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2章
歪んだ知覚
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時計は8時を指していた。だが、この密室の中で、その数字がどれほどの意味を持つのか、もはや定かではない。
「実験、とおっしゃいましたが」 俺は白衣の女性・水沢真理に向かって声を発した。彼女の姿は月明かりの中で、まるでホログラムのように揺らめいている。
「その前に、これを見てもらえますか」
彼女が差し出したのは、一枚の写真。霧島教授の遺体が発見された時の状態を記録したものだった。写真に写る遺体は、まるで三次元の存在が二次元に押し潰されたかのように歪んでいる。
「これは...」 横から覗き込んだ彩由美が息を飲む。
「通常の死体写真には見えませんね」 水沢は冷静に続けた。 「なぜなら、教授の体は文字通り『次元が歪んだ』状態で発見されたからです」
部屋の空気が重くなる。月明かりが作る影が、不自然な角度で伸びている。
「量子もつれ」 俺は呟いた。 「教授の最後の研究テーマですよね」
水沢は静かに頷いた。 「でも、それは表向きの研究テーマに過ぎません。教授が本当に研究していたのは...」
その時だった。
ビィーーーーーン
部屋中に低い振動音が響き渡る。同時に、空気中に奇妙な歪みが見え始めた。まるで、空間そのものが波打っているような...
「始まります」 水沢の声が、どこか遠くから聞こえてくるように感じられた。
「な、何が...!?」 彩由美が俺の腕にしがみつく。
その瞬間、部屋の様相が一変した。
壁が呼吸をするように膨らみ、縮む。天井から床まで、すべての空間が液体のように揺らめいている。そして...
「あ...」 彩由美が小さく声を上げた。
俺たちの体が、徐々に透明になっていく。いや、正確には透明ではない。むしろ、存在そのものが曖昧になっていくような感覚。
「これが、教授が最後に経験した現象です」 水沢の声が、まるで頭の中で直接響くように聞こえる。 「量子重ね合わせ状態における、マクロな物質の存在形態の変容」
「待って...ください」 俺は必死に意識を保とうとする。 「これは、実験というより」
「そう、罠です」
水沢の姿が完全に消失する。代わりに、部屋の中央に巨大な渦が形成され始めた。漆黒の、そして底なしの渦。
「葉羽くん!」 彩由美の声が遠のいていく。
「彩由美!」 俺は彼女の手を必死で掴もうとするが、指がすり抜けてしまう。
そして、異変は更に激しさを増していく。
部屋の温度が急激に低下。酸素濃度が変化しているのか、呼吸が苦しくなる。同時に、視界が歪み始めた。
天井?床?壁?もはやそれらの区別さえつかない。空間の概念そのものが崩壊していく。
その中で、俺は必死に考えを巡らせていた。
これは単なる幻覚なのか?それとも本当に量子レベルでの現象なのか?
そして、なぜ教授はこんな実験を?
ふと、目に入ったのは、部屋の隅に置かれた小さな装置。
「あれは...!」
思考が閃いた瞬間、意識が急速に薄れていく。
最後に見たのは、彩由美の姿が渦の中に消えていく光景。そして、水沢の声が頭の中で響く。
『観測者と被観測者の境界が消失する時、真実は明らかになる』
意識が完全に途切れる直前、俺は確信めいたものを掴んでいた。
この事件の核心に関わる、決定的な手がかりを。意識が戻った時、最初に感じたのは激しい吐き気だった。
「うっ...」
体を起こそうとして気づく。床に横たわっているはずの自分の体が、90度回転した壁に横たわっていた。いや、壁が床になっているのか?それとも...
「彩由美!」
慌てて周囲を見回す。彼女は部屋の反対側で、天井...いや、もはやどれが天井なのか判別できない場所に横たわっていた。
「彩...由美...」
声を掛けようとした瞬間、激しい頭痛が襲う。同時に、普通では有り得ない光景が目に飛び込んできた。
部屋全体が、まるでメビウスの輪のように捻じれ、連続している。上下左右の概念が完全に崩壊していた。そして...
「これは...」
俺の体が、複数の場所に同時に存在しているように見えた。量子の重ね合わせ状態。教科書でしか知らなかった現象が、目の前で起きている。
その時、彩由美が目を覚ました。
「葉羽くん...私たち、どうなってるの?」 彼女の声も、複数の方向から同時に聞こえてくる。
そして、部屋の中央...とされる空間に、再び水沢真理の姿が現れた。
「素晴らしい」 彼女の声が、空間全体から響く。 「あなたたちは初めての生存者です」
「何が目的なんです?」 俺は必死に論理的な思考を保とうとする。 「なぜ、こんな実験を?」
「目的?」 水沢の表情が歪む。 「永遠の生です」
その言葉と共に、部屋の様子が更に激変する。壁という壁から、霧島教授の研究データが浮かび上がり始めた。
『量子もつれによる意識の永続的保存』 『観測による実在の固定化』 『多世界解釈の実証実験』
「教授は、人間の意識を量子状態で保存しようとしていた...?」 俺は震える声で言った。
「そう」 水沢が答える。 「でも、実験は失敗。教授の意識は、量子の檻の中で永遠に宙吊りになった」
その時、俺の目に違和感が映った。部屋の隅に置かれた装置。さっき気付いたものだ。
「あれは...」
突然、すべてが繋がった。
装置の構造、部屋の歪み、水沢の存在...
「分かったぞ...」 俺は震える声で言った。 「この実験の本当の目的が」
しかし、その言葉を最後まで言う前に、再び強烈な振動が部屋を包み込んだ。
「もう時間がありません」 水沢の声が急迫する。 「次の段階に移行します」
「待って!」 彩由美が叫ぶ。 「私たちを...こんな場所に置いていかないで!」
だが、水沢の姿は既に消失していた。代わりに、部屋の中に無数の式が浮かび上がり始める。
量子力学の方程式。 化学反応式。 そして...ある謎めいた数式。
「これは...まさか」
俺は、自分が発見した真実を告げようとした。しかし、その瞬間、意識が再び闇に飲み込まれていく。
最後に見たのは、彩由美の手が俺に伸びてくる光景。
そして、かすかに聞こえた水沢の声。
『観測の連鎖は、まだ始まったばかり...』
「実験、とおっしゃいましたが」 俺は白衣の女性・水沢真理に向かって声を発した。彼女の姿は月明かりの中で、まるでホログラムのように揺らめいている。
「その前に、これを見てもらえますか」
彼女が差し出したのは、一枚の写真。霧島教授の遺体が発見された時の状態を記録したものだった。写真に写る遺体は、まるで三次元の存在が二次元に押し潰されたかのように歪んでいる。
「これは...」 横から覗き込んだ彩由美が息を飲む。
「通常の死体写真には見えませんね」 水沢は冷静に続けた。 「なぜなら、教授の体は文字通り『次元が歪んだ』状態で発見されたからです」
部屋の空気が重くなる。月明かりが作る影が、不自然な角度で伸びている。
「量子もつれ」 俺は呟いた。 「教授の最後の研究テーマですよね」
水沢は静かに頷いた。 「でも、それは表向きの研究テーマに過ぎません。教授が本当に研究していたのは...」
その時だった。
ビィーーーーーン
部屋中に低い振動音が響き渡る。同時に、空気中に奇妙な歪みが見え始めた。まるで、空間そのものが波打っているような...
「始まります」 水沢の声が、どこか遠くから聞こえてくるように感じられた。
「な、何が...!?」 彩由美が俺の腕にしがみつく。
その瞬間、部屋の様相が一変した。
壁が呼吸をするように膨らみ、縮む。天井から床まで、すべての空間が液体のように揺らめいている。そして...
「あ...」 彩由美が小さく声を上げた。
俺たちの体が、徐々に透明になっていく。いや、正確には透明ではない。むしろ、存在そのものが曖昧になっていくような感覚。
「これが、教授が最後に経験した現象です」 水沢の声が、まるで頭の中で直接響くように聞こえる。 「量子重ね合わせ状態における、マクロな物質の存在形態の変容」
「待って...ください」 俺は必死に意識を保とうとする。 「これは、実験というより」
「そう、罠です」
水沢の姿が完全に消失する。代わりに、部屋の中央に巨大な渦が形成され始めた。漆黒の、そして底なしの渦。
「葉羽くん!」 彩由美の声が遠のいていく。
「彩由美!」 俺は彼女の手を必死で掴もうとするが、指がすり抜けてしまう。
そして、異変は更に激しさを増していく。
部屋の温度が急激に低下。酸素濃度が変化しているのか、呼吸が苦しくなる。同時に、視界が歪み始めた。
天井?床?壁?もはやそれらの区別さえつかない。空間の概念そのものが崩壊していく。
その中で、俺は必死に考えを巡らせていた。
これは単なる幻覚なのか?それとも本当に量子レベルでの現象なのか?
そして、なぜ教授はこんな実験を?
ふと、目に入ったのは、部屋の隅に置かれた小さな装置。
「あれは...!」
思考が閃いた瞬間、意識が急速に薄れていく。
最後に見たのは、彩由美の姿が渦の中に消えていく光景。そして、水沢の声が頭の中で響く。
『観測者と被観測者の境界が消失する時、真実は明らかになる』
意識が完全に途切れる直前、俺は確信めいたものを掴んでいた。
この事件の核心に関わる、決定的な手がかりを。意識が戻った時、最初に感じたのは激しい吐き気だった。
「うっ...」
体を起こそうとして気づく。床に横たわっているはずの自分の体が、90度回転した壁に横たわっていた。いや、壁が床になっているのか?それとも...
「彩由美!」
慌てて周囲を見回す。彼女は部屋の反対側で、天井...いや、もはやどれが天井なのか判別できない場所に横たわっていた。
「彩...由美...」
声を掛けようとした瞬間、激しい頭痛が襲う。同時に、普通では有り得ない光景が目に飛び込んできた。
部屋全体が、まるでメビウスの輪のように捻じれ、連続している。上下左右の概念が完全に崩壊していた。そして...
「これは...」
俺の体が、複数の場所に同時に存在しているように見えた。量子の重ね合わせ状態。教科書でしか知らなかった現象が、目の前で起きている。
その時、彩由美が目を覚ました。
「葉羽くん...私たち、どうなってるの?」 彼女の声も、複数の方向から同時に聞こえてくる。
そして、部屋の中央...とされる空間に、再び水沢真理の姿が現れた。
「素晴らしい」 彼女の声が、空間全体から響く。 「あなたたちは初めての生存者です」
「何が目的なんです?」 俺は必死に論理的な思考を保とうとする。 「なぜ、こんな実験を?」
「目的?」 水沢の表情が歪む。 「永遠の生です」
その言葉と共に、部屋の様子が更に激変する。壁という壁から、霧島教授の研究データが浮かび上がり始めた。
『量子もつれによる意識の永続的保存』 『観測による実在の固定化』 『多世界解釈の実証実験』
「教授は、人間の意識を量子状態で保存しようとしていた...?」 俺は震える声で言った。
「そう」 水沢が答える。 「でも、実験は失敗。教授の意識は、量子の檻の中で永遠に宙吊りになった」
その時、俺の目に違和感が映った。部屋の隅に置かれた装置。さっき気付いたものだ。
「あれは...」
突然、すべてが繋がった。
装置の構造、部屋の歪み、水沢の存在...
「分かったぞ...」 俺は震える声で言った。 「この実験の本当の目的が」
しかし、その言葉を最後まで言う前に、再び強烈な振動が部屋を包み込んだ。
「もう時間がありません」 水沢の声が急迫する。 「次の段階に移行します」
「待って!」 彩由美が叫ぶ。 「私たちを...こんな場所に置いていかないで!」
だが、水沢の姿は既に消失していた。代わりに、部屋の中に無数の式が浮かび上がり始める。
量子力学の方程式。 化学反応式。 そして...ある謎めいた数式。
「これは...まさか」
俺は、自分が発見した真実を告げようとした。しかし、その瞬間、意識が再び闇に飲み込まれていく。
最後に見たのは、彩由美の手が俺に伸びてくる光景。
そして、かすかに聞こえた水沢の声。
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