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月華の心
しおりを挟む「……りや、毬也!」
ぽんぽんと肩を叩く刺激と、十六夜の高い声が聞こえて瞼を開ける。
風邪をひいたときのように熱っぽい目は霞んでいるけれど、次第に視野が明るくなった。
「大丈夫か?」
日向もいて、心配そうに僕を見下ろしている。
「……僕……」
どうしたんだっけ、と体を起こしたとき、正絹の羽織が掛けられていることに気づいた。
これは、仕事以外で月華が着ているものだ。
「……げ、っか……」
羽織を握りしめ、思い出して物入れの中を見渡すものの、月華の姿はない。はだけていた僕の着物はきっちりと整えられていて、何事もなかったかのようだ。
「なにがあったの、毬也。月華が急いた様子でやってきて、毬也がここにいるから行ってくれって言いに来たんだ」
十六夜に聞かれて、僕はぶるぶると首を振った。
とても言えない。
「月華が、なにを考えてるのかわからないよっ……! 僕のこと、心から嫌ってるのはわかる、でもっ」
あんな仕打ちで僕が男娼として使い物にならないと示しながらも、優しい声で名前を呼んで、羽織をかけていく。……それも男娼としての心遣いだと教えているつもり?
だけど、だけど、ここを出ていく直前の言葉はなんなの?
「ごめん」って。
薄れていく意識の中、確かに聞こえたんだ。月華は「ごめん」と言った。
あれは、なんだったんだよ……!
「ひどいよ。嫌いなら、冷たくするなら、気まぐれで優しさを見せないでよ! 嫌いならとことん嫌ってくれたらいい!」
期待してしまうから。
ありえないのに、もしかしたらまた昔みたいに戻れるかもって、小さな希望にすがってしまうから。
僕だけがずっと、昔の月華の面影を捨てられなくなるから。
「月華の、馬鹿、馬鹿、馬鹿っ……!」
涙と震え、辛さを吐き出すことを止められず、叫ぶように言ってしまう。
「──違うよ! 毬也」
すると、十六夜も目にいっぱいの涙を溜めて僕の手を握った。
「おい、十六夜」
日向が十六夜の肩に手を置いて首を振る。
十六夜は一瞬唇を結んで日向を見るものの、「もうこんな二人を見てられないよ!」と言うと、また僕の目を真剣な表情で見た。
「月華は、月華はね、今でも毬也が一番大事なんだから!」
「……え……」
どういう、こと?
「月華は、自分さえ我慢したらいいって思ってるんだ。毬也が辛い思いをしないように、自分が裏で手を回せることは悪どいことでも平気でやっちゃうんだからね! 僕なんか絶対に口を割るなよ、って何度も睨まれてほっぺを抓られて、日向も耳を噛まれたんだからね? なのになのに、毬也がこんなに辛そうだなんて割に合わないよ、わ~~ん!」
「十六夜、落ち着いて。ちゃんと教えて。どういうことなの?」
立派な花になったのに、十六夜が子供みたいに泣き出す。幼いところが愛らしいと評判の十六夜だけれど、これじゃあ要領を掴めない。
「月華な、大輪になるまで毬也を守ってやってくれって、花になった翌日に……あいつ、楼主様に呼ばれて説教を受けただろう? あの後俺たちに頭を下げに来たんだ。そんなことされなくても、俺たちは毬也の味方だけどな」
日向が腹をくくったようにひとつ息を吐き、十六夜の隣に正座した。
「あいつの毬也贔屓は蕾の頃からあからさまだったけど、橘さんを筆頭に、ここに住む多くは「ケダモノ狂い」なんて言い方をして、反感を持ってた。月華が花になったらそれがいっそうひどくなるのは目に見えてるのに、蕾のときみたいにずっとは一緒にいられない。守ってやれなくなるって焦った月華は、初日からお前に辛く当たる芝居をして、なんとか毬也を手の内に囲おうとした」
「あれは、そういうことだったの……?」
そんなの、全然気が付かなかった。
僕は驚きで呆然としてしまった。
「毬也を傷つける稚拙なやり方だったとあいつは嘆いてたけど、俺たちは見事に騙された。でもな、楼主様にはお見通しだったんだ。毬也も言われただろ? 「月華に近づくな」って。月華も言われたんだ。「これ以上毬也にかまうなら、あの子は外に捨てますよ」って」
「そんな……!」
それ以上は言われなくてもわかった。
月華は僕を守るために、たくさんのお芝居を重ねてきたんだ……!
「それでね、月華がお仕事をすごく頑張ってるのも、毬也のためなんだよ? 大輪になれば世話役の子の希望が言えるから、早く大輪になって毬也をそばに置くんだ、守るんだって言って……。それとね、それとね、差し入れも、苺も、毬也が使ってる洗濯の手袋だって、全部月華がこっそり用意したんだよ! 月華はいつも陰から毬也を見守ってるんだよ!」
「うん、うん……!」
胸がいっぱいだ。いっぱいすぎて破裂しそうで、体をふたつに折ってそこを押さえた。
月華……僕は君が変わってしまったんだと、僕から心が遠く離れてしまったんだと思っていた。大輪になるのにケダモノの僕が邪魔なんだろうと誤解して。
でも君は、出会った日に「俺がお前を守ってやる」と言ってくれたあの言葉を、今でも忘れないでいてくれたんだね。
体中に嬉しさと喜びが満ちてくる。
「今でも月華は、僕を親友で、弟分だと思ってくれているんだね……」
「えっ? いやあの」
十六夜が目をまん丸くして、フサフサ尻尾をきゅっ、と立てた。
「十六夜、それ以上は黙っておけ。殺されるぞ」
日向がすかさず目頭に力を入れて、十六夜を見る。
「それ以上? 殺される?」
僕は日向の言葉を借りて問いかけるけれど、二人は苺を食べろと言ってくれたときのように目を細めて、「なんでもない」と声を揃えた。
そうして二人は部屋に戻って行き、扉を出る直前に十六夜が、「気の毒に、月華……」と言った気がしたけれど、よく聞こえなかったから聞き間違えかもしれない。
それから僕も物入れと仕置き部屋の掃除を終えて部屋に戻ると、残しておいた苺を食べた。
苺はもらったときよりも傷んでいる。けれど熟れた赤さが胸の熱さに比例しているように思えた。
口に含むと酸味の抜けた甘さが広がり、今まで食べた苺の中で一番おいしいと、僕は甘さに酔ったように浮遊感を感じていた。
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