天下静謐~光秀奔る~

たい陸

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第六幕 天下人の陰り

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 畿内周辺でも、戦の影が見え始めていた。この時期、三好長慶は、飯盛山城へとその拠点を移して大改修を施している。これにより、三好氏の畿内での影響力が、より一層と増していた。

 そして、大和国平定を命じられた松永久秀は、大和の豪族である筒井順慶を追って、大和国をその手中に治めていた。それから、多聞山城を縄張りし、築城している。

 この多聞山城は、日本最初の天守閣を備えた城として伝わるが、近年では、伊丹城にこれより早く、天守があったことが分かってきている。城内には、多聞天を祀った事から多聞山城と命名された。多聞天とは、毘沙門天の別名である。

 この城は、四層からなる天守がそびえ立ち、城下には御殿も建て、白壁で屋根は瓦葦を屋根材に使用し、一部で石垣も見られた。また、櫓も備えており、当時、城門と櫓を一つにする城は無く、これが多聞櫓の始まりであるとされる。その今までにない城の見事さは、後年、ルイス・フロイスによって、ヨーロッパにも伝えられた。

 後に信長が建てる事になる安土城のモデルであるとされる。そして、天守閣建設が最初ではなくとも、その後の城作りに多大な影響を及ぼしたのは、紛れもない事実であった。

 この間に三好長慶は、管領細川晴元を幽閉し、名実ともに幕府の実力者になっていた。そして、松永久秀は、長慶の嫡男である三好義興と共に幕府の御供衆となり、弾正小弼に任じらている。その後に主君長慶と同じ従四位下に任じられ、昇殿も果たしている。久秀は、その怪物振りを位の上でも発揮し始めていた。

 従四位下と言えば、古くは平清盛の父であった平忠盛が任官され、武家の棟梁となった位であり、室町期に入ってからは、管領家が任命されるべき官位であり、この時代に、武士が到達出来る官位の一つの区切りであった。

 久秀は、長慶の祐筆から上がってきた男であり、将軍家から見れば、家臣の家臣でしかなく、それが主君長慶と同じ位を授かるとは、この時期の久秀の幕府における位置を示していると言えた。

 この間の将軍義輝の近況は明らかとなっていないが、権勢を強める三好一党らに忸怩たる思いであっただろう事は、容易に推察される。三好家の隆盛は、この頃が絶頂期であっただろう。

 しかし、この時期から、その隆盛に陰りが生じ始めるのである。そして、その陰りを思わせる最初の事件が起こる。三好長慶の弟の一人である十河一存が急死したのである。

 十河一存は、長慶の末弟である。讃岐の豪族である十河氏に養子となり家督を継いでいた事は、前に述べた通りだ。この男の死は、三好家にとって、かなりの痛手である事には間違いなかった。

 この時、一存は、有馬温泉に湯治に行っていた。そして、そこには、あの松永久秀も同行していたのだった。二人で一緒に行ったのか、たまたま時期が重なったのかは定かではない。一存は、久秀の事を嫌っていたらしい。と言うよりも、久秀の存在を危険視していたと言った方がより正確だろうと思われる。

「兄上、あの男を使うのはお由よし下され」
 再三、長慶に直訴していたらしい。しかし、長慶は久秀を祐筆から取り立てたのである。その珠がいくら悪珠であろうが、宝石には違いないと長慶は考えていたのかもしれない。

「久秀には、久秀の良さがある」
 そう言って弟の忠告を取り入れようとはしなかった。久秀はこの事を遺恨に感じていた。一存は、猛将と言われる男である。ある時、戦場において、不覚を取り、左腕に重傷をおった。普通なら養生しなければ、左腕が使い物にならなくなるかもしれない程の傷である。

 しかし、一存は傷口に塩を塗りこんで、無理やり止血すると、左腕を槍に括り付けて固定し、処置が終わるとそのまま戦場に戻って、槍を振るって戦を続けたらしい。その様を見た敵味方のいずれともなく、

「鬼十河!」
 とその後に言われる事となった。その鬼十河は、久秀が何か長慶に献策する度に喰ってかかるようになり、それに対して、久秀は、この男には珍しく、じっと耐え忍んでいた。その両者が揃って、有馬温泉に行くなど考え固く、久秀による暗殺説は、当時から根強かったのである。

「今までの事は水に流して、まずは一献」
 温泉の中に酒を持ち込んで、久秀は酒を進めた。一存は、最初警戒をしたが、先に久秀から呑んだので、安心して飲むことにした。周りには、自分の重臣達も一緒に来ており、対する久秀は、一人であったのも安心するには十分な理由だった。

「一存殿、この久秀も、もう老年と言われる歳でございますれば、この先は倅をよしなに、お願い致しまする」

 久秀は、そう言って慇懃に応対した。事実、この時期に久秀は家督を嫡男に譲り、多聞山城も嫡男久通に譲っていたのである。その事もあって、一存は、久秀が本当に死後の事を考えて、自分に取り入ろうとしていると考えたのだろう。

「そなたがそのように申すのなら、悪いようにはせぬぞ」
 一存は、この時すでに久秀の術中にはまっていたと言って良いであろう。十河一存は、生粋の武人であり、謀略や交渉などの、いわゆる寝技は得手としなかった。

 その事もあって、久秀の危険性を訴えるのも確たる証拠があっての事ではなく、自分の直感による所が大きかった。これは、能力と言うよりも人としての気質や性格によるところが大きいため、この一点だけを見て、一存を評価するのは、間違いであろう。

 とにかく、一存の死であるが、結果から見ると一存は苦しまずに死んだ。それが彼にとって幸いであったかは別として、文字通り眠るように亡くなったのである。

 温泉から出るなり、一存は酔いが廻ったと言って、そのまま横になり、家臣が気づいた時には、そのまま死んでいたのであった。傍目から見ても、心不全としか見えなかったであろう。酒に毒を入れての毒殺は考えにくい。久秀も一存の重臣も同じ杯で酒を飲んでいるのである。

 方法は分からないが、久秀は大和国の領主である。大和には、伊賀と甲賀がある。人に分からず殺す方法なら何かしらはあったのではないだろうか。

 ともかく、この一存が酒を飲んで、そのまま眠りながら死んだという事実だけを彼の残された重臣達が長慶に報告したので、久秀は不思議と怪しまれなかったらしい。

 しかし、火のないところに煙は立たぬで、当時の人々は、久秀が謀殺したことを信じて疑わない人も大勢いたのである。この一存の死により、固い結束を誇った三好家に綻びと黒い影とが押し寄せる事となっていくのである。

 戦国の世に生きた武将にとって、身内とは、いつ裏切らないとも知れぬ敵であった事は、歴史が証明する事実である。この時代は、例え親兄弟とは言え、油断していては、寝首をかかれる事もしばしばであった。

 有名な所では、武田信玄がその父親である武田信虎を国外に追い出し、当主の地位を奪ったり、上杉謙信が長兄の晴景と争い、当主の地位に着いたり、兄弟間では、織田信長が弟の信行と家督を争い、ついに信行を刺殺するに至り、古くは、源平合戦の頃の源頼朝と義経の確執と争いが有名で、後年では、独眼龍と云われた、伊達政宗とその弟の小十郎との争いや、徳川三代将軍家光とその弟忠長の争いなど、有名な所でも例は数多い。

 しかし、稀に兄弟間で固い結束を誇り、歴史に名を残す例もある。例を挙げるなら武田信玄とその次弟の信繁や、豊臣秀吉と弟の秀長、そして、三好四兄弟の長兄三好長慶、次兄三好義賢、三弟安宅冬康、末弟の十河一存である。

 兄弟間で協力して業績を挙げた戦国武将では、特に長兄の後の次兄に注目したい。武田信玄の次兄である武田信繁の事は、先に述べた。豊臣秀吉の次兄であった秀長は有名で、良く兄の補佐役として、秀吉の天下統一に多大な貢献をしたのは、歴史に隠れもない事実である。

 特に死して世に惜しまれた点でこの二人は似ており、死んだ後に一家が傾いていく分岐点になった事も類似点として、挙げられよう。

 そして、三好義賢である。入道して実休と称した。この三好家の次兄も、良く兄である長慶を補佐し、三好一族の隆盛を担ってきたことは何度か述べた。そして、この次兄の死が前述の例とやはり同じように、世に惜しまれ、そして、三好家が衰退する分岐点となっていくのである。


 久米田の戦いは、永禄五年(1562年)三月五日に、現在の大阪府岸和田市付近で起った戦いの事である。事の発端は、三好長慶が元の主君である細川晴元を幽閉した事に起因する。

 将軍義輝が、長慶に晴元との和睦を命じた。これは、義輝が将軍権威を周囲に見せつけるために行った事だろう。義輝は、全国の大名の紛争の調停をするための御内書を数多く出しており、この時もまずは幾内からと思っての事だったろうと思われる。長慶は、その意を受けて元の主君を呼び寄せて対面を果たしたが、これを捕らえて、すぐに幽閉してしまった。

 長慶と晴元との確執は、前に述べた通りだが、長慶たちの父親である三好元長の死の原因は、晴元にあった。長慶は、その時まだ子供でしかなく、父の仇とも言うべき晴元の陣営に降った。生き残る為の唯一の手段を取ったわけだが、成長とともに、ついに晴元を京都から追い出して、宿願を果たして今に至るのである。

 今さら、晴元と和睦したからと言って、色々としゃしゃり出てこられても迷惑でしかなかったのである。

 しかし、この長慶が取った行動に激怒し、兵を挙げた男がいた。南近江の守護であった六角承禎である。承禎の妻は、晴元の妹という間柄であったために兵を起こしたらしい。

 そして、これに呼応して、河内の守護で長慶に敗れて紀伊に逃れていた、畠山高政が加わった。

 畠山家は幕府内に置いて、代々、管領を務めてきた名門である。一軍は、岸和田城に進軍した。岸和田城の城主は、長慶の末弟である十河一存であったが、先に述べたように急死していた。鬼十河が居ない今を好機と捉えたのだろう。

 軍は、岸和田城を取り囲んだ。これに危機感を感じた長慶は、すぐに救援を派遣した。次兄の三好義賢(実休)を総大将に軍勢を集結させた。その数、七千余。対する畠山・六角軍は、畠山高政を大将に、根来衆などを加えて総数一万余。

 この時、光秀はと言うと、将軍義輝の名代として、陣中見舞いと称して、三好実休軍本陣へと赴いていた。

「そなたが明智光秀か。話しは兄より聞いておる。大変な切れ者だそうだな。それに鉄砲の腕も相当な物と聞いておる」

「めっそうもございませぬ。本日は、上様の名代として、罷り越しましたが、この光秀、このような大合戦は初めての事にて、世に名高い三好勢の戦振りを拝見したく思うておりまする」

 対面した光秀と三好実休は、戦を前に語らう時間を持った。しかし、そこへ弟の安宅冬康が駆け込んできた。

「兄上、敵は魚鱗の陣を敷きましたぞ」
「そうか。敵は、短期決戦を望んでいるのか。こちらとて望むところだ。光秀よ、陣中見舞忝く思うと公方様には伝えてくれ。もはや、戦を見物するゆとりは無い。早々に京の都へ立ち帰るがよかろう」

「何をおっしゃる。この光秀、一度戦場に赴いたからには、公方様への土産話を持ち帰らぬ分けには参りませぬ。この上は、敵上の視察へと繰り出しましょうぞ」

 光秀は、そう言うと本陣を後にし、敵の姿が一望出来る場所を探して出掛けて行くのだった。光秀が去った後、陣中では、実休と冬康が二人きりで、軍議を重ねていた。

「長合戦続きで敵も疲弊したと見える。ここで決着を付ける腹だろう」
 そう冬康に語った実休の目には、なぜか涙が溢れていた。

「兄上、どうなされた?」
 驚いた冬康が兄に問いかけるが、実休はしばらく、何も発せず、空を見ながら眼にたまった涙を自らの親指でそっと拭った。

「草枯らす 霜又今朝の 日に消えて 因果はここに 廻りに来にけり」

 実休は落ち着くと、自らの心内を吐露するかの如く、歌を詠んだ。

「因果とは 遙か車の輪の外を 廻るも遠き 三芳野の原」

 それに応えるかのように、冬康は、歌を詠んで返した。

「兄上、お気を確かになされませ。一存が亡き今、兄上こそが三好家の要。この戦は、一存への弔い合戦と思召せ」

 冬康は、兄を出来る限りで叱咤した。それに実休は、何度も頷いていた。

(それにしても、この豪傑な兄に、こんなにも弱い所があったのか?ずっとあの事を気にして、苦しんでおられたのだ)

 冬康は、兄実休の意外な脆さを見て、戸惑っていた。三好実休という男は、意志の弱い男ではない。兄長慶を輔け、軍をまとめて、三好家の主柱とも言うべき存在であった。

 後世での評価も概ねが名将としてのそれであって、このエピソードだけが三好実休という男の本音というか、人間としての生な部分を物語っている。

 冬康がいうあの事とは、細川持隆の事である。その男は、阿波国守護であり、細川晴元の分家にあたる。そして、父の死後に兄長慶は細川晴元に仕え、実休は、この細川持隆に仕えた。

 これは、三好家の本国にあたる四国方面への配慮を考えて事であった。言わば、持隆は、実休の主家にあたる。そして、その主を殺害したのも実休であった。細川持隆は、父が死に没落した三好兄弟を庇護して育てた、言わば仮の親とも言うべき恩人であった。

 最初の両者の関係はとても良好であったようだ。持隆も、兄に劣らず利発な実休を愛した。しかし、その両者に埋めがたき溝が出来るのに、時間はかからなかった。

 細川晴元を追い落とし、念願を果たして躍進する三好長慶と、没落していく本家の細川家を見た持隆は、危機感を募らせ、足利義栄を擁して将軍のすげ替えを行い、自らが幕府の実権を回復せんと画策する。

 しかし、それは、実行前に三好実休らに漏れており、殆どと言うか、確実に騙し討ちで、見性寺という寺に誘き出されて暗殺されている。この事を実休は、長年悔やんでおり、それが弟の十河一存の死と三好家の危機とも言える大合戦を前に、つい心情を吐露してしまったのかもしれない。

 実休にとって細川持隆とは、自分が幼い頃亡くなった、記憶の希薄な父三好元長よりも、父親として認識出来る間柄であったのだろう。このエピソードに三好実休という男の真実が垣間見えると思うのだ。

 さて、合戦である。光秀は、本陣のある貝吹山城よりも小高い丘を見つけ、そこから敵陣を見ていた。畠山軍と六角軍とそして、根来衆が布陣しているのが見えた。

「馬鹿な!なぜ根来が。しかし、あの旗は間違いない」
 光秀の見る先には、根来寺の寺紋である三つ柏の旗が広がっていた。
「これはどういう分けか、見定めねばなるまい」

 根来衆が畠山、六角軍に加わる事は、光秀の元に報せは届いていない。元々、根来は、傭兵集団である。どこにも加担せず、依頼によって動くものだ。今回もその辺りに理由があるのだろうか?光秀は、ゆっくりと下がりながら本陣へと戻っていった。

 畠山軍は、軍を三段に構えて三好軍に突撃をする構えを見せた。その陣容は、第一陣に安見宗房を、第二陣に遊佐信教を、第三陣に湯川直光隊を配置した。

 両軍の戦いは、最初から苛烈な物として始まった。畠山軍の第一陣である安見隊が、両軍の間に広がる春木川を渡河し始め、安見隊が川を渡りきって、第二陣との間に距離が生まれるのを見計らい、三好実休率いる三好軍本隊から、弓隊の一斉射撃が行われた。安見隊がなすすべもなく、甚大な被害を被っている間に、第二陣の遊佐隊と第三陣の湯川隊は、川を渡り切ってしまっていた。

 そして、畠山軍は、川を背にいわゆる背水の陣として、魚鱗の陣を布いたのだ。

 これに対して、三好軍は、蜂矢の陣を敷いた。前衛部隊に篠原長房を、右翼に三好康長を、左翼に三好政康を、中詰めに三好盛政を、後詰に本陣として、三好実休という布陣で対抗した。

 蜂矢の陣形も魚鱗の陣と並んで、攻撃力に特化した陣形と言える。敵に比べて寡兵の場合に用いる事が多く、←のような形をしているので、蜂矢の陣と言う。畠山軍が背水の陣を布いたので、これを好機と捉えて、一気に敵に攻撃を集中し、合戦を優位に展開する狙いがあった。

 そして、戦いが始まり、一刻半を過ぎた辺りで、三好軍の前衛の篠原隊が、畠山軍の第一陣の安見隊をほぼ壊滅させ、第二陣の遊佐隊に襲いかかり、これも切り崩し、合戦の優勢が確定するかに思えたその時である。

 突出した篠原隊と、それを後より追いかける中詰めの三好盛政隊が、距離を詰めた事により、本陣の三好実休との間に距離が出来てしまい、三好軍の陣形が崩れてしまった。

 これを好機と捉えた畠山軍は、第三陣の湯川隊を春木川の上流より、篠原隊の背後に回り込ませて、挟み撃ちをしようと動き出していた。

 これに危機を感じた三好実休は、右翼の三好康長隊と左翼の三好政康隊も前線へと送り、敵に対抗しようと試みた。この思い切った策により、三好実休率いる本陣には、馬廻り衆も含めてわずかに百名程となっていた。

 光秀は、この戦局の変化を本陣で、実休らと共に感じていた。

(はて?敵の布陣を最初に見た時に居たはずの根来衆が居らぬ。どこに行ったか?)

 光秀がそれに気づいて、実休に進言しようとした、正にその時である。敵の居るはずのない後方から突然の銃声が鳴り響いた。

「ドドーッドーンッダダダダダーーーーンッ」
 けたたましい銃声が辺り一面に鳴り響いた。そして、鬨の声が何百と聞こえてきたのだ。

「申し上げます。後方より、姿を消していた根来衆が現れました」
 その伝令の報告に三好軍本陣は、浮き足だった。

「なぜじゃ?どこから湧いて出たのか?」
 そんな無常な問いが、本陣内で繰り返された。

「実休殿、敵は背水の陣を布き、あたかも策を捨て、乾坤一擲の勝負に出たと思わせておりましたが、最初からこの本陣が手薄になるのを待っていた様子ですぞ。敵の第一陣の安見隊は、最初からの捨て駒であったのだ。この上は、速やかに軍を引き、態勢を整えるが上策と存ずる」

 この状況下で、さすがと言うべきか、本陣に座して動揺の色を見せない実休に、光秀は思う所を進言した。しかし、しばらくの間、何も発せずに、腕組みをして、静かに目を閉じていた実休が目を見開き発した言葉は、光秀の思惑とは反対の物であった。

「これより敵に突入する」
 そう言い放つと実休は、馬に跨り号令を出した。
「実休殿、馬鹿な!死ぬおつもりか?」

「光秀よ、そなたは、戦の始まる前に三好勢の戦振りを拝見したいと言うたな。これより、この実休がそれを見せてくれようぞ。そなたは、これより都に立ち返り、上様らにこの実休らの戦振りをとくとお伝えせよ。さらばだ!」

 実休は、そう言うと、光秀の制止も聞かずに残った馬廻りや近習の者らを集めて、根来衆へ突撃を敢行した。その突撃はすさまじく、十倍以上の兵力差である根来衆を何度も後退させる程であった。

「かかれーーーっ ここが最後の戦場じゃっ、皆の者奮い勇めっ!!」
「ドーンッ」

 何度目かの突入の途中に、一つの銃声が辺りに鳴り響いた。そして、その銃声が響いてすぐに実休は倒れた。即死の状態であった。これが日本史上、名のある武将の最初の銃撃による戦死であると言われている。

「殿?!とのーーーっ」
 すぐに周りにいた家臣達が、実休を起こそうと走りよるも、実休の体はすでに力を失い、その死を確認するのに十分であった。

 その後、残された家臣達は尚も、突撃を繰り返し、三好実休が鍛え上げた、精鋭部隊も僅かに二十、三十数名を数えるだけになっていた。その残された者らも殿に続けとばかりに、最後の一兵まで勇猛に戦い続け、そして本陣は、全滅するという壮絶な結末を迎えたのである。

 これらの出来事を、戦場より離れながら見ていた光秀は、実休を射殺した男を目撃していた。光秀は、その男を凝視した。見覚えがある。光秀もよく知る男であった。

「間違いない。あれは、あの男は、御門重兵衛じゃ!」
 驚愕の事実と共に光秀は、戦場を後にした。

 総大将を失った三好勢は敗走を余儀なくされ、残りの部隊の生き残った者は命からがら敵の追撃をかわして、三好勢の本国である阿波まで撤退する事となった。岸和田城に入っていた安宅冬康も実休戦死の報を聞き、敵が迫るのを見て、城を捨てて退却している。

 この総退陣の退き口は、書き現せない程の壮絶さを極めたようで、阿波に逃れた篠原長房ら、主だった武将たちは、皆、思う所があったのだろうか、阿波に入るとすぐに入道し、名を改めている。

 この敗戦は、三好勢の隆盛から凋落への分岐点になったのは間違いない事実であった。しかし、戦はまだ続くのである。敵の主力である六角承禎(義賢)率いる一軍が、京の都へ進軍し、将軍義輝も護衛と共に撤退を余儀なくされていた。

 そして、三好勢の副将である三好実休を討ち取って、勢いに乗る畠山勢が今度は、三好勢の総本軍とも言うべき、長慶の居る飯盛山城を包囲しようとしていたのであった。


 一方その頃、将軍義輝は、六角軍来たるの報に接し、石清水八幡宮へと撤退を余儀なくされ、京都に軍を展開していた三好義興と松永久秀も久米田の敗戦を聞いて、一度、軍を立て直す事に迫られ、京を後にする事に決めていた。光秀が義輝の元に戻ったのは、そんな危急存亡の秋のことだった。

「そうか、実休殿が逝かれたか。見事な武士でありましたな」
 光秀からの報告を聞いていた藤孝は、そう独語した。

「惜しいな」
 上座で聞いていた将軍義輝は、そう一言だけ呟いたが、その心情は、決して単純なものではなかった。この三好実休戦死の報せは、すぐに各方面へと伝わっていった。

 この時、畠山高政と六角義賢に対して、兵を起こすように仕向けたのは、義輝だと言われている。理由は、三好長慶の勢いを止めるためと言ってまず間違いはないだろうが、義輝の思惑として、この時期に来ると、すべて三好勢を殲滅したいとは思ってはいなかったのではないだろうか。

 確たる証拠があっての事ではないが、もし、畠山・六角軍がこのまま三好勢を破ったとして、問題はその勝ち方であった。

 義輝の思惑としては、三好勢には負けてほしい。しかし、負け過ぎも良くはないと言った所であったろうと思われる。どういう事かと言うと、畠山にせよ六角にせよ三好に勝ってしまえば、自分が権力を手中に出来る。

 それでは、今までと変わらない。そればかりか図に乗って、将軍職を望む者も出て来るかもしれない。それでは、長慶よりたちが悪いと言う事になる。

 したがって、義輝からしてみれば、三好と畠山・六角が争い、両者ともに疲弊した所で将軍の名をもって、仲裁に入り、幕府の権威を高めるのが、一番の上策であった。

 しかし、三好実休を討ち取ったのは、いささかやり過ぎと言える。これで、畠山・六角軍は、勢いに乗り京へと押し寄せてきている。

 そして、あの三好長慶がこのまま手をこまねいて、劣勢を享受するとは到底思えなかったのである。また、三好勢の重臣の中で幕府に同情的な立場をとっていたのは、三好実休であり、それゆえに義輝は、実休の死を惜しんだのであった。

 光秀ら三人が話していると、すごい勢いで廊下を踏みしめて近づいてくる音が聞こえた。

「バターンッ」
 障子を勢いよく開け放つ音が、部屋中に鳴り響いた。そこには二人の男が立っていた。一人は、松永久秀であった。そして、その久秀を従えるように若い武士が怒気を含んだ形相で立っていた。三好長慶の嫡男である義興であった。

 光秀と藤孝は、とっさに身を翻し、侵入者に対していつでも刀を抜けるように鯉口を切った。この間も義輝は、着座して動かず、泰然自若としていた。

「明智が帰ったと聞いてきた」
 義興は、将軍義輝への挨拶も忘れて、怒気を含んでそう言い放った。

「義興様の叔父上にあたる、実休殿が戦死なされた事は周知の事実として、今日は、その死の不審を検めるべく、罷り越した。公方様にはご無礼をお許し頂きたい」

 横で控えていた久秀は務めてゆっくりと冷静に話していたが、その顔には、気味の悪い程の笑みがこぼれていた。

「叔父上を殺したのは、根来衆の鉄砲と聞いた。根来衆と明智は昵懇であったな。その方、叔父上の死に対して、申し開きをしてみよ」

 義興の主張として、光秀が根来衆を使って、実休を射殺させるべく、糸を引いたのだと言っていた。

「某が根来衆と昵懇であるのは紛れもない事実。しかし、今回の件、なぜ戦場に根来衆が居たのかは、某とて存知あげませぬ。この事、天地新明に誓って、嘘、偽りはございませぬ」

 光秀は、自分の心の内を正直に話した。確かに根来衆があの戦場にいて、三好勢と敵対したのは事実であった。そして、おそらく、三好実休を射殺したのは光秀の親友たる御門重兵衛であっただろうが、光秀はそこまでは話さなかった。それは、まず、重兵衛を自分で見つけだし、その真意を聞きたかったからに他ならなかった。

「この事、父上にはご報告しておく。明智、覚悟するんだな」
 そう言い放つと義興は去っていった。久秀は、光秀の顔を見て、ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、何も発することもなく義興の後を追った。

 義興の言葉の意味する所は、これで光秀が考えていた、将軍義輝と三好長慶の真の和解と幕府の新しい政が頓挫した事を意味していた。

「根来衆の件は、それがしにお任せを…」
 二人が去った後、光秀は力なく義輝にそう言うしかなかった。


 それから、三好長慶はと言うと、その居城である飯盛山城に立て籠もる日々を送っていた。その間も、六角軍は京を制圧し、その支配下に治め、畠山軍は、とうとう飯盛山城を取り囲むまでに進軍していた。

 この一連の戦で、三好軍は大打撃を被っており、戦死者は一万を数え、重臣である三好政成を失い、弟である三好実休を戦死で失っていた。当初の世間の噂では、特に弟の実休を失って、怒りで長慶がすぐに敵に対して攻勢に出ると思われていたが、長慶は城に立て籠もり、一度も討って出ようとはしなかった。

 これを見た畠山・六角軍は、長慶が臆したと見て、ここぞとばかりに進軍を続けていた。これに対して、三好勢の中でも長慶に対する不信感が急増してきており、幾人かの重臣が堪らずに長慶に出陣の下知を乞う進言をしたが、長慶は許さなかった。

 しかし、長慶が本当に敵に臆していたのでは、もちろんなかった。
「今は自重あるのみ。敵はいずれ進軍の限界に達する。その時を待つのじゃ。いずれ弟達を殺した者どもも、一族郎党とも皆殺しにしてくれるわ」

 重臣達は、長慶がそう言い放つのを聞き、戦慄を覚えたという。
「我らが殿は、このまま手をこまねいているはずがない。きっと敵は我らに逆らった事を近いうちに後悔することになるだろう」

 重臣達は、長慶の様子を見て皆でそう囁き合った。この時の長慶は、冷静に怒りを原動力に変えながら、チャンスが来るのをひたすらに待ち続けていたのであった。

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★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉
歴史・時代
 その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。  父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。  稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。  明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。  ◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

天狗斬りの乙女

真弓創
歴史・時代
剣豪・柳生宗厳がかつて天狗と一戦交えたとき、刀で巨岩を両断したという。その神業に憧れ、姉の仇討ちのために天狗斬りを会得したいと願う少女がいた。 ※なろう、カクヨム、アルファポリス、ノベルアップ+の各サイトに同作を掲載しています。

帰る旅

七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。 それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。 荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。 『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。

藤と涙の後宮 〜愛しの女御様〜

蒼キるり
歴史・時代
藤は帝からの覚えが悪い女御に仕えている。長い間外を眺めている自分の主人の女御に勇気を出して声をかけると、女御は自分が帝に好かれていないことを嘆き始めて──

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