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新井薬師前オールバックおばあちゃん

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眠い。それ以外の感情なんて何もない。ただ、息を吸って吐く生き物になる朝6時40分のオレは今日も野球の練習に向かう。もはやルーティンになりつつあるインスタグラムをチェックしながら、昨日の友人のハイライトに目を滑らせては少し可愛い子に優先的に「いいね」。一般的にいいねなんて自己肯定感を埋めるものって認識なんだろうけど、案外いろんないいねをオレらは誰かに送る。旅行に行ったアイツには「たのしいいね」。彼女と一年記念日を迎えてキラキラの風船越しに笑みを浮かべる2人が写る写真とブランドもののお高そうな財布の写真とそれに添えられた駄文には「うらやましいいね」。でもやっぱり大半は気休めの「どうでもいいね」だったりする。そんなそれぞれの気持ちがこもったいいねの数で優劣を決めるのはなんだか野暮だなと俯瞰することで、自分の投稿に付けられたあまり多くないいいねに納得してみる。空がなんだか白くなってきた。眠い。
SNSが流行るとどうこうなんて話題がよくニュースになる。脳に与える悪影響や社会の形の変化を批判するタレントが昨晩も偉そうに若者を斬っていた。とても良いご身分である。みんなが思っていたり、考えついていることを自信ありげにダラダラと喋るだけの職業。厚顔無恥の権化になるだけで金がもらえる。必死に皿を擦り、笑顔のような面をして1000円稼ぐのがなんだか虚しくなってくる。それが社会か。これから先どんな職について、どのくらい稼いで、どんな人と結婚してみるのか。考えただけで電車の揺れがいつもより強くなる。もし子供が生まれたらどんな風に育って欲しいとか思うものなのかな。名前に意味なんか込めちゃったり、悪いことでもしたらあのタレントみたいに説教とかできんのかな、オレ。嗚呼、結婚すんのやめよ。いや、いっそのこと死んでみよっかな。どうせ死ぬなら大麻とか吸ってみよっかな。3Pもしてみてぇな。人生のレールを踏み外しかけた頃、お前が真っ先に外れるレールは武蔵野線だわと言わんばかりに乗り換え駅についた。太陽が力強く街を照らす。オレは負けじと眠いフリをする。赤羽を超えたあたりから埼玉県民が東京都民の顔をしだす。今さっき渡ったデカい川に魔法でもかかってんのかな。汗ばんだおじさんも小金持ちに見えてきた。隣のスーツ着たお兄さんも一部上場企業のホープなのかもしれない。向かい側のオフィスカジュアルを身に纏ったお姉さんは確実にまつ毛が伸びてる。漢字ドリルを開く私立小学生はオレより賢そうだ。みんな何か楽しいことがあってこんな満員電車に乗っているのかな。死ぬまでこの満員電車に乗って、死んだように生きていかなきゃいけない事に辟易しながら、ツイッターで流れてきた[一生、労働者として消費されますか?人生を変えたい人、DMで]という大きな声の独り言は網膜に映っては空虚に消えていった。世の中なんて結局金だからとお姉ちゃんはよく言っていたっけ。金があれば出来る事が増えるのは間違いない。「わりぃ、金ないから今日はパスで」と友達の誘いを断る時の情けなさと言ったらこの上ない。でも、飽きもせずにサッカーボールを蹴ってはツツジの蜜を肩を並べて吸ったあの頃や山手線の二駅を余裕でケチる今が楽しくない訳がない。金が無いからできる経験と思い出に価値を見出せる人生なら変えなくても良いのかなと思ったり、思わなかったり。池袋に着いたオレも例に漏れずしてぃぼーいになって乗り換えた。イヤホンから流れる椎名林檎が何よりの証だ。朝の山手通りが頬を刺すなら、山手線のホームに向かう階段は確実にオレの膝をいじめ倒す。緑色の電車では到底補いきれないほどのコンクリートジャングルから見えるのは派手で大きな文字で書かれた看板の数々。きっとこの街ではモノもヒトも主張しないと喰われるんだろう。何年か前、態度がでかいくせに臆病なオレに「去勢はって生きていこう」と熱く語ってくれたアイツが頭に浮かぶ。歩いた時には鬱陶しいまでに気になった路上の石、シャッターに貼られた英字のステッカー、品定めをするような通行人の白い目も車窓越しには何故か何とも思わない。絶景を前に自分の小ささを感じる人もいるが、電車に揺られているこの瞬間の方が全く価値のない存在であることを再確認する。インスタグラムにどんなに加工を施そうとも、ツイッターでユーモラスな一言を連ねようとも所詮は呼吸を繰り返すタンパク質である事を哀しいほどに気付いてしまう。扉が開いて車内を後にした時に何故か都会の空気が美味しいとさえ思った。空はすっかり昼間になる準備を終えたようだが、オレの頭は鉛のように重い。人混みを抜けて西武新宿線の改札をくぐる。汗ばんだ首元を拭っていると肩を上下させた電車が目の前に止まり、大きな息を吐いて扉を開く。さっきまでの満員電車が嘘のように空いている。柔らかな椅子がすでに疲れたオレの体を包み込む。不意に大きく息を吐いた時、今まで呼吸が浅かったことに気づいた。新宿線は都会を次第に離れていく。オレが纏った都会人の仮面も少しずつ溶けていくような気がした。車窓から光が差し込み少し白んだ景色が映画のようにもみえる。絶対に見返すことはないとは思うが一応写真に収めてみるものの、目で見たようにはならなくてすぐにゴミ箱に移動させた。携帯は便利だ。友達の暮らしや有名人の思想、オレの知らないことをハッキリ見せてくれる。でもぼんやりでいいことですら見えすぎて不便だ。東急ハンズの便利グッズみたいなもんだなとも思う。それはちょっと違うか。車掌のアナウンスを合図に扉が開き、オレは新宿線を脱ぎ捨てた。無機質な改札を抜けるときの電子音が今日は少しだけ優しく聞こえる。いつものようにコンビニのアイスコーヒーを片手にタバコを蒸す。大人というものに憧れて、生まれて初めてタバコを吸ったあの感覚はもうない。偉いと言われることが好きだった自分が、周りの期待から逃れるように火をつけるほどに、自分のウチガワで燻るものが静かになっていくことを白い煙が教えてくれる。吸って吐く。吐いては吸う。こんなことで生きていることに気づく。晴天の下にできた小さな靄をくぐる一匹のハエがバカにしたように目の前を飛んでどこかにいった。次第に短くなるタバコは他所行きの自分を作るためのタイマーだ。妬み嫉みを少しずつ隠し、急いで優しさと面白さを引っ張り出して、ニューバランスのスニーカーで力強く火を消した。暑い。どうか今日も誰にも嫌われませんように。嫌われていることに気づきませんように。グランドまでの道に続く長い坂を下ると車椅子のお爺さんと行き違った。

「おはようございます。よければ坂の上まで押してきますよ」

普段はこんなことしなのになんで声をかけたんだろう。絶対にオレ、さっきの快便で調子乗ってるわ。まぁいいや偉いっぽいし。

「おはよう」

「あの、良ければ上まで…」

「あははいいんだよ、ずっと寝たままだとさ良くないから。たまには運動したくってさ」

「そうですか、頑張ってください。」

アツい。自己満足がバレたようで、たった15秒の会話でさえ死ぬほど長く感じた。頑張ってくださいじゃねぇよ。何もなかったような顔で歩こう。何もなかったんだ。そう決めた矢先、少し前にいた植木鉢に水を遣るオールバックのおばぁちゃんと目があった。向こうも俺に気づいてニコリと笑った。何笑ってんだよと思いながらオレもマスクの中の口元は微動だにさせず、目元だけで笑った。完璧に目が覚めているのに大きな欠伸のようなものをして、小さな声で「あー、ねむっ」と声に出した。そんな1時間40分。
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