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X 追憶-崩壊- -II

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 それから暫くして、マリアとエリオット先生は結婚した。私が丁度、16歳になった頃だ。2人が恋仲になった事は薄っすらと気付いていたが、どうやら先生からの熱烈なプロポーズに根負けして、マリアは先生と共に生きる事を決めたらしい。
 マリアは結婚するにあたって、先生に条件を出していた。それは、エリオット先生と同じ姓にならず、今まで通りマリア・ウィルソンとして生きさせて欲しい、という事と、過去を詮索する様な事はしないで欲しい、というものだった。
 姓を変えてしまえば、彼女が元舞台女優だという事を他者に気付かれる心配はない。しかし、マリアは舞台女優だった自身の過去を誇りに思っている様だった。その名を、決して捨てたくは無かったらしい。
 1度は捨てた姓であったが、“あの事”があって考えが変わった様だった。

 ――先生とマリアが結婚をして、2年程が経った頃だろうか。マリアは先生によく似た、可愛い女の子を産み落とした。先生と同じく色素が薄く、ブルーグレーの双眸そうぼうに透き通る様な白い肌。ノエルと名付けられたその赤子は本当に美しく、良く出来たお人形の様だった。
 18歳だった私は、ノエルが生まれる1年前にセドリックと共にブローカー業を始めていた為、毎日仕事で忙しかった。それでも、医者である先生と看護婦のマリアは私以上に忙しく、ノエルを育てる事にまで手が回らないのではないかと不安を抱き、頻繁に診療所に通い詰めた。
 案の定、マリアは先生のサポートをしなければならないから、と言って産後休むことなく看護婦へ復帰し、放置されているノエルの姿を見る事が多くなった。
 幾ら仕事が忙しいとはいえ、それが子育てを放置していい理由にはならない。そう思った2人は、乳母うばを雇う事も視野に入れていたそうだ。しかし、私が頻繁に診療所に出入りしノエルの世話を焼いてるのを見て、自然とその考えは消えて行ったらしい。その後どれだけ待っても、乳母が雇われる事は無かった。

 見違える程に強く逞しくなったマリアと、いつも優しい、家族思いのエリオット先生。そして、健やかに育つ可愛い娘のノエル。誰が見ても幸せな家族で、私も3人と居る時はその家族の一員になれた様に感じて嬉しかった。

 ――しかし、その幸せが長く続く事は無かった。

 ノエルが産まれて3年。信頼を置いていた先生が、突然姿を消した。
 マリアの話によると、朝起きた時には既に先生の姿は無かったらしい。マリアは、いつもより随分と早い時間だが、一階に降りて仕事をしているのだろうと思い込み最初は深刻に捉えなかったそうだ。それからのんびりと支度をし、ノエルに朝食を食べさせ、一階に降りた時、ある筈だった先生の姿は無かった。
 それでもマリアは、どうせ黙って買い出しにでも出ているか、ふらふらと散歩にでも出かけてしまったのだろうと1人で診療所を開いた。
 異変に気付いたのは、正午を迎えた時。その日は幸いにも急患が来る事は無く、昼まで穏やかな時間が続いた。私が診療所を訪れたのはその時だ。

「先生、どうしたの?」

 私の問いに、マリアは不安気な表情を浮べて首を横に振った。

「朝から姿が見えないの。置手紙も何も無くて、一体何処へ行ってしまったんだか」

 彼女と会話を交わしながら、私はいつもの様にカーテンの奥へ進み、床に座り込んで小さな木の玩具で遊んでいるノエルに近付く。
 ノエルの傍にしゃがみ込むと、彼女が顔を上げて私と視線を合わせた。

「パパどこ行っちゃったの?」

 なんと無しにノエルに尋ねてみると、彼女は興味を失った様に手元の玩具おもちゃに視線を戻し、「しらない」と一言不愛想に告げた。

「今まで、あの人がこんな風に居なくなってしまう事なんて無かったから……どうしたらいいのか……」

「大丈夫、直ぐに帰ってくるよ。きっと、何か事情があるんだと思う」

「だといいけど……」

 マリアの心中は、不安に満ちている。しかしそれも無理もないだろう。自身の夫が、朝起きたら忽然と消えてしまっていたのだから。
 私自身も、こんな事は過去に一度も無かった為酷く動揺していた。何か事情があるにしても、妻と子に何も伝えず消えてしまうなんて事があるのだろうか。今までにない、焦燥感の様な感情に駆られながらも、マリアを不安にさせぬ様にとなるべく明るく振る舞った。

 ――それから、4日が経過した。
 マリアは患者の為にと不安な中精一杯看護婦として勤め、私は仕事の時間を削って先生を探し続けた。それでも、先生を見つけ出す事は出来なかった。

 そして先生が消えて4日目の夜、恐るべき事が起こった。
 マリアとノエルが住む診療所の2階に、借金取りを自称する男2人が押し入ったのだ。
 丁度その時、マリア達と共に2階で先生の行方について、そして今後の事について話をしていた。故に、私は2人の傍に居たのだ。なのに、あまりに突然の事で対処も何も出来なかった。
 借金の返済を求める男2人がマリアに手を上げた時、私は恐怖に泣き喚くノエルを抱きしめる事しか出来なかった。自分自身も、その状況に恐怖を感じていた。
 今思えば、私が冷静な判断さえ出来ていれば男2人を止める事位は出来たかもしれない。私は、護身術を身に着けていたのだから。
 しかし、私の頭が冷静に働く事は無かった。素手で顔を殴られ、倒れ込むマリアの腹を足蹴りにする男2人の姿は、今でも脳裏に焼き付いたまま離れる事は無い。

 男2人が去り際残していった借用書には、確かに先生――エリオット・ティンバーレイクの名前があった。そして保証人の欄には、マリア・ウィルソンの名が書かれていた。その文字が、マリアの字では無く先生の字であるという事に気付くのはそう難しい事では無かった。
 男が去った後、私は“あの時”の様に痣だらけになってしまったマリアに借金の事を問い詰めた。しかし、マリアは先生から何も聞かされていない様であった。

 最悪の事態が起こってしまったと、私はただ借用書を眺めながら呆然としていた。
 しかしそれは、ただの崩壊の始まりに過ぎなかったのだ。その時の私は、まだその事に気付く事が出来なかった。
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