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85 別派閥

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 ヨーク家とドゥ・ルイス家の婚約式が終わってしばらくがたち、アルバートお兄様の毒薬事件の噂話もすっかり落ち着いて、わたくしの生活は日常に戻っていった。
 なので学園生活も再開したのだけれど、待っていたのはダイアナ様をはじめとする国王派の友人ではなく……アーサー様傘下の王弟派閥だった。

 別にダイアナ様たちと仲違いをしたわけではないし、嫌いになったわけでもない。
 でも国の情勢というものは小さな貴族社会である学園にも影響を及ぼしていて、アーサー様の婚約者であるわたくしが第一王子の筆頭婚約者候補であるバイロン侯爵令嬢と、これ以上懇意にするのは許されない雰囲気だったのだ。

「ご機嫌よう、バイロン侯爵令嬢」

「ご機嫌よう、ヨーク公爵令嬢」

 わたくしと彼女はもう名前で呼び合うこともなく、形式的に家門と爵位を並べるだけの間柄になり、特に言葉を交わすわけでもなく互いに澄ました顔でただ擦れ違うだけになってしまったのだ。

「っ……」

 ダイアナ様のわたくしの名を呼ぶ冷ややかな低音が、ズキリと胸を突き刺した。
 事前にアルバートお兄様から聞かされてはいた。今後は表面上はダイアナ様と距離を置くように、って。
 当然それは彼女にも伝わっていて、頭では理解しているのだけれど……。

 しかし実際に目の当たりにするとどうしようもない寂しさが襲って来て、きゅっと心臓が縮こまるようだった。

 でも、乗り越えるしかない。わたくしは貴族なのだから。
 お兄様にも何か考えがあるみたいだし、今は波風を立てないように、わたくしはアーサー様の婚約者として粛々とやるべきことをするだけ……。


 そんな王立学園の延長上にあたる王都の貴族たちは、今も揺れていた。
 国王派を取るのか、王弟派を取るのか。議会やパーティーやサロンでは、その話題で持ち切りらしい。

 確かにヨーク家は国王派閥の信頼を完全に失ってしまった形ではあるけれど、歴史と権威は未だに健在だ。現王家よりも高貴な血が流れ、更には同じく高貴な血筋のドゥ・ルイス家と縁続きになろうとしている。

 これは、どちらに正当性があるのだろうか。
 いずれ誕生するヨーク公爵令嬢とドゥ・ルイス公爵令息の嫡子こそが、この国で一番高貴な存在で、且つ血筋上は王位継承権を持つ。
 それは仮にエドワード第一王子が他国の王族と婚姻したとしても、埋められない差が存在するのでは、と……。

 これもアーサー様がをはじめとする王弟派が世論を誘導した結果なのは明白だった。
 彼はどこまで計画を練っているのだろうか。きっと今わたくしたちが歩んでいる道のりも、彼の掌の上で操られているんだわ。

 おそらく前回の人生でも、わたくしたちは彼に踊らされて摩耗しきって潰されて……全てが彼の計算通りに動いていったのだと思う。
 こんな恐ろしい相手に、国王派が打ち勝つことはできるのかしら。

 ……いえ、アーサー様は本当に恐ろしい相手なの?
 ここのところ、そんなことばかりが頭を巡っている。確かに彼は現王家と国王派にとって脅威であり、国を二分する混乱の大本だ。

 でも、本当にそれは悪なの? 彼自身は自己の信念に基づいて、正しいと思う方向へ進んでいるだけではないの?

 それは前回の人生のわたくしが第一王子だけを真っ直ぐに愛したように、彼も真っ直ぐにグレトラント王国を愛しているから故の行動なのかもしれない。

「何か折衷案があれば良いのだけれど……」 

 魂まで吐き出しそうな深いため息をつく。冷やされた空気が肺の中に侵入してきて、ぶるりと寒気が走った。

 問題は他にも山積みだった。
 極秘情報だけど、モーガン男爵令嬢が地下牢から脱走したそうだ。現在、騎士団が秘密裏に捜索を行っているらしいのだけれど、杳として消息が分からないみたい。

 特にわたくしは、彼女から報復を受ける可能性があるかもしれないからと、アーサー様が護衛を付けてくれた。
 心遣いは有難いけど、四六時中ついて回る護衛たちはなんだかわたくしを監視しているかのようで、少し窮屈な気分だった。

 公爵家の護衛はさすがに学園内には入れないので、わたくしはしばしの一人になれる時間を満喫するために、人気のない裏庭のベンチでのんびりと過ごしていたのだ。

 ここは木々が生い茂って日陰になる場所が多く、夏以外はあまり人が近付かない。優しく降り注ぐ木漏れ日に当たるのが好きで、一人になりたい時はいつもここに来ていた。

 また、深いため息。

 唯一ほっとしたのは、第一王子が公務でずっと学園を休んでいることだ。あの王子と顔を合わせたらどんな嫌味や罵声が飛んで来るのやらと思うと、わたくしの憂鬱は晴れなかった。

 こんな事態に陥ったのは、王弟派に嵌められたとは言えアルバートお兄様の毒薬の研究が原因だった。
 それは前回の人生も同様で、詰まるところヨーク家に原因が――もっと突き詰めると愚かな振る舞いを続けていた自分のせいなのだ。

 第一王子の目的が何かは未だに分からない。
 第二王子殿下は前回の人生で自分が死んだあとに公爵令息に敗れたから、復讐を目論んでいるのではないかって言っていたけど……。
 確かにこれまでの第一王子の行動を顧みると、その可能性が高い。

 今回の人生でわたくしは何が出来たのだろうか。運命を変えようと必死で抵抗してきたつもりだったけど、どれも徒労に終わってしまって。
 結局、掻き乱すだけ掻き乱して何も変えられなかったんじゃないかって。

 今の状況を打破するのは、わたくしが――、


 その時だった。
 にわかにサクサクと道を歩く誰かの足音が聞こえてきた。

 規則正しいその音が、わたくしの思考を停止させた。自然と足音の方向へ目を向ける。ぼんやりとした人影がどんどん大きくなって、わたくしは驚きのあまり目を見開いた。

 空みたいな碧い色の優しい瞳がわたくしを捉えた。心臓が止まったように身体までもが静止する。
 その方は、わたくしを認めるとふっと穏やかに微笑んだ。

「やあ、シャーロット嬢」

 耳に響く優しい声は、今日はどこか違って聞こえる。まるで悲しみと不安が入り乱れているような不協和音だった。

「ハ――ヘンリー第二王子殿下………………」

 数拍の沈黙のあと、わたくしは絞り出すように声を出した。そして慌てて立ち上がって、カーテシーをする。
 殿下は困ったように苦笑いをしてから囁くように言った。

「顔を上げてくれ」

 ゆっくりと頭を上げて、正面を見た。
 第二王子殿下は、いつもと変わらない温かい笑顔をこちらに向けている。
 どきりと心臓が弾んだ。
 久し振りに見た殿下の顔は、酷く疲れているように見えた。

 ただでさえ穏やかな裏庭が、一瞬で時間が止まったように静寂に包まれる。
 わたくしたちは少しのあいだ互いに見つめ合ったあと、殿下のほうから口火を切った。

「久し振りだね、シャーロット嬢」

「ご無沙汰でございます。第二王子殿下……」

「ちょっとやつれて見えるけど、大丈夫? ちゃんと食べてるの?」

「最近忙しかったものですから。栄養はきちんと取れていますので、問題ございませんわ。お心遣い感謝します」

 まるで他人事みたいなぎこちない会話……。わたくしは感情を声に乗せないように淡々と返事をした。

「そうか……」

 殿下は再び黙り込んだ。わたくしも口を噤む。
 どうしたものかと困り果てて、つい目が泳いでしまった。本当は話したいことも聞きたいことも沢山あるのだけど、今の自分の立場では余計なことは言わないほうが賢明だと思ったのだ。

「今度――」殿下が呟くように再び言葉を発する。「今度、王宮のチェリーパイをアルバート公爵令息に持たせよう。良かったら食べてくれ」

「ありがとう存じます。……ですが、お気遣いなく。わたくしは…………もう、大丈夫ですから」

 わたくしはふっと口の両端を上げた。
 拒絶の微笑みだ。無理にでも壁を作らなければと思った。

 これ以上、優しくしないで欲しい。
 だって、敵対派閥の婚約者がいる令嬢と第二王子が親しくするなんて……おかしいでしょう?

「そうか……」と、殿下の掠れた声が風に掻き消される。それから何か言いたげな視線をわたくしに送ったと思ったら、またもや黙り込んだ。

「ご用がないのでしたら、わたくしはこれで失礼いたしますわ」

 わたくしは早く辞去しようと再びカーテシーをした。

「っ……!」

 第二王子は少しだけ手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。
 わたくしは悪夢から目を逸らすみたいに、決して殿下と目を合わせなかった。……今の自分の顔を見せたくなかったのだ。

 ゆっくりと踵を返す。
 景色もわたくしに合わせて、緩やかに動いていく。

 そのとき、

「待ってくれ!」

 第二王子殿下の大きな手が、ついにわたくしの腕を掴んだ。
 びくりとして振り返ると、殿下は炎の灯ったような力強い瞳でわたくしを見ていた。動揺が稲妻のように全身を駆け抜ける。

「やっぱり、こういうのは良くない。前向きな対話をしないか? 僕たちがこれからどうすれば良いか。どうすれば今の泥沼から抜け出せるのか。僕が、必ず現状を打破してみせるから……!」

「は……離してください! わたくしは――」

 力はどんどん強くなって、わたくしの身体は殿下の腕の中にすっぽりと収まってしまった。

「僕は君が好きだ。前の人生の時からずっと好きだった。だから……今度こそ……君には心から幸せになって欲しいんだ……!」

「…………」

 動けなかった。
 懐かしく感じる殿下の温かい腕の中は、今は最高に居心地が悪くて。
 本当はこの瞬間をずっと待ち侘びていたはずなのに、今では罪悪感と悲しみで胸中を激しく掻き乱されるのだ。

「や、やめ――」

「シャーロット嬢」

 風を切るように、鋭利な声が二人の距離を割いた。
 アーサー・ドゥ・ルイス公爵令息だ。
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