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4章

鏡像体の罠

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「私は私ではない」――その短い言葉が、葉羽の脳裏に重く響いていた。まるで、自我が分裂し、別の何かに乗っ取られたような、そんな恐怖を想像させる言葉だった。被害者たちは、一体何を伝えようとしていたのか?

葉羽は、これまでの情報を整理した。意識転移、時間逆行、記憶障害、そしてあの異形の影。全てが「鏡像体」の存在を暗示している。

「鏡像体……複製された肉体か」

葉羽は呟きながら、インターネットで情報を検索し始めた。すると、驚くべき記事が見つかった。それは、数年前に発表された、ある科学論文の記事だった。その論文は、人間の細胞から完全なコピーを作り出す技術、つまりクローン技術について論じていた。倫理的な問題から研究は中断されたとされていたが、もしこの研究所が秘密裏に研究を続けていたとしたら……

葉羽は、論文の著者に注目した。空木雫――脳神経科学の分野で将来を嘱望されていた若き研究者だ。しかし、数年前を境に、彼女は学会から姿を消していた。

「空木雫……彼女が鍵だ」

葉羽は直感的にそう思った。雫は、この研究所で何らかの研究に関わっていた可能性が高い。そして、非人道的な実験に反対し、追放されたのかもしれない。

葉羽は縫也に連絡を取り、空木雫の所在を調べてもらった。数時間後、縫也から連絡が入った。

「葉羽、空木雫の居場所を突き止めた。彼女は街外れの古びたアパートでひっそりと暮らしているようだ」

葉羽はすぐに彩由美と共に、雫のアパートを訪れた。薄汚れたドアをノックすると、少し間を置いて、中から弱々しい声が聞こえた。

「どちら様ですか……」

葉羽は身分を明かし、雫に研究所の件で話を聞きたいと伝えた。しばらく沈黙が続いた後、重そうなドアがゆっくりと開いた。

そこに立っていたのは、やつれた様子の女性だった。年は30代後半くらいだろうか。かつては聡明な眼差しをしていたであろう瞳は、今は深い悲しみと恐怖に覆われている。

「……入ってください」

雫は二人を部屋に招き入れた。部屋は狭く、薄暗く、生活感があまり感じられない。窓際には、枯れた鉢植えがいくつか置かれていた。

葉羽は単刀直入に尋ねた。「空木さん、あなたはあの研究所で何の研究をしていたのですか?」

雫は深く息を吸い込み、重い口を開いた。

「……私は、人間の意識を別の肉体に移植する研究をしていました」

雫の言葉は、葉羽の予想通りだった。

「その肉体とは、鏡像体のことですか?」葉羽が尋ねると、雫は小さく頷いた。

「鏡像体は、患者の細胞から生成された、いわば複製です。しかし、それは単なるクローン人間とは違います。鏡像体は、オリジナルの意識を受け入れるための、いわば空っぽの器なのです」

雫は、鏡像体の生成方法や特性について詳細に説明し始めた。それは、葉羽の想像をはるかに超える、驚愕の内容だった。

鏡像体は、特殊な培養液の中で、患者の細胞を急速に増殖させることで生成される。その過程で、遺伝子操作によって老化を促進する遺伝子が除去され、極めて短命な存在となる。生成後数日で急速に老化し、死に至るように設計されているのだ。

「なぜ、そんな短命な存在を?」葉羽は疑問を投げかけた。

「それは、倫理的な問題を避けるためでした。永遠に生きる複製人間を生み出すことは、倫理的に許されない。だから、鏡像体は短命に設計されたのです」

雫の言葉に、葉羽は言いようのない不安を覚えた。短命な鏡像体……それは、まるで使い捨ての道具のように思えた。

「しかし、研究所は私の意図を無視し、鏡像体を永遠に生かす方法を研究し始めました。それが、時間逆行です」

雫の声は震えていた。彼女は、自分が関わった研究が、恐ろしい方向へと進んでしまったことを深く後悔しているようだった。

「時間逆行……一体どうやって?」葉羽は息を呑んだ。

「それは……私にも分かりません。研究所は私を研究から外し、秘密裏に時間逆行の研究を進めていたのです。私が知るのは、莫大なエネルギーを使って、時間を局所的に逆行させる装置を開発したということだけです」

雫の言葉に、葉羽は地下室で見た、あの異様な装置を思い出した。恐らく、それが時間逆行を引き起こす装置なのだろう。

「しかし、時間逆行には、恐ろしい副作用がありました」雫は言葉を続けた。

「時間逆行は、鏡像体の肉体だけでなく、意識にも影響を与えます。時間軸が歪み、記憶が断片化し、人格が崩壊していく。そして、その影響は、元の患者にも及ぶのです」

雫の言葉は、葉羽の推理を裏付けていた。被害者たちは、時間逆行の副作用によって、自我を失っていったのだ。

「空木さん、あなたはなぜ研究所を辞めたのですか?」彩由美が静かに尋ねた。

雫は目を伏せ、小さな声で呟いた。「……私は、研究所の非人道的な実験に反対しました。そして、追放されたのです」

雫は、研究所の真実を世間に公表しようと試みたが、誰も彼女の言葉に耳を貸さなかった。巨大な組織に立ち向かうには、あまりにも無力だったのだ。

「葉羽さん、彩由美さん……どうか、この実験を止めてください。これ以上、犠牲者を出さないでください」雫は懇願するような眼差しで二人を見つめた。

葉羽は深く頷いた。「必ず止めます。約束します」

葉羽と彩由美は雫のアパートを後にした。空はすっかり暗くなり、冷たい風が吹きつけていた。

「葉羽くん、どうする? これから」彩由美が不安げに尋ねた。

「もう一度、研究所に潜入する。時間逆行装置を止めなければ……」

葉羽がそう言った瞬間、彼のスマートフォンが鳴った。画面には、雫の名前が表示されていた。

「もしもし、空木さん? どうしたんですか?」

葉羽が電話に出ると、雫の震える声が聞こえてきた。

「葉羽さん……逃げなさい! 鏡像体たちが……研究所から逃げ出した……奴らは人間ではない……」

雫の言葉が終わると同時に、電話は切れた。葉羽は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

(鏡像体……奴らが、外に?)

葉羽の脳裏に、あの異形の影が再び浮かび上がった。それはもはや、単なる影ではなかった。実体を持った、恐ろしい存在として。
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