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大華繚乱
決断
しおりを挟む「百合ちゃん……」
俺を抱いていた宗光の手が緩んでいく。
「俺じゃあかんてことやな」
宗光の呟きがポツリと落ちてきた。
「……違う! いいとか駄目って言うんじゃない。もしも宗光が江戸に居続けるならきっと俺は」
全部言い切る前に、宗光の手が俺の口を柔く塞いだ。
「これ以上惨めにせんとってくれ。百合ちゃんは結局、全部を捨ててまで俺を選べんてことや」
「そんな……」
でも、そうじゃないんだ、とは言えない。どんなに言葉を取り繕っても、俺は宗光とは行けないんだから。
「──帰れ」
宗光の声が、小さいのに鋭く空気を割いた
「宗光……!」
「契約終了や。金輪際会うこともない」
宗光は腕を伸ばして俺の体を離すとすぐに立ち上がり、俺に背を向ける。
「宗光……っ」
名前を呼ぶけれど、宗光の背中は俺を強く拒絶していた。
俺にはもう、宗光の拒絶を解くためにできることなど、なに一つない。人からの愛情を追い求めていた俺が、自らそれを切り離したのだ。
「……っ……宗光様。今までありがとうございました。これまでの多岐に渡るご支援、感謝しております」
指をついて頭を畳に近く下げ、形式だけの挨拶をする。そうでもしないと、なに一つ返せもしないのに、宗光の背にすがってしまいそうだったから。
涙が畳にポタポタと零れ落ちた──泣くな。全ては自分で選んだ結果なんだ。
袂で目を拭い、部屋の襖を開ける。今生の別れになるかもしれないのに、もう、宗光の背を振り返ることはできなかった。
こんな最後になるなんて……!
「……百合っ……!」
足を一歩、廊下の板に出した瞬間、背に暖かい重さがかかる。
宗光の腕が胸に周り、しっかりと抱き締められていた。
「宗光……」
途端に、必死でせき止めようとしていた涙が濁流のように溢れた。
強い力で宗光の方に体を向けられる。
涙はないけれど、泣き顔も同然の苦しそうな表情の宗光の手が、俺の頬を挟み、親指で涙を拭ってくれる。
「百合ちゃん、泣くな。俺、約束したやろ? 俺は絶対に百合ちゃんを泣かさんし幸せにしたるって。願い事は絶対叶えたるって。だから泣くな。俺がおらんなるんは百合ちゃんの夢を叶えるためや。
これが最後に俺が百合ちゃんにしたれることや。……いいか、絶対幸せになるんやで」
「宗光……うん、うん……うん」
喉に力を入れ、嗚咽が漏れないよう、涙が止まるように、ただただ頷いた。
再び宗光が腕に力を込めて俺を抱きしめる。今まで俺を守ってくれた胸の中は、今もやっぱり暖かった。俺はこの温もりを──今までのように、抵抗できない力に引き裂かれるのではない。自らの意志で、切り捨てるのだ。
「……ごめん、宗光……」
宗光の腕の力が徐々に抜けていく。それから、体を回されて、背中をぽん、と押し出された。
「謝らんでええ。……ほら、進め! 百合ちゃん、もう後ろは見んな。俺は根っからの関西人やから、あとを引くんは苦手なんや」
言葉に従い、前だけを向いて歩き出す。言葉の最後が震えている宗光の、精一杯の意地と優しさが伝わったから
────ありがとう、宗光……。
真っすぐな長い廊下を渡り、曲がり角に来て一度体を止める。目の縁に残っていた涙を拭いて、無意識に抑えていた呼吸を整えた。
ふと庭を見ると、保科様と蘭が打ち水をしている。
保科様が、蘭が持つ重そうな水桶を一緒に持ち、よろけそうな体を支え、蘭はためらいなく保科様の胸元に体を預ける。
穏やかで、そこだけ空気が違うように見えた。
ああ、本当にもう、俺とは違う世界なんだな、と実感する。
「百合様!」
蘭が気づいて駆け寄り、保科様もゆっくりと向かっていらっしゃった。
俺は自然に礼を捧げていた。
「お邪魔しております。保科様も蘭もお変わりなくお過ごしのこと、大変喜ばしく思います」
「あぁ、ありがとう……。百合、宗光とは」
「はい。今しがたお別れを。私はこれから華屋に戻ります。……保科様、此度の慶事、聞き及んでおります。蘭をどうか宜しくお願いいたします。 蘭、良かったね。幸せになるんだよ」
今しがた宗光の前で感情を出し切ったからだろうか。それとも、日常の穏やかな光景に当てられたからなのか、いや、陰間としての条件反射か……自分でも驚くくらい、穏やかにあっさりと言葉が出て、舞台の上から客席に落とすように微笑めていた。
***
その後、しばらくして蘭の落籍の儀が執り行われた。
今回は花街を取り仕切る保科家への転籍だったから、儀式は華屋ではなく保科家で盛大に行われ、たんまりご祝儀をもらったらしい旦那と女将は「良い式だった」と頬を上気させて帰って来た。
旦那が式の様子を話そうとしてくれたけど、俺はもう聞かなかった。知ってどうなるものでもないと思っていたから。
街の人は祝いの影で色々と噂をしていたようだけど、それも一時のこと。江戸の日々はめまぐるしい。皆の関心事はどんどん新しいことに移っていった。
俺もまた、市山座との打ち合わせと最後の演目に追われて日々を過ごし、気づけば暦は師走。
俺が江戸に来て丸三年が過ぎ、いよいよ歌舞伎座三座への入座の日が、三ヶ月先まで近づいていた。
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