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第3章 偽りの理由
3-8 油断大敵
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「……そろそろ離してもらってもいいですか」
アズールから自発的に離れるのを待っていたが、一向にその時が訪れない。そのため、ビリーは仕方なく自ら申し出た。
ジーンに対して処分を言い渡していた時もずっと抱かれたままだった。これでジーンは完全に、ビリーが色仕掛けで近衛騎士の座を手に入れたと思い込むだろう。ジーンにどう思われようと構わない。が、フィオナの耳に入るのは困る。
「あんな奴に触らせるな」
ビリーの後頭部に、アズールの額がごちっと押し当てられた。その状態で喋られると首筋に息がかかり、非常に落ち着かない。
「好きで触らせたように見えましたか。冗談じゃないですよ」
ビリーは触れられたあたりの髪をぐしゃっと握りつぶした。
思い出すだけで腹が立つ。ジーンへの評価が「薄気味悪い」から「気持ち悪い」へと明確に変化した。
「とにかく触らせるな。他の奴にもだ」
腰にまわしたアズールの手に力が入るのがわかった。
はたして同性に対し、こんなことを言ったり頻繁に触ったりするだろうか?
ビリーの頭の中に幾度となく浮かび、そのたびうやむやにしてきた疑問が、再び鎌首をもたげる。
「他って、誰のこと言ってるんです? 人のことをぬいぐるみだとでも思っていらっしゃるのか、無遠慮にべたべた触ってくるのはアズール様くらいですよ。怪我してるわけでもないですし、そろそろ本当に離してください」
ビリーは軽く冗談めかして言い、アズールの腕をやんわりと外そうと試みる。
腕に触れた瞬間、アズールに離すつもりがないのがわかった。全力で抵抗すれば引きはがせそうではある。しかしそこまで拒絶する気は起きなかった。
「……悪い。どうしてこんなに心が波立っているか、わからない」
ほとんど吐息のような声だった。
湿った息が首筋を撫で、ビリーの口から騎士に似つかわしくない声が出そうになる。
「んっ……それは、あの男の凶行を目にしたからでしょう。憤るのも当然です」
ビリーは努めて平静を装った。せめて顔の位置を変えてほしい。アズールが喋るたびに息が当たって思考が途切れる。
「もちろんそれもあるが、同じくらいお前が触られたのが嫌だった」
――どうしてですか?
反射的に尋ねてしまいそうになった瞬間、興味津々といった表情でこちらを見ている獣人と目が合った。
先ほどジーンに片耳を切られた男だ。切られた耳のあたりを押さえるように、頭にななめにターバンが巻かれている。肩から腰にかけて服が裂けているが傷は見当たらない。
「じっ、じゃ、邪魔してすいません! 俺なんか気にせず、どうぞ続きを、はい、ええ、はいっ」
獣人の男は両目を手で隠し、その場にしゃがみ込んでしまった。かなりの怪我を負ったわりに元気そうだ。
「おお、正気に戻ったのか。耳は治してやれなくてすまないな」
アズールは片耳の男に近寄り、気さくに肩を叩いた。
ビリーがジーンに掴みかかっている間に癒しの手で治療していたのだろう。今になってようやく気付いたが、アズールの服は血で汚れていた。
(威厳があるんだかないんだか)
アズールが離れてほっとしたと同時に、ビリーは若干の肌寒さを覚えた。自分の身体を抱くように腕をさする。
「いや、いえ、いえ! 俺、皇帝陛下にとんでもないことしたのに、あのまま殺されてても文句言えないっすよ」
獣人の男は地面につきそうなほど頭を下げた。顔や服が汚れていてわからなかったが、声や口調の感じから年齢はだいぶ若い印象を受ける。
「お前は証人だからな。生きていてもらわねば困る。もし少しでも恩義を感じているのなら、あの男にされたことを正確に証言しろ。それが俺のためになる」
アズールは獣人の男の手を取り、顔を上げさせた。
獣人の男は感極まったように目を潤ませている。
誰にでもああいうことをするんだな、と思い、ビリーは二人に背を向けた。
獣人の男が助かったことを素直に喜べない自分の矮小さが嫌になる。特別扱いされることを嫌がるくせに、特別扱いでなかったことにも気持ちを乱すなど子供の癇癪だ。どうかしている。
(……あれは?)
路地の奥で一瞬何か光ったように見えた。袋小路の方向だ。
ならず者たちと交戦してから時間が経っている。彼らが意識を取り戻していてもおかしくない。
「アズール様――」
いったんここを離れましょう。
そう言ったつもりだった。
ひゅっ! と軽い何かが風を切る音が聞こえた。
左前腕部に刺しぬかれたような鋭い痛みが走る。手のひらほどの長さの針が深々と刺さっていた。路地の奥で光ったものの正体はおそらくこれだろう。
無造作に針を引き抜くと、肉をえぐる痛みに心臓のあたりがさっと冷えた。
針の先端にはギザギザの返しが付いていた。こういった形状の暗器は、毒が用いられていることが多い。
両膝が折れ、ビリーは己の散漫さを後悔した。
襲撃者の中に一人だけ、ならず者らしからぬ妙に姿勢の良い男がいるのはわかっていた。侮らずにもっと注意を払っておくべきだった。アズールに遠慮などせず、奴らの衣服を剥いて縛りあげるべきだった。
ビリーの目の前で急に帳が下りた。夜の闇とは違う漆黒で何も見えなくなる。
逃げてください、アズール様。
発したはずの言葉は、漆黒の中に溶けていった。
アズールから自発的に離れるのを待っていたが、一向にその時が訪れない。そのため、ビリーは仕方なく自ら申し出た。
ジーンに対して処分を言い渡していた時もずっと抱かれたままだった。これでジーンは完全に、ビリーが色仕掛けで近衛騎士の座を手に入れたと思い込むだろう。ジーンにどう思われようと構わない。が、フィオナの耳に入るのは困る。
「あんな奴に触らせるな」
ビリーの後頭部に、アズールの額がごちっと押し当てられた。その状態で喋られると首筋に息がかかり、非常に落ち着かない。
「好きで触らせたように見えましたか。冗談じゃないですよ」
ビリーは触れられたあたりの髪をぐしゃっと握りつぶした。
思い出すだけで腹が立つ。ジーンへの評価が「薄気味悪い」から「気持ち悪い」へと明確に変化した。
「とにかく触らせるな。他の奴にもだ」
腰にまわしたアズールの手に力が入るのがわかった。
はたして同性に対し、こんなことを言ったり頻繁に触ったりするだろうか?
ビリーの頭の中に幾度となく浮かび、そのたびうやむやにしてきた疑問が、再び鎌首をもたげる。
「他って、誰のこと言ってるんです? 人のことをぬいぐるみだとでも思っていらっしゃるのか、無遠慮にべたべた触ってくるのはアズール様くらいですよ。怪我してるわけでもないですし、そろそろ本当に離してください」
ビリーは軽く冗談めかして言い、アズールの腕をやんわりと外そうと試みる。
腕に触れた瞬間、アズールに離すつもりがないのがわかった。全力で抵抗すれば引きはがせそうではある。しかしそこまで拒絶する気は起きなかった。
「……悪い。どうしてこんなに心が波立っているか、わからない」
ほとんど吐息のような声だった。
湿った息が首筋を撫で、ビリーの口から騎士に似つかわしくない声が出そうになる。
「んっ……それは、あの男の凶行を目にしたからでしょう。憤るのも当然です」
ビリーは努めて平静を装った。せめて顔の位置を変えてほしい。アズールが喋るたびに息が当たって思考が途切れる。
「もちろんそれもあるが、同じくらいお前が触られたのが嫌だった」
――どうしてですか?
反射的に尋ねてしまいそうになった瞬間、興味津々といった表情でこちらを見ている獣人と目が合った。
先ほどジーンに片耳を切られた男だ。切られた耳のあたりを押さえるように、頭にななめにターバンが巻かれている。肩から腰にかけて服が裂けているが傷は見当たらない。
「じっ、じゃ、邪魔してすいません! 俺なんか気にせず、どうぞ続きを、はい、ええ、はいっ」
獣人の男は両目を手で隠し、その場にしゃがみ込んでしまった。かなりの怪我を負ったわりに元気そうだ。
「おお、正気に戻ったのか。耳は治してやれなくてすまないな」
アズールは片耳の男に近寄り、気さくに肩を叩いた。
ビリーがジーンに掴みかかっている間に癒しの手で治療していたのだろう。今になってようやく気付いたが、アズールの服は血で汚れていた。
(威厳があるんだかないんだか)
アズールが離れてほっとしたと同時に、ビリーは若干の肌寒さを覚えた。自分の身体を抱くように腕をさする。
「いや、いえ、いえ! 俺、皇帝陛下にとんでもないことしたのに、あのまま殺されてても文句言えないっすよ」
獣人の男は地面につきそうなほど頭を下げた。顔や服が汚れていてわからなかったが、声や口調の感じから年齢はだいぶ若い印象を受ける。
「お前は証人だからな。生きていてもらわねば困る。もし少しでも恩義を感じているのなら、あの男にされたことを正確に証言しろ。それが俺のためになる」
アズールは獣人の男の手を取り、顔を上げさせた。
獣人の男は感極まったように目を潤ませている。
誰にでもああいうことをするんだな、と思い、ビリーは二人に背を向けた。
獣人の男が助かったことを素直に喜べない自分の矮小さが嫌になる。特別扱いされることを嫌がるくせに、特別扱いでなかったことにも気持ちを乱すなど子供の癇癪だ。どうかしている。
(……あれは?)
路地の奥で一瞬何か光ったように見えた。袋小路の方向だ。
ならず者たちと交戦してから時間が経っている。彼らが意識を取り戻していてもおかしくない。
「アズール様――」
いったんここを離れましょう。
そう言ったつもりだった。
ひゅっ! と軽い何かが風を切る音が聞こえた。
左前腕部に刺しぬかれたような鋭い痛みが走る。手のひらほどの長さの針が深々と刺さっていた。路地の奥で光ったものの正体はおそらくこれだろう。
無造作に針を引き抜くと、肉をえぐる痛みに心臓のあたりがさっと冷えた。
針の先端にはギザギザの返しが付いていた。こういった形状の暗器は、毒が用いられていることが多い。
両膝が折れ、ビリーは己の散漫さを後悔した。
襲撃者の中に一人だけ、ならず者らしからぬ妙に姿勢の良い男がいるのはわかっていた。侮らずにもっと注意を払っておくべきだった。アズールに遠慮などせず、奴らの衣服を剥いて縛りあげるべきだった。
ビリーの目の前で急に帳が下りた。夜の闇とは違う漆黒で何も見えなくなる。
逃げてください、アズール様。
発したはずの言葉は、漆黒の中に溶けていった。
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