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第2章 偽装恋人生活の幕開け

2-5 第一容疑者ディーシ伯令嬢プリム・ガルシア

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「ビリー・グレイ」

 熱を帯びた声でアズールは急かす。
 耳を掠める吐息のぬるさにビリーは身体を震わせる。男がこういう反応をするのはおかしい、と頭で思っていても身体が勝手におどおどしてしまう。

(獣人にとっては性行為同然かもしれないけれど、今この時私にとってはそうじゃない。動物を撫でて可愛がるのと同じ――決してアズール様の人権無視してるわけじゃないけどそういうことにしよう。目の前にいるのは私よりも頭一つ大きい犬。触っているのはその犬の、ふわふわな毛に覆われた長くて大きな耳)

 下手くそな自己暗示をかけながら、ビリーは控えめに指を動かした。
 相変わらず手触りが良い。いつまででも撫でていられる。温かく柔らかいものに触れていると心が落ち着くのは何故だろう。

「人間の耳は小さいな」

 ビリーの耳に別の体温が触れた。
 人間の手に似た、しかし獣の特質を備えたアズールの指が、耳たぶの感触を確かめるように挟んでくる。

「あっ……! アズール様、それ、んっ……その、困ります!」

 弾性に富んだ肉球の触感と、くすぐったく掠めてくる被毛のせいで、ビリーの口から吐息のような声が漏れてしまう。冷えていた耳に急速に血が巡っていくのがわかる。

「何がだ」
「耳を、そんな……はぁ、触られると……うぅん……なんか変な、感じ、が……」

 アズールの爪の先で耳介をなぞられると、身体の芯のあたりにぞくぞくとした得体の知れない感覚が走る。理由はわからないがそれがとてつもなく恥ずかしいことのように思え、ビリーはたまらず口元を手で覆い隠した。自分の意志と関係なく呼吸が上がり、顔が熱くなっていく。

「獣人との身体上の差異に対する学術的興味だ。もう少し付き合え」

 言葉と共に発せられる息すら、ビリーにとっては刺激になった。
 文章として見れば真面目なことを言っているように感じるが、アズールの声には笑いが混じっている。どう考えてもからかっているだけだ。

「っく……いまはその好奇心を発揮する必要ないでしょうっ……!」
「今後何かの役に立つかもしれない」
「私などではなく、人間の女を口説く時に直接実戦で学んでください!」
「そんな面倒なことはせん。お前は反応がいいから面白い」
「こちとら野郎に撫でまわされても全然面白くなんかね――ぁりません!」
「たまに言葉が荒くなるな」
「辺境州の人間はみんなこんなもんです!」

 恥ずかしさを通り越し、いっそ頭にきたビリーは、意趣返しにアズールの尻尾をつかんだ。
 ふわふわとした綿を握ったような感触の後、細くしなやかな芯に触れる。手の中から逃れようと、別の生き物のように激しく動くそれに妙にどきっとしてしまい、反射的に離してしまった。

「わっ、馬鹿者! 急に離すな!」

 アズールの身体が唐突に傾く。尻尾が左右にしなうように速く大きく振れ、それで身体のバランスを崩したようだった。
 倒れる途中で腕をつかまれたビリーも、アズールに引き込まれる形で一緒に噴水へと倒れ込む。

 水飛沫が盛大に上がり、視界が一瞬真っ白になった。次の瞬間、通り雨のような大きな水の粒が降り注ぐ。
 さっき風術を失敗した時の比ではないくらい髪も服もびしょびしょになってしまう。ビリーの下敷きになっているアズールにいたっては、完全に腰が噴水に浸かっている。

「大丈夫……じゃないですよねー」

 ビリーは軽薄に笑って逃げようとするがあっさりと捕まった。
 片目をつむって、怒られるのをびくびくと待っていると、不機嫌な顔をしたアズールは何も言わずに顔を傾けた。二回目までは仕草の意味がわからなかったが、三度目でようやく顎をしゃくって指し示しているのだと気付く。庭園の扉がある方向だ。

 首をまわして見てみると、扉――いや、無惨に打ち壊された扉の前には一人の女性が両手を腰に当てて仁王立ちをしていた。
 年齢はビリーよりもいくつか幼く見える。穏やかで優しげな雰囲気の美少女だ。くりっとした丸い目元と、きゅっと口角の上がった小さな口が可愛らしい。編み下ろしたツインテールがよく似合っている。

 何より目を引くのが、頭頂部から生える直立した長いうさぎ耳だ。はた目にもわかるほど痙攣している。

 ビリーと視線がかち合うと、うさぎ耳の美少女は怒りで顔を歪めた。美少女の面影が完全に消え去る。
 あまりの唐突な変貌に、ビリーは思わず恐怖で顔を逸らしてしまった。

(なんなんですあの美少女もどき)

 ビリーはアズールにだけ聞こえる声で問う。

(あれが兎女だ。犯人は現場に戻ってくるというし、やはり怪しいな)

 アズールも声量を抑えて答えた。

(っていうかなんかめっちゃ怒ってるんですが)
(さあ。腹でも減ってるんじゃないか?)
(本気で言ってますそれ?)
(だから興味もないし関わりたくないと言っている。適当にいちゃついていれば気まずくて帰るだろ)
(このまま噴水の中でやるんですか?)
(移動してる間に声かけられたくない)
(本当に何した、もしくはされたんですか……)

 頭が実際に重くなっているような気がし、ビリーはため息をつきながらうなだれた。

 ちょうどその時、ビリーの頭上すれすれを重量のある何かが高速で通り過ぎた。何か――打ち壊された庭園の扉は低木をなぎ倒し、花壇の土を大きくえぐった。黄緑色の果実が落ちてぐしゃりと潰れ、甘い匂いをまき散らす。

 ビリーがおそるおそる振り返ると、大きな扉をぶん投げた体勢のまま微動だにしないうさ耳の美少女――ディーシ伯令嬢プリム・ガルシアの姿があった。
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