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第一章 地味な、人生でした

2 大好きな婚約者でした

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「お父様ったら、酷いの」

 新しい妻と娘を屋敷に迎え入れる――父親からそう告げられたとき、クロエ・パリステラは動揺を隠せなかった。

 大好きだった母親が死んでからちょうど半年。
 まだ少し幼さの残る彼女には父親の横暴が理解できずに、困惑と怒りと悲しみを胸に抱えて、気が付くと婚約者であるスコット・ジェンナー公爵令息のもとへと向かっていたのだ。

「お屋敷にあるお母様の持ち物も全て物置に仕舞ったし、お父様にとってお母様はもう要らない過去の人間なのかしら……」

 甘いミルクティーのカップにぽとりと一雫の涙が落ちる。
 たった一滴……表面にゆらりと波紋が広がって、やがて消えた。

 テーブル越しに座っていたスコットはメイドに替えのお茶を淹れるように指示をしてから、やおら立ち上がって愛しい婚約者の隣にそっと座った。

「泣かないでくれ、クロエ。君が泣いていると僕も悲しくなる」と、彼はクロエの髪を優しく撫でる。

 大好きな婚約者から触れられると途端に胸が温かくなって、母の死からずっと心の下に重く沈んでいた「喜び」という感情も、ふわりと浮かんでくる。

 クロエは涙を抑えようと目尻にハンカチを当てた。するとシルクの布の向こうのスコットの柔和な顔と目が合って、互いに微笑み合った。


 スコットは彼女の心の支えだった。

 二人は12歳のときに婚約が決まった。完全な家同士の政略結婚だ。
 初めての顔合わせでクロエはスコットの姿を認めるなりどきりと胸が高鳴った。それは、彼も同じだった。

 第一印象は良好。その後の会話も弾んで、二人はみるみる仲良くなっていった。まるで家同士の婚約になんて見えないかのように、二人は親密になった。
 少しずつ愛情が育まれて、いつしかクロエもスコットも、互いになくてはならない存在に変化していったのだ。


 クロエの母はよく娘に「あなたは心から愛する人と必ず幸せになれるわ。だから、なにがあっても絶対に諦めないでね」と、言っていた。
 それをクロエは笑いながら「スコットのことを諦めるなんてあり得ないわ。大丈夫、私たちは絶対に幸せになるから」と、いつも冗談半分に笑いながら返していた。

(きっとお母様は自分たちの政略結婚が上手くいかなかったから、私たちには幸せになって欲しいのね)

 この頃のクロエには両親の婚姻が上手くいっていないことを知っていたし、自分に腹違いの妹がいることも知っていた。そのせいで、大好きな母が苦しんでいるということも……。

 だから、自分たちは政略結婚だけど、絶対に幸せになってみせる。
 そして、温かい家庭を築いてお母様を安心させてあげたい、お母様には孫とゆったりした時間を過ごして欲しい……そう彼女は願っていた。
 
 スコットとクロエは週に二回は会っていて、大体はジェンナー公爵家で楽しい時を過ごしていた。
 嬉しいことも悲しいこともどんなことも互いに吐露し合って、二人だけの秘密の共有――固い絆が出来上がっていたのだ。


「大丈夫だ。クロエには僕がいるだろう? 僕だけは君の味方なんだから、辛くなったらいつでもおいで」

「ありがとう、スコット……」

 二人は手を握り合う。そしてスコットはクロエを自身の肩に引き寄せた。彼女もこつんと頭を彼に預ける。
 心地よかった。
 スコットと同じ空間にいるだけで、クロエの心は穏やかになる。ゆらゆらと水の中に包まれているようだ。
 母がいなくなって、彼女の唯一の心の支えは婚約者だった。身を引き裂かれるような悲しみも、彼の存在のおかげで乗り切ることができた。

 スコットが隣にいる。
 スコットが私をいつも見てくれている。
 そのことがクロエを勇気付けてくれたのだ。

(お母様、天国から見ていてね。私は心から愛する彼と幸せになってみせるわ)


「その……あのさ」

 穏やかな沈黙の中、おずおずとスコットが口火を切る。微かに頬を上気させて、逡巡しているように少し目が泳いでいた。

「どうしたの?」

 彼は一拍戸惑った様子を見せてから、

「その、その……さ、もし良かったら、父上に頼んで、君を……早く迎えたいんだけど……」

「えぇっ!?」

 にわかにクロエの顔がほんのり赤く染まった。どきどきと鼓動が早くなる。

「だから、さ……」とスコット。「パリステラ侯爵の再婚で、これから君の心労は増すと思うんだ。だから、早くこっちに来てもらったほうが、気持ち的にも楽になるんじゃないかと……」

「っ……!」

 クロエの白磁の肌が真っ赤になった。胸がときめいて、このまま爆ぜてしまいそうだった。

(嬉しい! スコットがこんなにも私のことを想ってくれているだなんて……)

 彼女は幸福感に包まれて、潤んだ瞳で婚約者を見る。
 彼も、熱い視線を婚約者に向けた。
 二つの双眸が重なる。

 いつの間にか二人は近付いて、彼は彼女の額にそっと口づける。
 その後はにわかに羞恥心が襲って来て、互いにぱっと弾くように離れた。

「で、では……そろそろ失礼するわね」

「あ、あぁ。あ……明日はしっかりね。頑張って!」

 クロエは恥じらうあまり逃げるように公爵家を辞去する。馬車に乗り込むなり身体中の力が抜けて、倒れ込むように上半身を背もたれに預けた。

(恥ずかしい! ……でも、嬉しい!)

 口づけなんて初めてで、おでこにまだ彼の感触が残っていて、クロエの心を熱く昂揚させた。
 同時にそれは、彼女の自信にも繋がる。

 いよいよ明日は継母と異母妹が侯爵家にやって来る。

 悲しみや不安で胸がはち切れそうだったクロエだが、自分の隣には常にスコットがいるのだ。
 そう思うだけで、不思議と頑張れる気がした。

(大丈夫、きっと私なら上手くやれるわ。だって私にはスコットがついているんだもの)



 そして翌日、パリステラ侯爵家に黒く渦巻く嵐が舞い降りる。


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