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1章

螺旋の序章

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夜の帳が下りたばかりの街は、人工の光に彩られながらも、どこか不穏な空気を孕んでいた。俺、神藤葉羽は、自室の書斎で分厚い推理小説の頁を繰っていた。古びた洋館を舞台にした密室殺人の謎。犯人の仕掛けた巧妙なトリックに、思わず唸り声を上げる。現実世界では、こんなに面白い事件は起きない。そう思いながらも、俺は知的好奇心を刺激されるこの時間を愛していた。

ふと、窓の外に目をやると、街灯の光が奇妙に歪んで見えた。一瞬、立ち眩みのような感覚に襲われる。最近、こんなことがよくある。まるで、世界の輪郭がぼやけているような、奇妙な違和感。それだけではない。寝ている間に、おかしな夢を見るようになった。暗闇の中を延々と螺旋階段を上り続ける夢。階段はどこまでも続き、終わりが見えない。目を覚ますと、酷い疲労感と不安感に襲われる。

「…なんだ、これ?」

小さく呟きながら、俺はこめかみを揉んだ。考え事をしていると、スマートフォンが震える。画面を見ると、彩由美からのメッセージだった。

『葉羽くん、今大丈夫? ちょっと聞きたいことがあるんだけど』

彩由美は、俺の幼馴染だ。明るく朗らかな彼女は、俺にとって数少ない心を許せる相手だった。すぐに電話をかけ直すと、彩由美は少し興奮した様子で話し始めた。

「ねえ、葉羽くん。知ってる? 駅前の路地裏で、人が亡くなったって」

「え? 事件か?」

俺は思わず身を乗り出した。退屈な日常に、変化の兆しが見えた気がした。

「うん。警察は病死だって言ってるけど、変な噂もあって…。その人、密室状態で見つかったらしいの。しかもね、現場には奇妙な模様が描かれてたんだって。古代の呪文みたいな…」

彩由美の話を聞きながら、俺の脳裏にはあるイメージが浮かび上がっていた。螺旋階段。あの悪夢で見た光景と、何か関係があるのだろうか?

「彩由美、その模様について詳しく教えてくれないか。どんな形だった?」

「えっとね…確か、中心から渦を巻くような…そう、螺旋みたいな感じだったかな」

螺旋。やはり、繋がっているのか? 俺の心に、言い知れぬ不安が広がっていく。

「葉羽くん? どうしたの?」

彩由美の心配そうな声で、我に返る。

「いや、なんでもない。…その事件、詳しく知りたいんだ。場所を教えてくれないか?」

「え? でも、危ないよ?」

「大丈夫だ。ちょっと気になることがあってね。お願いだ、彩由美」

俺の真剣な口調に、彩由美は渋々といった様子で場所を教えてくれた。通話を切ると、俺はすぐに立ち上がった。いてもたってもいられない。確かめる必要がある。あの悪夢と、密室事件の関連性を。

夜風が冷たい。街灯に照らされた道を歩きながら、俺は思考を巡らせる。密室殺人、奇妙な模様、そして螺旋階段の悪夢。一見、無関係に見えるこれらの要素が、俺の中で一つの線で繋がり始めていた。まるで、見えない何者かによって導かれているかのように。

駅前の路地裏に着くと、すでに警察による現場検証は終わっていた。規制線も張られておらず、誰でも自由に出入りできる状態だった。路地裏は薄暗く、ゴミが散乱している。空気は澱み、嫌な臭いが鼻をついた。こんな場所で、人が亡くなったのか。

現場を注意深く観察する。壁にはチョークのようなもので描かれた、複雑な模様が残っていた。確かに、彩由美の言った通り、螺旋状の模様だ。中心から外側に向かって、幾重にも渦を巻いている。単なる落書きとは思えない。計算されたような、均整の取れた美しさがある。

俺は、その模様に見覚えがあるような気がした。どこかで、これと同じものを見たことがある。いつ? どこで? 記憶を辿ろうとすると、頭痛が襲ってくる。あの悪夢の時と同じ感覚だ。

「うっ…」

思わず顔を歪めた瞬間、俺の目に奇妙なものが映った。模様の中心部分、わずかに色が違う箇所がある。注意深く観察すると、それは何かの文字のように見えた。いや、文字ではない。記号? それとも、図形? 見たこともない、不思議な形をしていた。

その瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。誰かに見られている。そんな気がした。周囲を見回すが、人影はない。だが、確かに感じる。この場所に、俺以外の「何か」がいる。

「…まさか」

俺は、ある可能性に思い至った。この模様は、単なる落書きではない。何かを呼び寄せるための、あるいは何かを封じ込めるための「印」なのではないか? そして、その「何か」が、被害者の死に関わっているとしたら?

急速に恐怖が押し寄せてくる。この場所に長居するべきではない。そう本能が告げていた。俺は、踵を返して走り出した。まるで、暗闇に潜む何かから逃げるように。

自宅に戻り、書斎の椅子に座り込む。心臓が激しく脈打っていた。恐怖だけではない。興奮も感じていた。これは、ただの事件ではない。俺の知的好奇心を刺激する、壮大な謎解きの始まりなのだ。

机の上に広げた推理小説に目をやる。古びた洋館の密室事件。現実の事件と、どこか重なる部分がある。俺は、この小説を読み解くように、現実の謎に挑むことを決意した。

だが、俺はまだ知らなかった。この事件が、どれほど恐ろしい真実を秘めているのかを。そして、俺自身が、想像を絶する迷宮へと足を踏み入れようとしていることを。

夜はまだ長い。窓の外では、街灯の光が揺れている。螺旋階段の悪夢が、再び俺を襲う予感がした。
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