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幽韻之志

59/虫蔓おこと九頭竜の呪異

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 所詮は草を食む虫に過ぎない。

 新緑の騒めきをふわり、肌に感じて…
 手の甲を見ると白い芋虫が蠢いていた。
 見上げる先に青葉が風に揺れる。おそらく葉の裏について落ちたのだろう。
 陽に当たらないよう片手で覆い隠してつつじが咲く草むらに手を入れて放つと、玲音の声が届く。

 「何の種類だろう、見たことがない芋虫なんだ」
 「虫…ですか?」
 「落ちた時に怪我したのかな、動かない」

 柔らかに蠢く背中を撫でると指に近づく白い芋虫を見た玲音が立ち上がる。


 「親方様…っ!!」


 その呼び声に振り向く科戸さんは猛禽類の瞳で俺をみつめ、駆け出す。
 咄嗟に手の中にいる虫を庇って背中を丸めると、指の隙間から這う虫を眺めて腰を落としてこういった。

 「病気に罹っていますね…報告を」

 命令を受けてとびを呼び寄せる。玲音の伝達は古風だが一定の相手にはこのやり方をしているようで、俺は虫を手の中に包んだままその様子を眺めていた。
 これは蛾の幼虫で、かいこ
 本家の離れに養蚕所ようさんじょがあり、羽化する工程で逃げ出す性質の幼虫が稀に本家に紛れ込む。"絶対に殺さず"養蚕場へ戻すことが決まりになっている事は、あまり知られていない。




 ここの離れに家があります。
 表札はありません。神風あらしは裏で桑の葉を取っているので虫を返して下さい。

 くれぐれも、お様を殺さない様に…




 あらし 初めて聞く名前だな、親族か?

 本家から徒歩20分ほどに位置する離れは森の中にある古い家屋で、歩いて来た砂利道を振り返ると、鬱葱うっそうとした草木が生い茂る両側に卒塔婆そつとうばが並んでいた。
 親族の墓地が近くにあるんだろうか、陽が暮れる前に虫を届けて帰ろう。

 「ごめんください。神風様いらっしゃいますか」

 正面玄関から人の姿は見えず、裏に回ろうにもこちら側からは開けられない扉で閉ざされていて…話し声がする?誰かいるのか。

 「御遣いかな、私が見てこよう」
 「はい。お兄様…お気をつけて」

 よかった。こちらに気が付いた様子で足音が近づく。

 「本家から参りました青木昌宗と申します。神風様はご在宅でしょうか」

 返答が無いので話を続けた。

 「本家に迷い込んだお蚕様をお連れ致しました。お目通りを頂戴したく存じます」

 俺の言葉に返事は無く足音が遠退き…手の中で動き出す虫の感触に、ほっとして話しかける。
 ここがお前の家で間違いない?
 ご主人様に会えるまで、もう少しの辛抱だよ。
 人肌は暑かろう。ひとつ、折れた枝を手に取り虫を葉の上に乗せると一定の動きを繰り返しながら草を食む。
 勝手に草食わせて大丈夫なわけがない。慌てると家の中から声がして飛び上がり、振り向いた勢いで足早に開かれた門に飛び込むとそこには俺と同じくらいの背丈で着流しの男がひとり、俺を見ていた。

 「あっ、あの…勝手に与えて申し訳ございません」

 頭を下げた後で虫食いの葉先に留まる様子を指差し、蠢く虫が落ちないよう手を添えて見せる。咄嗟の言葉が不適切だといわんばかりに眉をしかめる男は、むっくりと膨れる体に草を蓄える虫の姿と俺を交互に見て、何も言わず、そっと伸ばした細い指で枝を受け取った。
 ほんの僅かな間に瓶ビールの王冠の如く桑の葉を食む、あれは虫食い。
 這った跡を濡らしながら、枝に登る様子は元気に見えるが…

 「お腹壊したりしませんか」
 「病の子です、お気になさらず」

 やっぱり、科戸さんが言ってた通りだ。
 見つけた時には頭が黒くなっていたことを説明したが、膿で腫れ、脱皮も不完全で助からないという。
 幼虫は膿病に罹ると死を待つばかり。間引かれた生き残りが養蚕場に戻された所で命を繋ぐことは適わない。今この瞬間も生産過程である上蔟じょうぞくが行われ繭の中でさなぎになる無数の蚕たちにとって害でしかない病の幼虫は通常1か月程しか生きられない一生をより短命に…明日をも知れぬ、儚い命であることを告げられた。

 そうか、蚕の一生は短い。
 だから科戸さんは"絶対に殺さず"養蚕場へ無事に戻す様に云っていたのか。


 「どうか最期を看取り弔いを。この子が一日でも長く生きられるよう、お祈り申し上げます」


 一歩下がって頭を下げる。
 俺がこんなことを言える立場ではないが、同情の念を捧げるくらいどうということは無いだろう。
 瓦屋根を撫でる雨音が聞こえた気がしたので外に出たが雲ひとつない空を仰ぎ、はて…如々しくしくと聞こえる…この音…はどこから来るのか。
 不意に呼ばれた気がして振り返ると、折れた桑の枝を手にした男が佇むばかり。

 「神嵐様に宜しくお伝えくださいませ、失礼します」

 卒塔婆が俺の背中を見送るようにそびえる。
 来た道を戻るだけなのに…
 大きな樹木の根元が膨らむ山道で迷い、歩けど下に見える民家に近づいてる気がしない。まるで後光が射す様な西日の方角に風を読み、日没の群青に染まる空の下で足袋に血を滲ませ家路に着く俺を待っていた玲音が迎えにはしる。

 「よくぞ、ご無事で…」

 大袈裟だな…ふらっ…と草履で出かけたのは失敗だったが、お叱りを受けることなく虫を帰してあげられたことを
告げるとを涙ぐみ頷いて聞き遂げる、玲音の美しい横顔に手を添える。
 乾いた唇を僅かばかりに震わせて結ぶ。

 今日に限って、どうしたんだよ?
 俺が居ない間にお前が叱られていたのか尋ねると…


 「お早いお帰りで」


 聞き覚えのある声に玲音の顔を押し退け、踏み出す。

 「劉青りゅうせいか…珍しいな、お前が実家に戻るなんて」
 「離れに御用とは。誰かに会った?」

 それがどうしたと返す言葉を飲み込むと、劉青はつつじの花を折ってみだりに密を吸いながら横を通り過ぎる。その香りに胸が悪くなった。
 眩暈がして、歩みを進めているのに爪先の感覚が無い。
 草履を脱ぐと生暖かい感触が離れて、ようやく痛みに気が付いた。
 履き慣れているとはいえ草履で山道を歩くのは無謀だと目で訴える玲音に大人しく抱かれ、科戸さんが待つ部屋で手当てを受ける。

 「実盛を焚いた甲斐がありました」
 「さ、さねもり?」
 「虫除けの送り火です。燃えるような西日があなたの目に届くよう祈りました」
 「そんな処に俺を行かせたんですか」
 「なに気善く魔迷いの杜を抜けて何より。あなたなら…」

 科戸さんらしからぬ笑みを浮かべて、ぞっとする。
 神秘的な呪術を用いて、俺を死の淵から連れ戻したとでもいうのか。虫下しでも食らった気分だな。まぁ生きて帰れたのにも…理由…があるんだろう。

 「虫は無事、生かして帰しました」
 「何か気になることでも」
 「病気になった蚕の幼虫は殺されるのでしょうか」
 「ええ、虫干しといって、陽に焼かれます」

 電球の点いた蚕室の中で葉を食べて育つ蚕だが、病気になり処分される幼虫を含む、繭の中の蛹は直射日光で殺蛹さつようされる。水に弱く湿度管理などの数学的要素が多い養蚕を親の代から継ぐ九頭竜神風は本家の執務長を務め、科戸さんも一目置くキレ者。ここで切れると言ったら相当やべぇ奴に違いない。


 「神風にとっておこ様は我が君。たった一頭殺すだけで大火に見舞われる忌まわしの過去を教訓に、迷い仔は必ず離れに帰すことを約束しています」


 養蚕には周期があり、今は春蚕はるご
 虫は一匹ではなく一頭と数えられる蚕は家畜で親の代から営み、大切に育てられている。昔、科戸さんの妻・しづ子夫人が犠牲になった本家の大火事の犯人がまさか神風の復讐だったとは。そんな相手に俺をひとりで向かわせたのなら、玲音が涙ぐむのも頷ける。
 言うてそんな人柄には見えなかったけど…

 「神風さんは、家族で養蚕を?」
 「独り者ですよ。誰かに会いましたか?」

 劉青と同じことを聞くんだな。弟、ではなくお弟子さんかも知れない。
 もし密なる関係であれば俺がここで聞くのは野暮だと、首を横に振って見せる。
 ―――それが何を意味するのか――――
 知る迄、時間を要することなく虫蔓おこ様の毒逸る紡ぎの糸に絡め囚われる。
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