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足るを知る者は富む
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年が改まり、明治十九年を迎えていた。修二郎は、正月が明けると、慌ただしく松山を後にした。本当はもう数日はこちらに居る予定だったのが、東京からの報せで、すぐに行かねばならなくなったのだ。
「おこう宛にも手紙を書くから、しっかり学んで、返事を認めなさい」
去り際にそう言って、笑顔でこうの頭を撫でてくれた。それだけで、泣きそうになったが、案の定、先に一郎が泣き出してしまった為に、こうは泣きそびれてしまった。今度会う時は、先生の所で学んで、きっと少しは何かが変わっている筈だと、自分に言い聞かせているのだった。
こうの慌ただしい日常が続いていた。普段の家事や、一郎の世話、それに畑をする作兵衛の手伝いもしなければいけない。そして、週に三回は、先生の所に行って、食事と掃除、洗濯をして、それから読み書きを教えて貰うのだ。
それから、その日覚えた文字を寝る前に、もう一度書いて、身体に叩きこんで忘れないようにする。寝る間も惜しんで働いて、学んでいたが、これがちっとも辛くはなかった。逆に楽しくて堪らなかった。自分のような田舎の無学な娘が、学問を学べることが、新しい事を次々と覚える楽しさを知ってしまったのだ。今なら東京まで学びに行った修二郎の気持ちも、少しは分かるかもしれなかった。
「おこうは、またあの先生様の所かね?大丈夫なのかい。嫁入り前の娘が、男一人の家へ入り浸って」
そんなこうの様子を苦々しく見ていたやえが、啓太郎を捕まえては、ぶつくさと言っている。しかし、当のこうには言わない。いや、言えないのだ。こうは、やえに小言を言われる人生を過ごしてきた。だから、どういう時に、やえが小言を言うのかを熟知しており、先に言われそうな事を片付けるようにしていたのだ。
それは、いつしかこうが身に付けた生きる為の術であった。この所、ぼろを出さない孫に対して、しかし、それでも何か言ってやりたい、小言を言う事が、長生きの秘訣だとでも思っていそうなやえのはけ口が、とうとう啓太郎に向かったのであった。
「母さん、先生は私の命の恩人ですよ」
やえの小言に啓太郎がそう答えると、何故かやえは黙ってしまう。しかし、今まで言えていた小言が言えていない反動から、やえは、この家では決してしゃべってはいけない事の一つを破ってしまう。
「だいたい、お前があの女にうつつを抜かして、要らぬ子を引き取ったからこうなったんじゃないか」
やえの言葉に、啓太郎は驚いた顔をした。その驚いた息子の顔を見て、やえは自分の口を手で覆うが、それで言った言葉が戻る訳ではなかった。親子は辺りを見渡し、そこに誰も居ない事を確認すると、急いで奥の間へ入るのだった。しかし、そんな二人の只ならぬ様子を、先生の所から戻ったこうは見ていたのだった。
「どういう事?あれは一体誰の事を言っていたの?わたし?」
わたしだとしたら、それは一体、どういう…
「おこう、どうした?裸足でうろうろして」
急に肩を掴まれた。驚いて振り返ると、同じ村に住む同じ年の惣吉であった。声を掛けられた事で我に返ると、自分はどうやら、裸足でうろついていたみたいだ。こうは、惣吉にさっき有った事を話してしまった。誰かに話さずにはいられなかった。すると、その話を聞いた惣吉は、驚かずに、何だかばつの悪い顔をして黙っている。
「惣吉は何か知っているの?」
「おこうの本当の父親は、お前の死んだ母ちゃんの前の夫だって」
そう俺の母ちゃんが言ってた。惣吉が話した事の半分もこうの耳には届いていなかった。だけども、妙に感覚だけは冴えていて、惣吉にお礼を言って、その場を後にする。人間本当に苦しい事があれば、頭は妙に冴えてくるのだなと、ぼんやりしているのか、はっきりしているのかも分からない頭で考えながら歩いた。
後ろから、惣吉の声が何か聞こえていたみたいだが、こうの耳には、何も届いてはいなかった。どこか宛があった訳ではなかったが、とにかく歩いた。歩かずにはいられなかった。
暫く村中を裸足のままで歩き続けていると、いつの間にか、先生の家の前に立っていた。自分でも可笑しくなってくる。昼間ここに居た筈なのに、また戻ってくるなんて。こうはそのまま何も言わずに中へ入ると、足も洗わずに畳の上に座り込む。
そして、そのまま大の字へ寝転がると、考える事を放棄して、天井を眺めている内に眠ってしまうのだった。
「おこう、おこう、起きなさい。風邪をひいてしまうぞ」
耳元で先生の声が聞こえる。先生もう今日の手習いは済みました。ほら、こんなにいっぱい漢字を書きましたから。寝ぼけるこうを今度は強く揺さぶると、ようやく目を覚ました。
「先生…」
起き上がり、一瞬ここがどこか分からなくなったが、先生の顔を見て、全てを思い出した。先生の顔を見ると、なんだかほっとして笑みが零れるが、それが泣き顔に変わるまで、数秒しかかからなかった。
こうは、先生の膝の上につっぷして泣いた。泣きながら、今まであった出来事を一つ一つ話すのだった。自分はあの家の子ではなかった。だから、父は私に興味が無いし、祖母は辛く当たる。そして、村の人もそれを知っている。知っていて誰も話してくれない。私だけが何も知らないまま暮らしてきたのだ。そういう事を泣きながら、途切れ途切れ話すのだった。
「知りたいですか?本当に全て知りたいのか?」
先生は優しく、こうの背中を擦りながら、語り始めたのだった。
こうの実の父親は、こうがまだ母のお腹にいる時に、コレラに罹って亡くなってしまった。子を産む前に未亡人となった、こうの生母の事を以前より慕っていた啓太郎が、何事にも無関心で、実を入れて打ち込んだ事などないあの男が、彼の生涯で、唯一度の熱心さで母を口説き、産まれてくる子を実の子として育てるという事を条件に、自分の両親も説得し、母方の家族を説き伏せ、結ばれたのだった。
「それで産まれてきたのがわたし?」
そうだと先生は言った。だが不幸にもこうの母は、こうを産んですぐに亡くなってしまった。こうは、自分が産まれた時には、実の両親がいなかった事になる。
「啓太郎を恨む事はない。あ奴は、お前の母との約束を守ったのだから」
実の子として育てる。それが夫婦となった男女の約束であった。それは、母が亡くなったとしても反故にされる事はなく、今までこうを守ってきたのだ。だが父が愛しているのは、亡き母であって、産まれてきた私ではない。私は実の子ではないから。それに、
「それに、どうせ私は親孝行の孝ですから」
親孝行という名の仕事は、私があの家にいる理由で、家族という名の無関心が、私の全てだ。祖母のあからさまな態度、私ではなく、弟にだけ時折見せる父の優しい眼差し、誰にでも調子よく合わせられる義母、何も知らずに、誰からも愛されて育つ血の繋がらぬ弟、それら全ての無関心の結晶が私なのだ。
「それは違う。それは違いますおこうよ。何故なら、お前の名は私が名付けたのだから。お前の名前は幸です。幸せの「お幸」です」
こうは、先生の言葉に顔を上げる。だが涙で先生がよく見えない。先生も泣いているように見える。気のせいだろうか?私が余りにも涙を流し過ぎて、目の玉がおかしくなったのだろうか。
「見なさい、これがお前の名だ」
先生はそう言って、自ら「幸」の字を書いて見せる。そして、今度はこうに筆を取らせると、何度も何度も幸の字を書かせるのだった。こうは自分の名を泣きながら書き、そして笑った。先生も笑っていた。泣きそして笑いながら、この字は、二度と忘れる事はないと確信しているのだった。
こうが戻ったのは、もう暗くなってからの事だった。食事の支度をほったらかして、家を飛び出したこうを叱りつける為に、やえが玄関先で仁王立ちしている。帰って来たこうの顔を見るなり、罵声を浴びせるつもりが、その後ろにいる先生の顔を見て何も言えなくなる。
「こうに用事を頼んで、すっかり遅くなってしまってね。おやえさん、良い孫を持って羨ましいね」
「ええ」
戸惑いながら、相槌するのがやっとのやえを無視するように、尻込みするこうの背中を押す。
「先生、どうしたのですか?」
食事を終えて、茶で一服していた様子の啓太郎が驚きの声を上げる。
「食事中だったか?すまないね。遅くなったので、おこうを送って来たのだよ」
「それは、わざわざすいません」
こうは、先生と父との会話を横で見ていた。いつも通りの家の様子だ。自分が居ようと居まいと、何一つ変わらない。ただ一つ違うのは、自分がその輪に居ない事だけだ。父はきっと私の事を探しもしていない。心配もしていないだろう。ひょっとすると、自分が居なかった事に、気付いていなかったかもしれない。
「おこうは物覚えが良い。今日は自分の名を漢字で書きましたよ」
先生があえてそう言ったのだと、こうは気づいていた。先生がそう言った時、明らかに父と祖母の目は、泳いでいたから。
「おこうは、良い家族に囲まれて、幸せ者だ」
「はい、本当に気立ての良い娘で」
先生は何度か幸せ者だと繰り返しているのだった。やえが取り繕うように、先生にお世辞ばかり述べていた。
先生が帰った後、暫くの間、その場に沈黙が流れていた。誰もしゃべらずただただ俯いている。やえはいつもならしない筈の洗い物を始めるし、たえは一郎を寝かせる為に、奥の部屋へ、そそくさと入ってしまった。啓太郎は、二杯目の茶を呑んでいる。こうは、まだ入り口近くで立ったままだった。
「私はここに居ていいのですか?」
こうが帰ってから、最初に口にした言葉がそれであった。
「何を言っているんだ。当たり前だろう」
「そうですよ、そうですよ」
啓太郎もやえもそう言ったが、明らかに狼狽した様子で、こうを避けるように、その場から離れるのだった。
変わらない日常が続いていた。その日常の中にある少しだけ変わった事と言えば、やえに小言を言われる回数が減ったのと、以前にも増して、啓太郎が家を留守にしがちになった事だ。
あれから、二人に何か言われる事も、こうから言う事も無い。何だかもやもやした気持ちが、心の底で沈殿し始めていたが、はっきりと言葉にすれば、そこから壊れていくしかないのかもしれない。だから、きっとこれでいいのだと、自分に言い聞かせながら、毎日を暮している。
「おい、変な奴がうろついているぞ」
そんな当たり前の日常を過ごしているこうに、惣吉が息を切らせて駆けこんできたのは、雪がちらつく、ある寒い日の午後であった。
「これから、先生の所に行くのよ」
忙しい合間を縫って、出かける準備をしているこうには、惣吉のいつもの馬鹿話に付き合ってあげる暇など無い。つい先日なんかは、日尾八幡神社の境内に、幽霊が出たと大騒ぎして、村の子供達を集めては、夜中ずっと見張っていたのだが、その幽霊の正体は、誰かが願掛けをした誓文の紙が、強風で飛ばされたのを見間違えただけだった。
「違う、今度はそうじゃない」
「何よ?次は河童でも出た?」
そんな事より、惣吉も先生の所で、ちょっとは読み書きを学んだらいいのよと取り着く暇もない。
「だから、その先生の所を怪しい男が見張っているんだよ」
惣吉の言葉に、こうは、何故それをもっと早く言わないのよと、慌てて外に飛び出す。そんなこうの後ろ姿に、弁解するかのように、惣吉が何かをわめいていたが、こうの耳には、もうそれらの何もかもが入ってこない。
惣吉のように息を切らせて、先生宅へ着いたが、中に先生は居ない。何やら肩すかしを食ったようだが、気を取り直して、家内の掃除を始める。
「御免下さい、御免下さい」
こうが夢中になって、家中にはたきをかけていると、不意に声をかけられ手を止める。どうやら、何度か声をかけられていたみたいで、振り向くと、入口付近に一人の男が立っていた。その男は、着物に白色のパナマ帽子を被り、こげ茶色のブーツを履いた、この辺りを歩けば、一見で異様に思える出立ちをしていた。
惣吉が言っていた変な奴とは、この男の事だろうと、こうは直感した。
「先生は御在宅ですか?ここだと伺ったのですが」
こうに対して、慇懃に帽子を取って挨拶する。先生の御息女、お孫さんかな?
「私は渡部という者です。明治五年に起きた事について、是非先生にお話を」
男に差し出された名刺を見ると、海南新聞社と書かれてあった。明治五年と言えば、まだこうが産まれる数年前の事だ。そんな昔の事を、どうして今頃先生に聞きたいのだろうか。こうが訝しがっていると、先生が帰って来た。
「何だまた貴方か。何度来ようと、昔の事は忘れたと言った筈です」
先生は渡部の顔を見るなり、取り付く暇もない様子だ。
「そんな事をおっしゃらずに。一度死刑になって甦った男の後日談、反響を呼ぶと思いますがね。どうですか?お嬢さんも、おや、御存じなかった?」
こうの反応を確信犯的に見てとった渡部は、一気に畳み掛ける。先生、今のお気持ちは?生きていてどう思いますか?国家に対して思う所は?
「何も語る事はない。帰ってください」
渡部の言う事を無視して、先生は玄関の戸を勢いよく閉める。そして、立ち尽くしたままのこうに何か言うとするのだが、何を言っていいのか分からない様子で、結局そのまま何も言わずに奥の部屋へと入ってしまう。その時、閉めた襖の音が、こうの脳裏にいつまでもこびりついて離れようとはしなかった。まるで、先生がそのまま遠くへ行ってしまうかのうような、そんな破滅の音に聞こえたからだ。
「おこう宛にも手紙を書くから、しっかり学んで、返事を認めなさい」
去り際にそう言って、笑顔でこうの頭を撫でてくれた。それだけで、泣きそうになったが、案の定、先に一郎が泣き出してしまった為に、こうは泣きそびれてしまった。今度会う時は、先生の所で学んで、きっと少しは何かが変わっている筈だと、自分に言い聞かせているのだった。
こうの慌ただしい日常が続いていた。普段の家事や、一郎の世話、それに畑をする作兵衛の手伝いもしなければいけない。そして、週に三回は、先生の所に行って、食事と掃除、洗濯をして、それから読み書きを教えて貰うのだ。
それから、その日覚えた文字を寝る前に、もう一度書いて、身体に叩きこんで忘れないようにする。寝る間も惜しんで働いて、学んでいたが、これがちっとも辛くはなかった。逆に楽しくて堪らなかった。自分のような田舎の無学な娘が、学問を学べることが、新しい事を次々と覚える楽しさを知ってしまったのだ。今なら東京まで学びに行った修二郎の気持ちも、少しは分かるかもしれなかった。
「おこうは、またあの先生様の所かね?大丈夫なのかい。嫁入り前の娘が、男一人の家へ入り浸って」
そんなこうの様子を苦々しく見ていたやえが、啓太郎を捕まえては、ぶつくさと言っている。しかし、当のこうには言わない。いや、言えないのだ。こうは、やえに小言を言われる人生を過ごしてきた。だから、どういう時に、やえが小言を言うのかを熟知しており、先に言われそうな事を片付けるようにしていたのだ。
それは、いつしかこうが身に付けた生きる為の術であった。この所、ぼろを出さない孫に対して、しかし、それでも何か言ってやりたい、小言を言う事が、長生きの秘訣だとでも思っていそうなやえのはけ口が、とうとう啓太郎に向かったのであった。
「母さん、先生は私の命の恩人ですよ」
やえの小言に啓太郎がそう答えると、何故かやえは黙ってしまう。しかし、今まで言えていた小言が言えていない反動から、やえは、この家では決してしゃべってはいけない事の一つを破ってしまう。
「だいたい、お前があの女にうつつを抜かして、要らぬ子を引き取ったからこうなったんじゃないか」
やえの言葉に、啓太郎は驚いた顔をした。その驚いた息子の顔を見て、やえは自分の口を手で覆うが、それで言った言葉が戻る訳ではなかった。親子は辺りを見渡し、そこに誰も居ない事を確認すると、急いで奥の間へ入るのだった。しかし、そんな二人の只ならぬ様子を、先生の所から戻ったこうは見ていたのだった。
「どういう事?あれは一体誰の事を言っていたの?わたし?」
わたしだとしたら、それは一体、どういう…
「おこう、どうした?裸足でうろうろして」
急に肩を掴まれた。驚いて振り返ると、同じ村に住む同じ年の惣吉であった。声を掛けられた事で我に返ると、自分はどうやら、裸足でうろついていたみたいだ。こうは、惣吉にさっき有った事を話してしまった。誰かに話さずにはいられなかった。すると、その話を聞いた惣吉は、驚かずに、何だかばつの悪い顔をして黙っている。
「惣吉は何か知っているの?」
「おこうの本当の父親は、お前の死んだ母ちゃんの前の夫だって」
そう俺の母ちゃんが言ってた。惣吉が話した事の半分もこうの耳には届いていなかった。だけども、妙に感覚だけは冴えていて、惣吉にお礼を言って、その場を後にする。人間本当に苦しい事があれば、頭は妙に冴えてくるのだなと、ぼんやりしているのか、はっきりしているのかも分からない頭で考えながら歩いた。
後ろから、惣吉の声が何か聞こえていたみたいだが、こうの耳には、何も届いてはいなかった。どこか宛があった訳ではなかったが、とにかく歩いた。歩かずにはいられなかった。
暫く村中を裸足のままで歩き続けていると、いつの間にか、先生の家の前に立っていた。自分でも可笑しくなってくる。昼間ここに居た筈なのに、また戻ってくるなんて。こうはそのまま何も言わずに中へ入ると、足も洗わずに畳の上に座り込む。
そして、そのまま大の字へ寝転がると、考える事を放棄して、天井を眺めている内に眠ってしまうのだった。
「おこう、おこう、起きなさい。風邪をひいてしまうぞ」
耳元で先生の声が聞こえる。先生もう今日の手習いは済みました。ほら、こんなにいっぱい漢字を書きましたから。寝ぼけるこうを今度は強く揺さぶると、ようやく目を覚ました。
「先生…」
起き上がり、一瞬ここがどこか分からなくなったが、先生の顔を見て、全てを思い出した。先生の顔を見ると、なんだかほっとして笑みが零れるが、それが泣き顔に変わるまで、数秒しかかからなかった。
こうは、先生の膝の上につっぷして泣いた。泣きながら、今まであった出来事を一つ一つ話すのだった。自分はあの家の子ではなかった。だから、父は私に興味が無いし、祖母は辛く当たる。そして、村の人もそれを知っている。知っていて誰も話してくれない。私だけが何も知らないまま暮らしてきたのだ。そういう事を泣きながら、途切れ途切れ話すのだった。
「知りたいですか?本当に全て知りたいのか?」
先生は優しく、こうの背中を擦りながら、語り始めたのだった。
こうの実の父親は、こうがまだ母のお腹にいる時に、コレラに罹って亡くなってしまった。子を産む前に未亡人となった、こうの生母の事を以前より慕っていた啓太郎が、何事にも無関心で、実を入れて打ち込んだ事などないあの男が、彼の生涯で、唯一度の熱心さで母を口説き、産まれてくる子を実の子として育てるという事を条件に、自分の両親も説得し、母方の家族を説き伏せ、結ばれたのだった。
「それで産まれてきたのがわたし?」
そうだと先生は言った。だが不幸にもこうの母は、こうを産んですぐに亡くなってしまった。こうは、自分が産まれた時には、実の両親がいなかった事になる。
「啓太郎を恨む事はない。あ奴は、お前の母との約束を守ったのだから」
実の子として育てる。それが夫婦となった男女の約束であった。それは、母が亡くなったとしても反故にされる事はなく、今までこうを守ってきたのだ。だが父が愛しているのは、亡き母であって、産まれてきた私ではない。私は実の子ではないから。それに、
「それに、どうせ私は親孝行の孝ですから」
親孝行という名の仕事は、私があの家にいる理由で、家族という名の無関心が、私の全てだ。祖母のあからさまな態度、私ではなく、弟にだけ時折見せる父の優しい眼差し、誰にでも調子よく合わせられる義母、何も知らずに、誰からも愛されて育つ血の繋がらぬ弟、それら全ての無関心の結晶が私なのだ。
「それは違う。それは違いますおこうよ。何故なら、お前の名は私が名付けたのだから。お前の名前は幸です。幸せの「お幸」です」
こうは、先生の言葉に顔を上げる。だが涙で先生がよく見えない。先生も泣いているように見える。気のせいだろうか?私が余りにも涙を流し過ぎて、目の玉がおかしくなったのだろうか。
「見なさい、これがお前の名だ」
先生はそう言って、自ら「幸」の字を書いて見せる。そして、今度はこうに筆を取らせると、何度も何度も幸の字を書かせるのだった。こうは自分の名を泣きながら書き、そして笑った。先生も笑っていた。泣きそして笑いながら、この字は、二度と忘れる事はないと確信しているのだった。
こうが戻ったのは、もう暗くなってからの事だった。食事の支度をほったらかして、家を飛び出したこうを叱りつける為に、やえが玄関先で仁王立ちしている。帰って来たこうの顔を見るなり、罵声を浴びせるつもりが、その後ろにいる先生の顔を見て何も言えなくなる。
「こうに用事を頼んで、すっかり遅くなってしまってね。おやえさん、良い孫を持って羨ましいね」
「ええ」
戸惑いながら、相槌するのがやっとのやえを無視するように、尻込みするこうの背中を押す。
「先生、どうしたのですか?」
食事を終えて、茶で一服していた様子の啓太郎が驚きの声を上げる。
「食事中だったか?すまないね。遅くなったので、おこうを送って来たのだよ」
「それは、わざわざすいません」
こうは、先生と父との会話を横で見ていた。いつも通りの家の様子だ。自分が居ようと居まいと、何一つ変わらない。ただ一つ違うのは、自分がその輪に居ない事だけだ。父はきっと私の事を探しもしていない。心配もしていないだろう。ひょっとすると、自分が居なかった事に、気付いていなかったかもしれない。
「おこうは物覚えが良い。今日は自分の名を漢字で書きましたよ」
先生があえてそう言ったのだと、こうは気づいていた。先生がそう言った時、明らかに父と祖母の目は、泳いでいたから。
「おこうは、良い家族に囲まれて、幸せ者だ」
「はい、本当に気立ての良い娘で」
先生は何度か幸せ者だと繰り返しているのだった。やえが取り繕うように、先生にお世辞ばかり述べていた。
先生が帰った後、暫くの間、その場に沈黙が流れていた。誰もしゃべらずただただ俯いている。やえはいつもならしない筈の洗い物を始めるし、たえは一郎を寝かせる為に、奥の部屋へ、そそくさと入ってしまった。啓太郎は、二杯目の茶を呑んでいる。こうは、まだ入り口近くで立ったままだった。
「私はここに居ていいのですか?」
こうが帰ってから、最初に口にした言葉がそれであった。
「何を言っているんだ。当たり前だろう」
「そうですよ、そうですよ」
啓太郎もやえもそう言ったが、明らかに狼狽した様子で、こうを避けるように、その場から離れるのだった。
変わらない日常が続いていた。その日常の中にある少しだけ変わった事と言えば、やえに小言を言われる回数が減ったのと、以前にも増して、啓太郎が家を留守にしがちになった事だ。
あれから、二人に何か言われる事も、こうから言う事も無い。何だかもやもやした気持ちが、心の底で沈殿し始めていたが、はっきりと言葉にすれば、そこから壊れていくしかないのかもしれない。だから、きっとこれでいいのだと、自分に言い聞かせながら、毎日を暮している。
「おい、変な奴がうろついているぞ」
そんな当たり前の日常を過ごしているこうに、惣吉が息を切らせて駆けこんできたのは、雪がちらつく、ある寒い日の午後であった。
「これから、先生の所に行くのよ」
忙しい合間を縫って、出かける準備をしているこうには、惣吉のいつもの馬鹿話に付き合ってあげる暇など無い。つい先日なんかは、日尾八幡神社の境内に、幽霊が出たと大騒ぎして、村の子供達を集めては、夜中ずっと見張っていたのだが、その幽霊の正体は、誰かが願掛けをした誓文の紙が、強風で飛ばされたのを見間違えただけだった。
「違う、今度はそうじゃない」
「何よ?次は河童でも出た?」
そんな事より、惣吉も先生の所で、ちょっとは読み書きを学んだらいいのよと取り着く暇もない。
「だから、その先生の所を怪しい男が見張っているんだよ」
惣吉の言葉に、こうは、何故それをもっと早く言わないのよと、慌てて外に飛び出す。そんなこうの後ろ姿に、弁解するかのように、惣吉が何かをわめいていたが、こうの耳には、もうそれらの何もかもが入ってこない。
惣吉のように息を切らせて、先生宅へ着いたが、中に先生は居ない。何やら肩すかしを食ったようだが、気を取り直して、家内の掃除を始める。
「御免下さい、御免下さい」
こうが夢中になって、家中にはたきをかけていると、不意に声をかけられ手を止める。どうやら、何度か声をかけられていたみたいで、振り向くと、入口付近に一人の男が立っていた。その男は、着物に白色のパナマ帽子を被り、こげ茶色のブーツを履いた、この辺りを歩けば、一見で異様に思える出立ちをしていた。
惣吉が言っていた変な奴とは、この男の事だろうと、こうは直感した。
「先生は御在宅ですか?ここだと伺ったのですが」
こうに対して、慇懃に帽子を取って挨拶する。先生の御息女、お孫さんかな?
「私は渡部という者です。明治五年に起きた事について、是非先生にお話を」
男に差し出された名刺を見ると、海南新聞社と書かれてあった。明治五年と言えば、まだこうが産まれる数年前の事だ。そんな昔の事を、どうして今頃先生に聞きたいのだろうか。こうが訝しがっていると、先生が帰って来た。
「何だまた貴方か。何度来ようと、昔の事は忘れたと言った筈です」
先生は渡部の顔を見るなり、取り付く暇もない様子だ。
「そんな事をおっしゃらずに。一度死刑になって甦った男の後日談、反響を呼ぶと思いますがね。どうですか?お嬢さんも、おや、御存じなかった?」
こうの反応を確信犯的に見てとった渡部は、一気に畳み掛ける。先生、今のお気持ちは?生きていてどう思いますか?国家に対して思う所は?
「何も語る事はない。帰ってください」
渡部の言う事を無視して、先生は玄関の戸を勢いよく閉める。そして、立ち尽くしたままのこうに何か言うとするのだが、何を言っていいのか分からない様子で、結局そのまま何も言わずに奥の部屋へと入ってしまう。その時、閉めた襖の音が、こうの脳裏にいつまでもこびりついて離れようとはしなかった。まるで、先生がそのまま遠くへ行ってしまうかのうような、そんな破滅の音に聞こえたからだ。
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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