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視界が、反転して。一瞬何が起きたのか分からなかった。逆光で表情が読めない。
村上さん、と彼がささやくように僕の名前を呼んだ。
「俺と、最後までしてみますか?」
彼が発する言葉の意味さえ解らず、僕はひどく戸惑っていた。
発端がどこにあったのかは、その夜の出来事を振り返ってみても僕には見つけることができない。気づいたときにはもう遅かった。
仕事の関係で少し遅く帰ると、普段のようなお出迎えはなく、リビングにはどことなく沈んだ様子の佐藤君がいた。元々の顔立ちが端整な分、笑わない彼には人形的な冷たさが漂う。
「……ただいま」
ためらいがちに声をかけると、
「お帰りなさい」
昨日と変わらない挨拶が返ってきた。
言葉自体は同じだが、纏う雰囲気のせいか無機質な印象を受ける。
「あの……」
何かあった?
そう訊こうとした僕を遮って、彼は温度のない声で言った。
「村上さん、白崎と会ったんですか」
「白崎……?」
覚えのない名前を出され、思考が混乱する。過去を振り返ろうとしたとき、彼が言葉を接いだ。
「俺の、元彼です」
会った。急に呼び止められ、佐藤君の連絡先を聞かれ。きちんと謝るべきだと説いたら笑われた。あのときは、もしかしたらまだ佐藤君はあの子のことが好きなんじゃないかと思ってもやもやしたが。好きなひとは年上だと佐藤君が言っていたから、それは僕の勘違いだったようだ。
そういえばそんなこともあったな、と数日前のことを何だか随分前の出来事のように回想していると。
「……会ったんですね」
「うん」
「あいつと、何を話したんですか?」
「何って……」
話していいものか、計りかねて口ごもる。自分の預かり知らぬところで自分の連絡先を尋ねられていたなどというのは、あまり気持ちのいい話ではない。
「……謝られました。浮気して悪かった、って。今までみたいな、よりを戻すための口先だけの謝罪じゃなくて。不誠実な行動で傷づけてごめんと、きちんと謝ってくれました」
「そっか……」
あの子、思ったより悪い子じゃなかったんだな、とほっとする。それもそうか。佐藤君が一度は真剣に好きになった相手だ。悪いところばかりのはずがない。
「村上さん、何かあいつに言ったんじゃないですか?」
「僕はただ、佐藤君本人とちゃんと話をした方がいいって言っただけだよ」
謝ったら、と勧めたことは黙っておくことにした。白崎君が僕に言われたから謝ったとは思えないが、そう受け取られてしまうのはよくない。
「他には? 何か話しました?」
彼は何を気にしているのだろう。意図を把握できないまま、何も、と僕は答える。
「特に、なかったと思うけど」
僕はリビングの入口に立ちつくしていて、佐藤君もソファーの前で直立していたので、ひとまず座って話すことにした。彼の斜め前に座り、問いかける。
「それが、どうかした?」
「白崎が……」
「が?」
佐藤君は、まるで叱られる前のこどもみたいに視線を逸らした。
「村上さんのこと、知りたがってたから」
「…………はい?」
まったくもって、訳が分からない。
「あなたに、興味を持ってるようでした」
あの短時間で、興味を持たれるようなことはしていないはずだ。
「気のせい、とかじゃないかな。たぶん」
「そうですか?」
「うん」
そうとしか思えないので断言したが、佐藤君はまだ納得していないようだった。
「もし……」
「もし?」
「白崎に好きだと言われたら、どうしますか」
仮定として切り出されたその問いに、僕は目を見開いた。何だか終わりの見えない迷路に放り込まれたような気分だった。
「ないと思うけど。万が一言われても断るよ」
佐藤君が誰を好きでも、彼への気持ちをなかったことにはできない。
「……男だから無理、というわけじゃないんですね」
もしかして、と佐藤君は言った。
「今、村上さんが好きな相手は男性なんですか」
心臓が、止まるかと思った。
断定されたわけではないのだから、適当に受け流すべきだったのに。口から零れ落ちたのは、震えた声だった。
「何で……」
それ以上口にすることはできなかったが、彼には十分伝わったらしかった。
「やっぱりそうなんですか」
「やっぱり、って」
好きなひとがいると打ち明けた時点で、相手は男性ではないかと薄々察していたと、そういうことだろうか。まさか、彼は僕の気持ちに気づいている?
さあっと顔から血の気が引いていくのが分かった。
「相手は、四谷さんですか?」
再度、意外な問いが鼓膜を重く震わせた。思わず目を見開くと、冬の夜空のような瞳が僕を見ていた。冷たくて暗くて、綺麗だった。
「違います。彼は上司で、友人です」
「本当に?」
「はい」
もう少し冷静でいられたなら、どうしてそんなことを訊くのかと逆に問い返していたかもしれない。しかしこのときは信じてもらうのに必死で、それを訊いてきた彼の気持ちまで考える余裕がなかった。
本当です、と僕は言った。
「彼には恋人がいますし、あのひとに恋愛感情はありません」
「……片想いの相手が男性だという点については、否定されないんですね」
「そ、れは」
否定するなら、最初にしておくべきだった。もう、遅い。
「あなたは、俺と違って男が好きだというわけではないですよね。そんなに、そのひとのことが好きなんですか」
好きなひとがいる、だなんて言わなければよかった。想いの輪郭を言葉にしたことを、僕はひどく後悔していた。すべてを告白することができないのなら、何ひとつ、表に出すべきではなかったのだ。
やむを得ず口を閉ざすと、彼が微かに笑った。どうしようもなく、気まずい空気が流れていく。僕と彼は一体、何の話をしているのだろう。話の行く末が見えない。
「以前、俺としたようなことを、そのひととするんですか?」
一拍置いて、自分の顔が朱に染まった。彼に触れられた夜の記憶が身体を熱くさせる。佐藤君があのとき僕に触れたのは、ただの確認だ。男とだってできると言った僕が、本当にできるのかどうかの、確認。恋愛感情なんて、どこにもなかった。
佐藤君には、好きなひとがいる。その想いが変わらない限り、僕が好きなひとと触れ合う可能性はない。
「やっぱり、男と最後までは無理ですか?」
最後? 僕は首を傾げた。そういえば、前に四谷さんにもそんなようなことを言われた気がする。
「最後って、何?」
四谷さんは、佐藤君に聞いた方がいいと言って結局教えてくれなかった。
「あれで、終わりでしょう?」
直接触れられて、達して。それ以上、何があるというのだろう。
「村上さん。あの……知らないんですか?」
控えめに、佐藤君が言う。何だか会話が噛み合わない。
「何を?」
「男との、やり方です」
知っている、つもりだった。佐藤君が教えてくれたことが、すべてだと思っていた。
「分かってなかったんですね」
「だから、何……」
最後まで問いかけることができなかったのは、やわらかな感触が口を塞いできたせいだった。
微かに開いていた唇の奥に、舌を差し込まれた。舌を絡め取られ、口内を彼で埋めつくされ、頭が朦朧としてくる。彼が離れていく頃には、目の端にうっすらと涙が浮かび始めていた。
「佐藤、くん……?」
「やり方、教えましょうか」
「え……?」
「村上さん」
ふわりと、彼の香りが鼻孔をくすぐる。もし誰もが欲しがる毒薬があるとしたら、こんなふうに甘い香りをしているのかもしれない。
「俺と、最後までしてみますか?」
村上さん、と彼がささやくように僕の名前を呼んだ。
「俺と、最後までしてみますか?」
彼が発する言葉の意味さえ解らず、僕はひどく戸惑っていた。
発端がどこにあったのかは、その夜の出来事を振り返ってみても僕には見つけることができない。気づいたときにはもう遅かった。
仕事の関係で少し遅く帰ると、普段のようなお出迎えはなく、リビングにはどことなく沈んだ様子の佐藤君がいた。元々の顔立ちが端整な分、笑わない彼には人形的な冷たさが漂う。
「……ただいま」
ためらいがちに声をかけると、
「お帰りなさい」
昨日と変わらない挨拶が返ってきた。
言葉自体は同じだが、纏う雰囲気のせいか無機質な印象を受ける。
「あの……」
何かあった?
そう訊こうとした僕を遮って、彼は温度のない声で言った。
「村上さん、白崎と会ったんですか」
「白崎……?」
覚えのない名前を出され、思考が混乱する。過去を振り返ろうとしたとき、彼が言葉を接いだ。
「俺の、元彼です」
会った。急に呼び止められ、佐藤君の連絡先を聞かれ。きちんと謝るべきだと説いたら笑われた。あのときは、もしかしたらまだ佐藤君はあの子のことが好きなんじゃないかと思ってもやもやしたが。好きなひとは年上だと佐藤君が言っていたから、それは僕の勘違いだったようだ。
そういえばそんなこともあったな、と数日前のことを何だか随分前の出来事のように回想していると。
「……会ったんですね」
「うん」
「あいつと、何を話したんですか?」
「何って……」
話していいものか、計りかねて口ごもる。自分の預かり知らぬところで自分の連絡先を尋ねられていたなどというのは、あまり気持ちのいい話ではない。
「……謝られました。浮気して悪かった、って。今までみたいな、よりを戻すための口先だけの謝罪じゃなくて。不誠実な行動で傷づけてごめんと、きちんと謝ってくれました」
「そっか……」
あの子、思ったより悪い子じゃなかったんだな、とほっとする。それもそうか。佐藤君が一度は真剣に好きになった相手だ。悪いところばかりのはずがない。
「村上さん、何かあいつに言ったんじゃないですか?」
「僕はただ、佐藤君本人とちゃんと話をした方がいいって言っただけだよ」
謝ったら、と勧めたことは黙っておくことにした。白崎君が僕に言われたから謝ったとは思えないが、そう受け取られてしまうのはよくない。
「他には? 何か話しました?」
彼は何を気にしているのだろう。意図を把握できないまま、何も、と僕は答える。
「特に、なかったと思うけど」
僕はリビングの入口に立ちつくしていて、佐藤君もソファーの前で直立していたので、ひとまず座って話すことにした。彼の斜め前に座り、問いかける。
「それが、どうかした?」
「白崎が……」
「が?」
佐藤君は、まるで叱られる前のこどもみたいに視線を逸らした。
「村上さんのこと、知りたがってたから」
「…………はい?」
まったくもって、訳が分からない。
「あなたに、興味を持ってるようでした」
あの短時間で、興味を持たれるようなことはしていないはずだ。
「気のせい、とかじゃないかな。たぶん」
「そうですか?」
「うん」
そうとしか思えないので断言したが、佐藤君はまだ納得していないようだった。
「もし……」
「もし?」
「白崎に好きだと言われたら、どうしますか」
仮定として切り出されたその問いに、僕は目を見開いた。何だか終わりの見えない迷路に放り込まれたような気分だった。
「ないと思うけど。万が一言われても断るよ」
佐藤君が誰を好きでも、彼への気持ちをなかったことにはできない。
「……男だから無理、というわけじゃないんですね」
もしかして、と佐藤君は言った。
「今、村上さんが好きな相手は男性なんですか」
心臓が、止まるかと思った。
断定されたわけではないのだから、適当に受け流すべきだったのに。口から零れ落ちたのは、震えた声だった。
「何で……」
それ以上口にすることはできなかったが、彼には十分伝わったらしかった。
「やっぱりそうなんですか」
「やっぱり、って」
好きなひとがいると打ち明けた時点で、相手は男性ではないかと薄々察していたと、そういうことだろうか。まさか、彼は僕の気持ちに気づいている?
さあっと顔から血の気が引いていくのが分かった。
「相手は、四谷さんですか?」
再度、意外な問いが鼓膜を重く震わせた。思わず目を見開くと、冬の夜空のような瞳が僕を見ていた。冷たくて暗くて、綺麗だった。
「違います。彼は上司で、友人です」
「本当に?」
「はい」
もう少し冷静でいられたなら、どうしてそんなことを訊くのかと逆に問い返していたかもしれない。しかしこのときは信じてもらうのに必死で、それを訊いてきた彼の気持ちまで考える余裕がなかった。
本当です、と僕は言った。
「彼には恋人がいますし、あのひとに恋愛感情はありません」
「……片想いの相手が男性だという点については、否定されないんですね」
「そ、れは」
否定するなら、最初にしておくべきだった。もう、遅い。
「あなたは、俺と違って男が好きだというわけではないですよね。そんなに、そのひとのことが好きなんですか」
好きなひとがいる、だなんて言わなければよかった。想いの輪郭を言葉にしたことを、僕はひどく後悔していた。すべてを告白することができないのなら、何ひとつ、表に出すべきではなかったのだ。
やむを得ず口を閉ざすと、彼が微かに笑った。どうしようもなく、気まずい空気が流れていく。僕と彼は一体、何の話をしているのだろう。話の行く末が見えない。
「以前、俺としたようなことを、そのひととするんですか?」
一拍置いて、自分の顔が朱に染まった。彼に触れられた夜の記憶が身体を熱くさせる。佐藤君があのとき僕に触れたのは、ただの確認だ。男とだってできると言った僕が、本当にできるのかどうかの、確認。恋愛感情なんて、どこにもなかった。
佐藤君には、好きなひとがいる。その想いが変わらない限り、僕が好きなひとと触れ合う可能性はない。
「やっぱり、男と最後までは無理ですか?」
最後? 僕は首を傾げた。そういえば、前に四谷さんにもそんなようなことを言われた気がする。
「最後って、何?」
四谷さんは、佐藤君に聞いた方がいいと言って結局教えてくれなかった。
「あれで、終わりでしょう?」
直接触れられて、達して。それ以上、何があるというのだろう。
「村上さん。あの……知らないんですか?」
控えめに、佐藤君が言う。何だか会話が噛み合わない。
「何を?」
「男との、やり方です」
知っている、つもりだった。佐藤君が教えてくれたことが、すべてだと思っていた。
「分かってなかったんですね」
「だから、何……」
最後まで問いかけることができなかったのは、やわらかな感触が口を塞いできたせいだった。
微かに開いていた唇の奥に、舌を差し込まれた。舌を絡め取られ、口内を彼で埋めつくされ、頭が朦朧としてくる。彼が離れていく頃には、目の端にうっすらと涙が浮かび始めていた。
「佐藤、くん……?」
「やり方、教えましょうか」
「え……?」
「村上さん」
ふわりと、彼の香りが鼻孔をくすぐる。もし誰もが欲しがる毒薬があるとしたら、こんなふうに甘い香りをしているのかもしれない。
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