「鏡像のイデア」 難解な推理小説

１章

鏡像の囁き

葉羽は、異様な紋様が刻まれた巨大な鏡の前に立ち尽くしていた。玄関ホールの静寂は、まるで葉羽の不安を増幅させるかのように、深く重くのしかかっていた。あの鏡に映る自分、どこか冷たく、そして異質な存在感を放つ「もう一人の自分」。その存在が、葉羽の心に深い影を落としていた。

彼は意を決し、鏡像に語りかけるように問いかけた。

「君は、一体誰なんだ？ なぜ俺と同じ姿をしている？」

問いかけは虚無に吸い込まれるかのように、静寂の中に消えていくかに思われた。しかし、次の瞬間、鏡の奥底から、まるで水面に波紋が広がるかのような微かな揺らぎと共に、声が響いた。それは紛れもなく葉羽の声と瓜二つだった。だが、そこに含まれる感情はまるで異なり、冷たく、底知れない深淵を覗き込むような、凍えるような響きがあった。

「私は君であり、君ではない。鏡に映る虚像であり、同時に真実を映す鏡でもある」

鏡像の声は、謎めいた言葉を残した。真実を映す鏡？ 虚像？ 葉羽の頭は混乱で満たされていく。しかし、彼は冷静さを失わず、更なる問いかけを続けた。

「真実？ 何の真実だ？ そして、虚像とは一体何を意味する？」

「君が知り得ない真実。君が心の奥底にしまい込み、見て見ぬふりをしている真実。そして、この鏡の中に隠された、もう一つの世界…それが真実だ」

鏡像の言葉は、まるで禅問答のように曖昧で、葉羽の混乱を深めるばかりだった。もう一つの世界？ 鏡の奥に？ それは一体何を意味するのか？ 葉羽は眉間に皺を寄せ、思考を巡らせた。

「鏡の中に、別の世界があるというのか？」

「その通り。君が見ている世界、君が生きていると信じて疑わないこの世界は、ほんの一面に過ぎない。真実の世界、完全な世界は、この鏡の向こう側に広がっている」

鏡像の声は、確信に満ちていた。しかし、葉羽にはにわかには信じ難い話だった。鏡の向こうに別の世界がある？ そんなことが本当にあり得るのだろうか？

「そんな…信じられるか…」

葉羽は思わず呟いた。鏡像は、まるで葉羽の反応を楽しんでいるかのように、かすかに笑みを浮かべた。

「信じるかどうかは君の自由だ。だが、真実はそこにある。君が認めようと認めまいと、真実は変わらない」

鏡像は意味深な言葉を残し、再び沈黙した。鏡の表面は静まり返り、葉羽の姿だけがそこに映し出されていた。しかし、葉羽の心は激しく揺さぶられていた。鏡像の言葉、鏡の中の別の世界、そして真実。これらの言葉が、葉羽の頭の中を駆け巡り、混乱を助長させていく。

葉羽は鏡から少し距離を置き、深く息を吸い込んだ。冷静にならなければ、何も解決しない。彼は推理小説で培った論理的思考を呼び覚まし、この不可解な状況を分析しようと試みた。

鏡像の言葉が真実だと仮定する。鏡の向こうに別の世界が存在し、鏡像はその世界の住人、あるいは使者のような存在だとしたら？ そして、鏡像融合という現象が本当に存在し、自分がその現象に巻き込まれつつあるとしたら？

葉羽は、鏡像融合に関する情報を得るため、かつて通っていた学習塾の恩師である瓏琅暁彦（ろうろう あきひこ）教授を訪ねることにした。瓏琅教授は物理学の権威でありながら、常人には理解しがたい奇抜な発想と奇行で知られる変わり者だった。しかし、彼の知識と洞察力は本物であり、葉羽は教授なら何か知っているかもしれないと考えたのだ。

大学の研究室を訪ねると、瓏琅教授は相変わらずの風貌で、実験器具に囲まれていた。白髪交じりのボサボサの髪は爆発したようで、分厚いレンズの眼鏡の奥の瞳は、まるで子供のように好奇心に満ち溢れていた。

「おお、神藤くんじゃないか！ 久しぶりだね。今日は一体どうしたんだい？ 君のような若者が、こんな年寄りの研究室を訪ねてくるとは珍しい」

瓏琅教授は葉羽に気づくと、満面の笑みを浮かべて歓迎した。葉羽は教授の eccentric な性格には慣れていたが、それでも少し戸惑いながら、用件を切り出した。

「先生、鏡像融合について何かご存知ですか？」

葉羽の唐突な質問に、瓏琅教授は一瞬驚いた表情を見せた。しかし、すぐにいつもの好奇心に満ちた表情に戻り、身を乗り出した。

「鏡像融合？ それはまた、突拍子もないことを聞くね。一体どこでそんな言葉を聞いたんだい？ 君がそんなオカルトめいたものにハマるとは思わなかったが…」

「実は、自宅に奇妙な鏡が届いて、そこに映る自分自身に違和感を覚えたんです。まるで、別の存在がそこにいるような…そして、その鏡像が、鏡像融合という言葉を使ったんです」

葉羽は鏡について説明し、鏡像から聞いた話を詳細に伝えた。瓏琅教授は真剣な表情で葉羽の話に耳を傾け、時折大きく頷いたり、眼鏡を押し上げたりしながら、彼の話を注意深く聞いていた。

「なるほど、実に興味深い話だ。鏡像融合か…確かに、理論上は不可能ではない。量子力学の世界では、粒子と反粒子が対になって存在し、ある条件下ではそれらが融合して消滅したり、あるいは新たな粒子を生成したりすることが知られている。それをマクロな世界に当てはめれば、鏡像と実像が融合するという現象も、全くの空想とは言えないかもしれない」

瓏琅教授は立ち上がり、研究室の壁一面に設置された巨大な本棚から、分厚い専門書を数冊取り出した。

「鏡像融合、あるいはそれに類似する現象については、古くから様々な仮説が提唱されてきた。例えば、パラレルワールドという概念。我々の世界とは異なる物理法則が支配する世界が、無数に存在するという考え方だ。もし、鏡がそうしたパラレルワールドへの入り口だとしたら、鏡像はパラレルワールドに住むもう一人の自分自身と言えるかもしれない」

教授は別の本を開き、別の仮説を説明し始めた。

「あるいは、高次元空間という考え方もある。我々が認識できる３次元空間以外にも、より高次の次元が存在するという仮説だ。もし、鏡がそうした高次元空間への窓だとしたら、鏡像は高次元空間に存在する自分自身の投影と言えるかもしれない」

教授は熱心に語り続け、様々な仮説を次々と紹介していく。葉羽は教授の説明を聞きながら、鏡像の言葉、鏡の中の別の世界、そして鏡像融合という現象について、改めて考え直した。

「しかし、これらの仮説はあくまでも仮説に過ぎない。実際に鏡像融合を起こすには、莫大なエネルギーと、我々の科学ではまだ解明されていない特殊な技術が必要となるだろう。もし君の言う現象が本当に起きているのだとしたら、それは科学史を塗り替える大発見となるだろうね」

教授は興奮気味に語り、目を輝かせた。葉羽は教授の言葉に、わずかな希望を見出した。もし、鏡像融合が科学的に説明可能な現象なのだとしたら、この不可解な状況も、きっと解決できるはずだ。

「先生、もし鏡像融合が本当に起こっているとしたら、どうすれば元に戻れるのでしょうか？」

葉羽は真剣な表情で尋ねた。教授は少し考え込み、ゆっくりと答えた。

「それは難しい質問だね。鏡像融合のメカニズムが解明されていない以上、確実な方法は言えない。しかし、もし鏡像融合が量子力学的な現象だとしたら、量子もつれという現象を利用できるかもしれない」

「量子もつれ？」

「ああ、量子もつれとは、二つの粒子が互いに影響を及ぼし合う現象のことだ。たとえ二つの粒子がどれだけ離れていても、一方の状態が変化すれば、もう一方の状態も瞬時に変化する。もし、君と鏡像が量子もつれ状態にあるとしたら、君の状態を変化させることで、鏡像の状態も変化させ、鏡像融合を解除できる可能性がある」

教授の説明は葉羽にとって難解だったが、それでも彼は諦めなかった。彼は教授に教えを請いながら、鏡像融合に関する知識を貪欲に吸収していった。そして、鏡像融合を解除し、元の自分自身を取り戻すために、必要な情報と技術を探し求めることを決意した。

葉羽は教授の研究室を後にし、自宅へと戻った。玄関ホールに足を踏み入れると、再びあの巨大な鏡が目に飛び込んできた。鏡の中の鏡像は、相変わらず冷たい笑みを浮かべて、葉羽を見つめていた。

葉羽は深呼吸をし、鏡に近づいた。

「もう一度聞く。君は一体誰なんだ？」

葉羽は鏡像に問いかけた。鏡像は、ゆっくりと口を開いた。

「私は…君の未来だ…」