18 / 49
《港崎カオナシ捕物帖》
生息子(?)通訳、情報屋のカオナシ
しおりを挟む
(こうして見ると、細かいところや街のつくりに違いはあっても、永真と変わらない)
接待を終え、家路に付こうと、港崎遊郭の四郎兵衛会所方面、すなわち遊郭出入り口に向かうその途中。
八徳、もといカオナシは、空を見上げながら、見世通りを形成する各建物の上階や、軒先に連なる提灯の明かりを目で、喧騒や音楽、笑い声を耳で感じ、嘆息しながらゆっくりと歩みを進めていた。
思い切り鼻で空気を吸い込み、吐き出した。永真とは違う場所だが、それでも覚えのある香りに少しだけホッとしてしまっていた。
(ここで生きてきた頃は、地獄とも思っていたこの匂いが、懐かしいかよ)
そんなことが頭に浮かんだ途端だ。ククっと笑い声がこぼれた。
(本当、転生しちまったんだな。俺)
遊郭の匂いが懐かしいと思った理由。それは既に八徳が、他の場所へ自由に出歩き、そこの匂いをかぐことに慣れていたからだった。
他の土地の、場所の匂いを知っている。それらほかの場所の空気が、永真遊郭の雰囲気しか知らなかった八徳の記憶の棚に、新たに追加されたということ。
それは外国人居留地か? それとも牛鍋宿六庵か。
そもそも、「家に帰ろう」という思いで、遊郭の出入り口に向かおうとしている。
かつて、始末屋の仕事以外、永真遊郭の外に出ることを禁じられた八徳には、ありえない概念。
もうすでに、別で生きる場所が出来たのだということを、あらためて思い知った。
「……解せませんな」
「解せない? 何がです」
そんなことを考えていたから、珍しく自分の世界に飛んで行ってしまっていた八徳は、隣を同じ速さで歩く呉服屋に怪訝な顔を向けられていた。
「貴方が、私と共に帰路についていることですよ。鈴蘭の元に残らなかったことです」
「それが何か?」
「それが何かですと?」
発言の意図もつかめず、問い返した八徳に、呉服屋は信じられないという顔を見せていた。
「鈴蘭ですぞ? 見世自体に馴染みとなって長いゆえの贔屓目でしょうが、鈴蘭は女郎として相当に優秀。もしここがお江戸、場が吉原であったなら、太夫とも称される最上格の遊女に数えられたであろう成長を見せうる逸材」
「それはわかります。あの娘の放つ静謐さは、町民に噂される『月下に咲く華』に相違ない。他の女郎には無い、格別な魅力がある」
「でしたら、どうしてそのまま床入りまで行かんのですか?」
「……あんだって?」
「並みなる男。いえ、ちょっとばかし格があったって、鈴蘭は高嶺の華。貴方の《馴染》の関係は、多くの男が喉から手が出るほど欲しいものに違いありません」
鈴蘭という、遊女を生業とした女の器量と、美貌を評価する呉服屋には、鈴蘭という銘柄の、商品価値を評価する八徳の行動が理解できなかったようだった。
価値観の違いによる現象。
己の目論見の為、普通なら声もかけることが許されぬ絶世の美女を、結果として呉服屋は八徳に与えたはず。
なのに、その価値観を八徳が見いだせていないというなら、与えた好条件は好条件に成り得ない。
情報屋の仕事の承諾に、支障をきたすものとして、心配していたようだった。
「ご心配なさらず。仕事はちゃんとさせてもらいますから」
覆面を被っているから、嗤いかけた八徳の笑みは伝わることはない。だから、ハハハと笑って見せたが、それを受けた呉服屋は複雑そうだった。
「あ、あの、まさかとは思いますが」
「なんです?」
「カオナシ殿は、その‥‥‥生むす(童て)‥‥‥」
「こ、こちとら女の味は知ってるしっ! 生息子(どーてー)じゃねぇしっ! 疑うんじゃねぇよっ!」
寧ろ追加された質問は、なんとも同情のこもった声色。
憐れまれたことに躍起になって、とっさに答えを返した八徳に言葉遣いもへったくれも見えなかった。
「いえいえ、安心しておくんなさい。こちとら生息子と仕事とは、まったく関係ないことくらいわかっております故」
「だから俺はっ!」
「いやぁ、水臭いですなぁ。私に一言でも言ってくだされば鈴蘭に。おぉ、なかなかにそれは、世の男からの嫉妬を集めますな。今をときめく注目の的、新進気鋭の鈴蘭に水揚げ(花魁の中で言えば、遊女としても、女性としても初体験)をしてもらうとは」
「いや、そういう関係はなんとも……」
「行けませんぞ遠慮は。それに、肌を重ねることに金銭を絡める是非どうのこうのなど。生息子の考え方です、まずはとにもかくにも、卒業することだけをお考えなさい!」
「ガハァッ! ひ、人の話を聞いてくれ!」
その反応すら、呉服屋から可愛いものとして楽しまれたこと。八徳が言葉遣いを忘れているのは致し方ない。
(人が黙ってりゃいい気になりやがって。それに気付いてないのか? それともワザと気付かないふりか? アンタが水揚げした鈴蘭と肌重ねたら。アンタまさか、俺に”兄弟”になれって‥‥‥)
それでも、黙っているわけには行かない。自らの誇りの為、伝えるべきところは伝えるべき。息を大きく吸い込み、口を開けた。
『人殺しっ! 人ごろしぃぃぃぃっ!』
『捕まえとくれえっ!』
だが、呉服屋への否定は、実現しなかった。
どこからか警笛が聞こえ、野太い多数の怒声が木霊したことで、遮られてしまったのだった。
接待を終え、家路に付こうと、港崎遊郭の四郎兵衛会所方面、すなわち遊郭出入り口に向かうその途中。
八徳、もといカオナシは、空を見上げながら、見世通りを形成する各建物の上階や、軒先に連なる提灯の明かりを目で、喧騒や音楽、笑い声を耳で感じ、嘆息しながらゆっくりと歩みを進めていた。
思い切り鼻で空気を吸い込み、吐き出した。永真とは違う場所だが、それでも覚えのある香りに少しだけホッとしてしまっていた。
(ここで生きてきた頃は、地獄とも思っていたこの匂いが、懐かしいかよ)
そんなことが頭に浮かんだ途端だ。ククっと笑い声がこぼれた。
(本当、転生しちまったんだな。俺)
遊郭の匂いが懐かしいと思った理由。それは既に八徳が、他の場所へ自由に出歩き、そこの匂いをかぐことに慣れていたからだった。
他の土地の、場所の匂いを知っている。それらほかの場所の空気が、永真遊郭の雰囲気しか知らなかった八徳の記憶の棚に、新たに追加されたということ。
それは外国人居留地か? それとも牛鍋宿六庵か。
そもそも、「家に帰ろう」という思いで、遊郭の出入り口に向かおうとしている。
かつて、始末屋の仕事以外、永真遊郭の外に出ることを禁じられた八徳には、ありえない概念。
もうすでに、別で生きる場所が出来たのだということを、あらためて思い知った。
「……解せませんな」
「解せない? 何がです」
そんなことを考えていたから、珍しく自分の世界に飛んで行ってしまっていた八徳は、隣を同じ速さで歩く呉服屋に怪訝な顔を向けられていた。
「貴方が、私と共に帰路についていることですよ。鈴蘭の元に残らなかったことです」
「それが何か?」
「それが何かですと?」
発言の意図もつかめず、問い返した八徳に、呉服屋は信じられないという顔を見せていた。
「鈴蘭ですぞ? 見世自体に馴染みとなって長いゆえの贔屓目でしょうが、鈴蘭は女郎として相当に優秀。もしここがお江戸、場が吉原であったなら、太夫とも称される最上格の遊女に数えられたであろう成長を見せうる逸材」
「それはわかります。あの娘の放つ静謐さは、町民に噂される『月下に咲く華』に相違ない。他の女郎には無い、格別な魅力がある」
「でしたら、どうしてそのまま床入りまで行かんのですか?」
「……あんだって?」
「並みなる男。いえ、ちょっとばかし格があったって、鈴蘭は高嶺の華。貴方の《馴染》の関係は、多くの男が喉から手が出るほど欲しいものに違いありません」
鈴蘭という、遊女を生業とした女の器量と、美貌を評価する呉服屋には、鈴蘭という銘柄の、商品価値を評価する八徳の行動が理解できなかったようだった。
価値観の違いによる現象。
己の目論見の為、普通なら声もかけることが許されぬ絶世の美女を、結果として呉服屋は八徳に与えたはず。
なのに、その価値観を八徳が見いだせていないというなら、与えた好条件は好条件に成り得ない。
情報屋の仕事の承諾に、支障をきたすものとして、心配していたようだった。
「ご心配なさらず。仕事はちゃんとさせてもらいますから」
覆面を被っているから、嗤いかけた八徳の笑みは伝わることはない。だから、ハハハと笑って見せたが、それを受けた呉服屋は複雑そうだった。
「あ、あの、まさかとは思いますが」
「なんです?」
「カオナシ殿は、その‥‥‥生むす(童て)‥‥‥」
「こ、こちとら女の味は知ってるしっ! 生息子(どーてー)じゃねぇしっ! 疑うんじゃねぇよっ!」
寧ろ追加された質問は、なんとも同情のこもった声色。
憐れまれたことに躍起になって、とっさに答えを返した八徳に言葉遣いもへったくれも見えなかった。
「いえいえ、安心しておくんなさい。こちとら生息子と仕事とは、まったく関係ないことくらいわかっております故」
「だから俺はっ!」
「いやぁ、水臭いですなぁ。私に一言でも言ってくだされば鈴蘭に。おぉ、なかなかにそれは、世の男からの嫉妬を集めますな。今をときめく注目の的、新進気鋭の鈴蘭に水揚げ(花魁の中で言えば、遊女としても、女性としても初体験)をしてもらうとは」
「いや、そういう関係はなんとも……」
「行けませんぞ遠慮は。それに、肌を重ねることに金銭を絡める是非どうのこうのなど。生息子の考え方です、まずはとにもかくにも、卒業することだけをお考えなさい!」
「ガハァッ! ひ、人の話を聞いてくれ!」
その反応すら、呉服屋から可愛いものとして楽しまれたこと。八徳が言葉遣いを忘れているのは致し方ない。
(人が黙ってりゃいい気になりやがって。それに気付いてないのか? それともワザと気付かないふりか? アンタが水揚げした鈴蘭と肌重ねたら。アンタまさか、俺に”兄弟”になれって‥‥‥)
それでも、黙っているわけには行かない。自らの誇りの為、伝えるべきところは伝えるべき。息を大きく吸い込み、口を開けた。
『人殺しっ! 人ごろしぃぃぃぃっ!』
『捕まえとくれえっ!』
だが、呉服屋への否定は、実現しなかった。
どこからか警笛が聞こえ、野太い多数の怒声が木霊したことで、遮られてしまったのだった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
密室島の輪舞曲
葉羽
ミステリー
夏休み、天才高校生の神藤葉羽は幼なじみの望月彩由美とともに、離島にある古い洋館「月影館」を訪れる。その洋館で連続して起きる不可解な密室殺人事件。被害者たちは、内側から完全に施錠された部屋で首吊り死体として発見される。しかし、葉羽は死体の状況に違和感を覚えていた。
洋館には、著名な実業家や学者たち12名が宿泊しており、彼らは謎めいた「月影会」というグループに所属していた。彼らの間で次々と起こる密室殺人。不可解な現象と怪奇的な出来事が重なり、洋館は恐怖の渦に包まれていく。
一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!
当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。
しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。
彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。
このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
特殊捜査官・天城宿禰の事件簿~乙女の告発
斑鳩陽菜
ミステリー
K県警捜査一課特殊捜査室――、そこにたった一人だけ特殊捜査官の肩書をもつ男、天城宿禰が在籍している。
遺留品や現場にある物が残留思念を読み取り、犯人を導くという。
そんな県警管轄内で、美術評論家が何者かに殺害された。
遺体の周りには、大量のガラス片が飛散。
臨場した天城は、さっそく残留思念を読み取るのだが――。
ゴーストからの捜査帳
ひなたぼっこ
ミステリー
埼玉県警刑事部捜査一課で働く母を持つアキは、ゴーストを見る能力を持っていた。ある日、県警の廊下で、被害者の幽霊に出くわしたアキは、誰にも知られていない被害者の情報を幽霊本人に託される…。
マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました
東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。
攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる!
そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる