。せいぜいあんたの有り金全部吸い出してやるよ)
彼の婚約者の捜索なんて二の次だ。この男からどれだけ有り金を引き出せるか。ハワードは全力で思考を働かせていた。
王家からの勅命。
至急、国境を閉ざせ、とのことだ。
ハワードは焦燥と恐慌、予定外の事態への怒りに混乱していた。
(な、なんだ……?ついにあれに気付かれたのか?いや、そんなはずはない。こんな辺境の地だ。こんな過疎った街にいちいち偵察部隊を送り込むはずがない。そのはずだ……)
なにせ、グレイスリー伯爵は上手くやっている。【いいひと】の仮面を被ることが得意で、世渡り上手、口も上手いあの好々爺がそう簡単に尻尾を見せるとは思えない。
では、なぜだ……?
今年三十五歳、出世を望むなら早ければ早い方がいい。
(私は、こんなド田舎の街で終わるような男ではない……!)
こんなクソ田舎に骨を埋めて溜まるか。
とにかく、金だ。金さえあればすべてうまくいく。グレイスリー伯爵からのお礼金はとんでもない破格だが、それでも足りない。
王都近辺主要都市の魔法協会幹部に賄賂を送り、階級を上げてもらって、いずれは城に住む王宮魔法協会管理人になるのが彼の夢だった。
魔法ギルドを動かす主要人物はすべて、アーロアの中央、王の住まう城で仕事をする。そこから各地に指示を出すのだ。
城から指示を出すだけ。基本、彼らは現場に行くこともなければ城から出ることもしない。
いわば、楽な仕事、というやつだ。魔法ギルドに所属するすべての人間が憧れ、夢見る席と言える。
彼は、その楽な仕事に就き、さらには権利を行使し、自分がさんざん頭を下げた無能な上役どもを使い潰してやる算段だった。魔力も薄いくせに、権力だけは持ち合わせているやつらは、魔力が少ないことをコンプレックスに思っているために卑屈な連中が多い。そんなやつらに嫌味を言われ、鼻で笑われ、田舎司令官と笑いものにされた屈辱は忘れられない。
這いつくばらせ、靴の底でも舐めてもらおうか。
ハワードは下卑た野望を抱きながら自身の顎に触れる。しかし、やはり金が足りない。
今でもじゅうぶんな額を払ってもらっているが、それでも賄賂にするにはまだまだ不足なのだ。
(…………少し、交渉してみるか)
しかし相手はあの賢者食いの伯爵。
頭が少しいっちゃってるのだ。にこやかな笑みを常に浮かべ、気さくな話し方とは裏腹に、やつはとんでもないことをしている。
悪どいやつが悪に手を染めるのは、世の常だ。そう驚きはない。
だけど──一見無害に見える、人畜無害で温厚な人間こそが悪事を働いている、となると。
その人間の本質は底知れない、途端、全容がはかれないものとなる。
その時、扉が数回ノックされた。
それで空想の世界から戻ってきたハワードは意識して厳格な声を出す。
「何だ」
「失礼いたします。お客様がいらっしゃっております」
「……アポイントメントは取っていないだろう。突然の来訪など、失礼にも程がある。追い返せ」
「しかし──」
従僕が続きを言う前に、勝手に扉が開かれた。そのあまりの非礼さにハワードは目を見開いた。
そして、すぐにまた別の意味で驚くことになる。
「急ぎ、この地方を治める司令官殿に話したいことがあります。ご無礼、お許しいただきたい」
現れたのは、ひとりの青年だ。
長い銀髪をたなびかせ、腰には剣を佩いている。身に包んだ赤の軍服は、紛れもない。この国の近衛騎士を示す、近衛服──。
「挨拶が遅れました。私の名は、テール・トリアム。……トリアム侯爵家嫡男であり、王女殿下筆頭近衛騎士の位を戴いております」
「侯爵家……王女、殿下」
縁のない単語に、唖然となるばかりだ。
驚きのあまりただ言葉を繰り返すだけの彼に、男──テールはすっと目を細めた。
「単刀直入にお聞きします。この街──セドアに、私の婚約者が滞在していないでしょうか?」
(婚約者)
ハワードは唖然とした。
そんな高貴な女性がこの街にいるなどという報告は受けていない。テールの質問の答えは『否』だったが──。ちょうど金のことで悩んでいたハワードはしめた、と内心ほくそ笑んだ。
これは危険な賭けだが、もう彼には時間が無い。早く、早く出世しなければ。同年代のものはみな、王都中心部に配属され、輝かしい経歴を織り成している。これ以上、遅れをとるわけにはいかないのだ。
「……トリアム侯爵令息様。恐れながら、そのような高貴な女性の報告は入っておりません。ですが──街を探してみれば、見つかるやも」
ハワードはにったりと笑った。
しかしその直後、彼は困ったようにため息を吐きながら、両手を広げてみせる。
「しかし、我が街は今それどころではないのです。突然の国境閉鎖でたいへん混乱している。国境が閉ざされるとなると、港町であるセドアにとっては大打撃。その対策で私共も身動きが取れず」
「つまり、金があれば動けると?」
テールの言葉に、ハワードは高笑いをしたくてたまらなくなった。この男、意外にも話がわかる!そうだ、金だ。金がすべてを解決する。
ハワードはにやつきながら、顎をすりすりと撫でた。
「いやぁ、ことはそう単純なものではないのですよ。……しかし、軍資金を調達していただける──というのなら、セドアを預かる【魔法協会セドア地方司令官】の名にかけて、全力でご令嬢の捜索をいたします」
テールはハワードの現金な発言に不快感を覚えたのか瞳を細めてみせたが、黙ってポケットを探る。中から、重たげな小袋が姿を現す。
麻の巾着に包まれたそれは見るからに重そうで、彼が少し持ち上げただけでコインの音が幾重にも鳴った。
彼はそれを手にしたままま、ハワードに告げる。
「前金だ。あなたが私の婚約者を見つけられたのなら、それの二倍の額を払う」
ハワードは黙って巾着を受け取った。
紐を解いて見てみれば、中には黄金の煌めきが。
(ひとつ、ふたつ、みっつ……)
すべて、金貨だ……!
それが一体、何枚入っているのだろうか?今すぐにでも数えたくなるのをぐっと堪え、やにさがった顔でハワードは紐を締めた。
「ええ、ええ。トリアム侯爵令息様のお気持ち、確かに頂戴いたしました。貴方様のおこころをむげにしないよう、誠心誠意務める所存です」
(はっ、お高くとまってる貴族の坊ちゃんが。せいぜいあんたの有り金全部吸い出してやるよ)
彼の婚約者の捜索なんて二の次だ。この男からどれだけ有り金を引き出せるか。ハワードは全力で思考を働かせていた。
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