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二章:逃げられないのなら
そこに愛はなく
しおりを挟むその後、ふたたび啜り泣いていた私だけど、不意に彼が言った。
「じゃあ……きみは僕にどうして欲しいの」
ぽつりと、まるで彼自身が戸惑っているような、そんな声。
顔を上げると、彼は動揺したように青灰色の瞳を揺らしていた。まるで、迷子の子供のようだと思った。
「きみは、僕にどうして欲しい」
「なぜそれを……私に聞くのですか」
「……僕には、正しい答えがわからない。僕には、きみの感情が分からない…………」
静かな声だった。懺悔するような、罪の告白をするような声だとも思った。
ふたりだけしかいない部屋はひたすら静かだ。
「…………僕は、感情が分からない」
また、彼が言う。
リュシアン殿下は、顔を上げた。
天井には、絵画が嵌め込まれている。
【悠久と永久】連作のうち、最後の作品の一枚。失われた絵として有名だが、こんなところにあったの。泣きすぎたせいで腫れぼったい目のまま、私もそちらを見た。
「僕にとって、感情とは他種族の純人間にのみ具わっているものだ。エルフにはそれがない……と思っていた。きみと、会うまでは」
「…………」
彼は、何を話そうとしているのだろうか。
憎い、と私は言った。
嫌悪、忌避、といった感情は、今は憎悪に変わっていた。
でも、彼を殺したいとか、傷つけたいとか、そういう思いではなくて、ただひたすら、憎かった。
「僕の周りは、感情を持たない人間が多い。喜怒哀楽といった、感情の揺れを持たない、植物みたいな人間だ」
彼の言葉に、オーブリーを思い出した。
先程私は、彼のことを人の目がないところで密かに動く人形のようだ、と思った。
そして、それは恐らく正しかったのだろう。
ぼんやり思う。
リュシアン殿下や、社交界の人間の前では、彼はきっと感情を持たない人間として振る舞っていた。もしかしたら、彼にも強い感情が眠っているのかもしれない。
少なくとも、彼に感情はあるはずだ。
先程だって、メロディ様とアークとともにいるようお願いしたらびっくりした様子だった。
だけど、彼はことさらリュシアン殿下の前では感情を隠しているのだろう。リュシアン殿下といる時のオーブリーは、人形のように表情がない。
「僕の言葉は必ず受け入れられる。そもそも僕は、自分の言葉を否定されたこともなければ、疑問すら抱かれたことは無い。僕にとって、僕の言葉は受け入れられて然るべき、あるいは当然だと思っていた。……きみに会うまではね」
異常だと思っていた。
ティファーニの社交界、この国の在り方。
王が絶対で、是以外を口にしてはいけないなんて、間違っている。
ずっと、ずっとそう思ってきた。
もしかして──リュシアン殿下は、知らなかったのかもしれない。
それが、異常であるということ、そのものを。
まるで、虐待環境にあった子供が、それ以外の生活を知らないから、それが当然だと思っているような、そんな歪さを感じた。
「僕はおかしいのかな。それとも、きみがおかしいの?」
「…………」
その問いの答えはきっと後者だ。
ティファーニにおいて、王が絶対であり、それは揺るがない。
その環境を異常に思う私の方が、頭がおかしいのだろう。
私の意見を声高に述べでもしたら、きっと魔女裁判にかけられ、私は火あぶりの刑に処される。
シェリンソンの家は一族郎党皆殺しにされるだろう。
私の意見はあまりにも異質で、ティファーニの中では異常だ。
きっと、私はティファーニの世界ではうまく生きられない。
私は、ウブルクの人間なのに、正しくあの家の子として生きられなかった。
「苦しい。苦しいんです、リュシアン殿下……」
私が彼の名を呼ぶと、ぴくりと彼が反応した。
彼の瞳が、私に向けられる。
透明度の高いその瞳は、変わらず綺麗で、美しいけれど、それだけだった。
まるで芸術品のようで、人間らしさがない。
「私は……ティファーニでは生きられない」
「……そうだね。きみの考え方は異質で、異常で…………この国にはそぐわない。今まで感情を抑えて生きてきたのなら、きっと相当、辛かったんだろうね」
どこまでも、彼の声は他人行儀だった。
だけどふと、もしかしたら彼は知らないだけかもしれない、と思った。
私は、私は──ウブルクの家で、幼い頃。
両親には放置され、兄姉には辛く当たられて、孤独ではあったけど。私には、本があった。
戯曲があった。小説があった。
私にとって、理想はフェリスの生き方で、彼女の人生そのものだ。
暖かくて、穏やかで、優しくて。
そんな生き方をしてみたかった。
そこでは、彼女は誰に対しても対等で、公平で、自分の意思というものを強く持っていた。
自分の意思。
それは、ティファーニの国民にはきっとないもの。あったとしても、王族を前にしたら風に吹かれて飛んでしまいそうなほど弱く、脆い。
「…………ほんの、すこし」
彼がぽつりと言う。
顔を上げると、彼は眉を寄せていた。
だけど不機嫌そう、というよりも思い悩んでいるように見えた。
「少しだけ……きみが何を考えているのか、わかった気がする」
「私は変わらず、あなたが何を考えているのか分かりません」
「…………きみがさっき、言ったとおりだよ。おおよそ、あの通り……だったのかもしれない。僕は……他人に感情があるということを……今、初めて知ったような気がする。ミレーゼだけだと、思っていたんだ。感情を持つ人間は。ほかは…………何も感じない、人形だと思っていた」
私は、ふと気になった。
オーブリーはともかく、ミチュア様やロザリア様は顕著だった。
「ミチュア様や、ロザリア様は?彼女たちは感情が随分豊かでした」
「それでも僕を前にしたら、彼女らは貝のように口を閉ざすよ。何を言っても、ハイとしか答えない。それは、僕にとって人形も同然だ。それに……僕は、彼女たちに事前に聞いている。きみは、僕の人形か、と」
彼の話は、私の知らないものだった。
リュシアン殿下は記憶を辿るように瞳を細めていた。
「彼女たちは頷いたよ。僕の良きように動かして欲しい、と。それで僕はやっぱり、と思ったんだよ。周りの人間は、誰もが人形に過ぎない、と。空の器を持った、人の形をしているだけの人形。…………最初は、それでも僕の命令外の動きをするから、物珍しくて手元に置いていたんだけど…………」
物珍しい。
頭がくらくらした。
つまり、リュシアン殿下は、自身の周りにいるのは自分にし唯唯諾諾と従うだけの人形だと思っていた。彼の環境を思えば、それも納得がいく。
実際は、みな、思うところがあっても王に心酔しているがゆえに、口を閉ざしているだけ。
その中で、ロザリア様とミチュア様は自我が抑えられずにいたことが多々あったから、リュシアン殿下は興味を抱いたのだろう。
ただの人形が、勝手に動きだしている。
その、好奇心から。
「愛している……と仰っていませんでしたか」
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