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 そういうわけで社宅が燃えたわけだが。
 不幸中の幸いか、出火元は自分の部屋ではなかったので、精々部屋が水浸しという最小限の被害で済んだ。
 と言っても、そのまま部屋で生活するというのは現実的ではなく、代わりの家を見つけるまで会社負担でのホテル住まいとなってしまったわけだ。


「純君、今日の夜は何にしようかね」
「んー……オレ、グラタンがいーな」
 炊き立てのご飯、ワカメの味噌汁、鮭の塩焼き。食卓は理想的な朝食で彩られていた。三人の男がそれを囲んで、どういう訳か和気あいあいと夕食の献立について話し合っている。
「秋人君もグラタンでいいかい」
「は、はぁ……」
 正しく盛り上がっていたのは、二名だけのようであるが。
「あれ、秋人くん袖のボタン取れかかってるよ」
「ん? あぁ、本当だな……後で着替える」
「大丈夫、ちょっと待ってて」
 空になった茶碗を置いた男は騒々しく立ち上がり、別の部屋へ足早に向かっていった。一分と経たず戻ってきた彼は、愛用のベルトタイプの針山を腕に括り付け、朝っぱらから眩しい笑顔でこう言うのだ。
「腕貸して」
 針穴に器用に糸を通しながら、純之介はまるでお手、といわんばかりに手を差し出す。自分の方が犬のような性格をしているくせに、堂々たる物言いだった。
 秋人はこの頃、抗う事にすっかり疲弊してしまっていた。だから鼻歌混じりの青年へ大人しく左腕を委ねてしまう。
 純之介は小さなハサミで解けそうな糸を切り取り、布地に残った糸も丁寧に取り除いた。そこからはあっという間だった。数度往復する針の行方を眺めているだけて、取れかかったボタンはたちまち元に戻ってしまった。
「へぇ、上手いもんだな」
「本当だ、綺麗に付いてるね」
「えへへ、でしょでしょ」
 誉められた純之介は、やはり芸をした犬のように得意な顔をして尻尾を振った。学生証に服飾専門学校と記載されていた通り、この手の作業はお手の物、といった雰囲気だった。
 実際、手際よく丁寧に縫い付けられたボタンは買った時と同じような仕上がりに見える。遠い昔に家庭科の授業でやった時も、こんな風に上手くはつけられなかった。
「あとこれ、ついでだからアイロンかけといたよ」
 几帳面すぎるほど真四角に折りたたまれたハンカチは、やはり買ってきたばかりの新品のようだった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 誉めて誉めてと顔に書いてある。百パーセントの好意を浴び続けることが、果たして毒が薬か。一週間もする頃には、もう分からなくなっていた。


 ホテル暮らしをする羽目になったのは実の所、ほんの二日ばかりの話だった。
 というのも、平日にしては珍しく西から夕食の誘いがあったので行ってみると、そこには当然のようにもう一人の客人が居座っていた。
 土曜からの不運続きで気が滅入っていたのか、秋人はうっかり社宅が燃えた事を雑談の中に入れ込んでしまった。
 そこからは激流のような時に流され、気が付けば西の家に身を置くことになっていた。無論、迷惑になるからと何度か断ってはいたが、西には強い味方がいたのだ。
 陽の気を持つ若者と年寄り、二人が掛かりで押しに押され、怒涛の説得の末に秋人は半ば強制的に頷かされていた。
 とりあえず、次の家が見つかるまで。その間だけ、西の世話になるという事で決着したのだが、なぜかもう一人も一緒に住むと言い出した。
 西は部屋ならたくさん余っているからと、その破天荒な若者を二つ返事で受け入れてしまったのだから、恐ろしい話である。
 始めは申し訳なさに背を丸めていたものだが、朝起きれば朝食が用意され、仕事を終えて帰ってきても暖かい食事が用意されている。
 さらに衣服に精通した学生が甲斐甲斐しく世話を焼いてくるのだから、それはもう――。快適だったのだ。

「あ、もうこんな時間。秋人くん行こー」
「置いといていいからね」
「すみません、夕食の片づけは俺がやりますから」
 すると横からオレもーと元気に手が上がった。西は嬉しそうに目を細め、さらに深い皺を目尻に刻んで二人を送り出す。
「行ってきます」
「行ってきまーす」
 革靴とスニーカー。アンバランスな履物を揃って履いて、玄関を出る。午前7時だというのに、太陽はもうずいぶん高い所まで登っていた。夏が近いのだ。
「ねぇねぇ、オレたちどんなふうに見えるかな」
 純之介はオレンジのリュックを背負い直し、ご機嫌な様子で隣を歩く男にほんの少し視線を上げて問うた。
 朝日がその色素の薄い瞳に反射して、きらきらと輝いている。ついでにその金髪にも光は反射するので、秋人は眩しさに顔を顰めて手で傘を作った。
「親戚のおじさんと子供」
 望む答えを返してやらなければ、期待に満ちたその目は分かりやすくシュンと沈む。
 しかしそのくらいでめげないのが、若者の特権だった。純之介はさっと車道側に身を翻し、一丁前の男のような振る舞いをして見せる。
 秋人はダブついたパーカーのフードを引っ掴み、引きずるようにあっさりとその体を元の位置に戻した。
「お前の方がちょこまか危ねぇんだから、こっちに居ろ」
「ええ~~別にちょろちょろしてないでしょ」
「10年早いんだよ」
 更に不満が返ってくるかと思ったが、猫のような目がきょとんとこちらを見るので、何だか居心地が悪くなってなんだよと返す。
「秋人くん今、笑ったね」
 果たして、本当にそうだろうか。自覚がないのだから、否定も肯定もしようがない。都合のいいように取られただけのような気もする。きっとそうだ。
「どうだかな」
「えー、笑ったよぉ。ちょっとはオレに慣れてくれたんじゃない?」
 笑ったかどうかも分からない男より、よっぽどこの男のほうが嬉しそうだ。弾ける笑顔を見るだけで、溜息が漏れるほどに。
「じゃあな、しっかり勉強しろよ」
「はーい、秋人くんもお仕事がんばってね」
 昨日も、そのまた昨日もこうして朝、駅で別れた。けれど夜になればまた、この顔を見ることになるのだろう。
 考えた所で時間は過ぎてゆく。しかたがないので今日はグラタンか、と。目先の悩みを温かな湯気で隠してしまった。
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