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第四夜:角部屋の女霊
除霊オペレーション(2)
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流水には清めの力があると言われる。
厄、ケガレといった悪いものを、流水で心身から祓い落として自分を清めるのだ。この考えは、所謂いわゆる『禊みそぎ』として今なお残っているし、『水に流す』という慣用句の由来でもある。他には『流し雛の儀』も有名だ。
七瀬が考えた方法は、その流し雛を真似たものになる。つまり、幽霊を水に流して浄化させようという訳だ。
これをするにはまず幽霊が入るための器が要るが、それは人型に切った白い紙で十分役目を果たしてくれる。
だが、幽霊は自力で器に入ることが出来ない。そこを解決するために、誰かに幽霊を取り憑かせる必要が出てくるのだ。幽霊をその人にとっての『厄』と見立てることで、簡単に器へと吹き込むことが出来る。
言い方を変えれば――一度誰かに幽霊を憑依させない限り、成功が難しいどころか、儀式さえまともに始められない。
「もし、もし幽霊を先輩に憑かせて、何か取り返しのつかないことが起きたら……」
誰かに幽霊が憑依している時、一つの体に二人分の魂が入っていることになる。乗車率は二百パーセント。当然そんな状態で正常運転出来る筈もなく、大抵は熱や肩こりといった具合に症状が出てくるものだ。
すぐさま命には関わる訳ではないが、渚の心配ももっともではある。
「――大丈夫、きっと何も起こらないよ」
七瀬はそう応えてから、微かに笑ってみせた。彼女の不安を宥めるためなら、少しくらい楽観的になっても許されるだろう。
「それとも、僕が信じられない?」
「……ずるいですよ、先輩。そんなの、“はい”としか返せないじゃないですか」
「そうだね、ごめん。でもほら、美沙さんだって成仏する気はあるみたいだから。上手くいくと思うよ」
その言葉を聞いて、渚もついに観念したようだった。苦笑がその顔に浮かぶ。
「……分かりました。その代わり、もし何かあったら私を呼んでください。助けに行きますから」
「うん。そうなった時はお願い。頼らせてもらうね」
「――二人とも、話は纏まったか?」
ここまでのやりとりを黙って聞いていた部長が口を開いた。
渚ともう一度視線を合わせた後、二人揃って肯き返す。
「よし。……わたしはこういう事の知識はさっぱりだから、あまり役には立てない――自分のことなのにな。それでも出来ることはさせてもらうぞ。確か、準備するものがあるんだったよな?」
「人型の白い紙、ですよね。私の記憶だと、紙は普通のもので大丈夫だった筈です」
「それならコピー用紙があるな。取って来よう」
そう言って、部長は寝室へと姿を消した。
彼女が戻ってくるまで特にすることもなく、手持ち無沙汰になったなと七瀬が思っていた時、渚にそっと肩を叩かれた。見れば、彼女は七瀬に向けて小さく手招きをしている。
「どうしたの?」
「……少し、訊いておきたいことが」
言いながら、視線を短く幽霊の方に向けた。どうやら幽霊にはあまり聞かれたくない話らしい。
幸いにも幽霊は、興味が無いのか、近づいてくる気配はない。
渚の傍まで行って耳を傾けた。彼女もまた七瀬に顔を寄せる。そして、二人以外には聞こえないような囁き声でこう訊いてきた。
「私が見ていたものが、先輩とまったく同じという保証はありません。ただ、それを踏まえて一つ訊かせてください」
「いいよ。何だい? 言ってみて」
「最後、意識がこっちへ戻ってくる直前、幽霊が首を吊ったまま私たちの方へ迫ってきましたよね」
「そうだね。僕も同じものを見た」
「先輩はその時、何かを感じませんでしたか?」
「何か、って……? 『許さない』っていう声は聞こえていたけど」
七瀬が訊き返すと、渚は少し逡巡を見せてから、応えた。
「恐怖、です。幽霊――美沙さんが、何かを怖がっているように感じたんです」
※
準備は終わった。
形代となる紙は胸ポケットの中に入れてあり、いつでも取り出せる状態だ。持ってきたショルダーバッグは、全てが終わるまで渚に預かってもらっている。
これからの手筈も確認済み。まず、幽霊を体に取り憑かせたまま、儀式の場所――近くの川原まで歩いて移動する。そこで幽霊を形代へと吹き込んでから、それを川に流せばお仕舞いだ。流れる水が彼女の魂を清めて、成仏へ導いてくれる。
――後は、僕が少しだけ勇気を出せばいい。
“幽霊に憑依される”。七瀬の人生で、これまでそんな経験は無かった。どんな感覚がするのか、どんな気分になるのか、これっぽっちも分からない。
肩が重くなる、とか。頭が痛くなる、とか。そんな証言は、調べれば幾らでも出てくることだろう。
だがそれらは、所詮言葉にすぎない訳で。彼らの経験全てをそこから窺い知ることは、実際問題として不可能だ。
「それじゃあいこうか、美沙さん」
深呼吸をすると、緊張が微かに和らぐ。
七瀬はゆっくりとした動作で、自身の右手を幽霊の方へと差し出した。
「いいよ。――入って来て」
幽霊が手の甲に触れた――かと思えば次の瞬間には、その姿は目の前から消え去って、七瀬へ乗り移ってくる。
すぐさまやってきたのは、誰かにのしかかられているような感覚だった。
足もとから寒気が這い上がってくる。全身から嫌な汗が噴き出る。見えない手で、心臓を掴まれている感覚がする。
幽霊の髪の毛らしきものが数本、視界を縦断するように垂れ下がっていた。
「くっ……、結構……辛いんだね、これ」
格別何かをしなくても、幽霊が取り憑いているだけで精気は吸いとられていく。精気というのは、生命が持っているエネルギーのようなものだ。
――しかし、これは。
予想以上に負担が大きく、歩くことすら重労働に思えた。この感覚を言葉で表すにはどうしたらいいのだろう。
風邪とインフルエンザとマイコプラズマ肺炎が、まとめて襲い掛かってきたような。
あるいは、マラソンを走り終えた後の疲労感が延々と続いているような。
どれも的を得ているようだが、やはり何か足りない気がする。
「肩を貸してやる。――渚、入口の扉を開けといてくれ」
「……助かります」
「気にするな。これくらいしか出来ないからな」
部長に支えて貰いながら玄関へ向かう。靴を履く辺りで、自分の息が荒くなっていることに気が付いた。
「渚ちゃん。今の僕……、渚ちゃんからはどんな風に見える?」
「……先輩の肩から、美沙さんの上半身が突き出て先輩にしがみついています。先輩は……すごく、苦しそうです」
「……分かった。ありがとう」
外へ出た七瀬を、真夏の容赦ない熱気が弄っていく。空では太陽が燃え上がっていた。これからこの炎天下を、目指す川まで歩く――過酷なことは言うまでもない。
体力が足りるかどうかは、どうやら賭けになりそうだった。
※
途中で休憩を挟みながら、ようやく目的地に辿り着いた頃には、七瀬はヘトヘトだった。
倒れることなくここまで来れただけでも幸運だろう。直射日光と道路の照り返しが合わさって、体力の減少も二倍のペースだった。
汗が服に染み込んで、肌に張り付いているのがこれまた気持ち悪く。我関せずとばかりに、上空で照り輝いている太陽が恨めしい。
今目の前にあるのは、陽光を反射して煌めく川の流れだ。ここは中流域にあたる位置で、川幅もさして広くない。川岸のほとんどは蒲や菖蒲で覆われているが、軽く見回してみると、所々にその群生が途切れている箇所があった。
そこなら川の水にも直接触れられて、儀式にもってこいの場所だ。
肩を貸してくれていた部長に、手で合図を送った。部長は小さく肯いてから、七瀬を水際に残して、後ろにいる渚の所まで下がる。
七瀬と二人の距離は凡そおよそ五メートル程。何かあったときに巻き込まれず、されど互いの声は届きすぐに助けに来れる絶妙な間隔だ。
形代を取り出して、地面に膝と片腕を付き、丁度水面を覗き込むように前へと屈み込む。
そして目を閉じると、心の中で幽霊へ呼びかけた。
『準備はいい? 説明した通りに、僕が息を吹くのと合わせてこの中へ移って』
返事は無かった。少し不安になったがよく考えれば、彼女は喋れないのだからこれで問題ない。
『……行くよ』
合図と同時に、形代へ息を吹きかける。こちらへ移りますようにと念じながら。
そうすると幽霊は七瀬を離れて形代へ宿り、掛かっていた負担も消える――筈だった。
だが現実は違った。予定の通り進めたにも関わらず、七瀬が息を吹きかけた後も、幽霊は彼の身体にとどまったままだったのだ。
――おかしいな。
こちらの動きに問題は無かった。ならば彼女の方が、上手くいかなかったのだろうか。
ともあれもう一度だ。次は、きっと成功してくれるだろう。
そう思いながら七瀬は再び息を吹きかけた。だが今回もまた、幽霊は形代へ移れなかった。
――いや、違う。
もし幽霊が形代へ移ろうとしていたなら、憑依されている側も何かしら感じる筈だ。だが、一度目も二度目も、そんな感覚は一切感じなかった。
まるで、元からそうするつもりなどないかのように。
「……ふふっ」
女性の笑い声が聞こえてくる。今この状況からして、それを発したのは幽霊の他にありえない。
いやそれ以前に、どうしてこんなタイミングで、笑うことが出来るのだろう。
「美沙さん……? どうかし――」
七瀬は最後まで言い終わることが出来なかった。彼が疑問を覚えたのと同時に、今までの数倍の負荷が全身に掛かったからだ。
「うぐっ……」
首から上と、形代を持っていた右手とを除いて、身体が動かせなくなる。金縛りだ。
心の底に押し込んでいた筈の恐怖と焦りが、予期し得ぬ事態と共に舞い戻ってきた。
幽霊がどういうつもりかは分からない。ただおそらく、もはや彼女に、おとなしく成仏するつもりはない。
最善に思えた道筋が、実は最悪の選択肢だったということだ。
「――ごめんね、ダマしちゃって」
幽霊が、嘲るような口調で言う。
喋れない筈なのに。そう訊いた時、確かに頷いていた筈なのに。
「嘘だった? 美沙さん……どうしてこんなこと」
「“美沙さん”、ね。キミ、誰のことを言ってるのかな?」
「それは、もちろん――」
“貴女のことだ”と続けようとして、ふと引っかかりを感じる。
質問がおかしいのだ。彼女が本当の美沙ならば、今の問いは、自分で自分の存在を否定していることになる。
と、なれば。考えられる可能性は一つしか残らない。
七瀬の中で、確信にも似た一つの悪い予想が組み上がった。
「貴女は……美沙さんじゃない?」
幽霊は七瀬の耳元に顔を近づけ、一言囁く。
「――そうよ」
それはまるで、獲物を狙う毒蛇のようだった。
厄、ケガレといった悪いものを、流水で心身から祓い落として自分を清めるのだ。この考えは、所謂いわゆる『禊みそぎ』として今なお残っているし、『水に流す』という慣用句の由来でもある。他には『流し雛の儀』も有名だ。
七瀬が考えた方法は、その流し雛を真似たものになる。つまり、幽霊を水に流して浄化させようという訳だ。
これをするにはまず幽霊が入るための器が要るが、それは人型に切った白い紙で十分役目を果たしてくれる。
だが、幽霊は自力で器に入ることが出来ない。そこを解決するために、誰かに幽霊を取り憑かせる必要が出てくるのだ。幽霊をその人にとっての『厄』と見立てることで、簡単に器へと吹き込むことが出来る。
言い方を変えれば――一度誰かに幽霊を憑依させない限り、成功が難しいどころか、儀式さえまともに始められない。
「もし、もし幽霊を先輩に憑かせて、何か取り返しのつかないことが起きたら……」
誰かに幽霊が憑依している時、一つの体に二人分の魂が入っていることになる。乗車率は二百パーセント。当然そんな状態で正常運転出来る筈もなく、大抵は熱や肩こりといった具合に症状が出てくるものだ。
すぐさま命には関わる訳ではないが、渚の心配ももっともではある。
「――大丈夫、きっと何も起こらないよ」
七瀬はそう応えてから、微かに笑ってみせた。彼女の不安を宥めるためなら、少しくらい楽観的になっても許されるだろう。
「それとも、僕が信じられない?」
「……ずるいですよ、先輩。そんなの、“はい”としか返せないじゃないですか」
「そうだね、ごめん。でもほら、美沙さんだって成仏する気はあるみたいだから。上手くいくと思うよ」
その言葉を聞いて、渚もついに観念したようだった。苦笑がその顔に浮かぶ。
「……分かりました。その代わり、もし何かあったら私を呼んでください。助けに行きますから」
「うん。そうなった時はお願い。頼らせてもらうね」
「――二人とも、話は纏まったか?」
ここまでのやりとりを黙って聞いていた部長が口を開いた。
渚ともう一度視線を合わせた後、二人揃って肯き返す。
「よし。……わたしはこういう事の知識はさっぱりだから、あまり役には立てない――自分のことなのにな。それでも出来ることはさせてもらうぞ。確か、準備するものがあるんだったよな?」
「人型の白い紙、ですよね。私の記憶だと、紙は普通のもので大丈夫だった筈です」
「それならコピー用紙があるな。取って来よう」
そう言って、部長は寝室へと姿を消した。
彼女が戻ってくるまで特にすることもなく、手持ち無沙汰になったなと七瀬が思っていた時、渚にそっと肩を叩かれた。見れば、彼女は七瀬に向けて小さく手招きをしている。
「どうしたの?」
「……少し、訊いておきたいことが」
言いながら、視線を短く幽霊の方に向けた。どうやら幽霊にはあまり聞かれたくない話らしい。
幸いにも幽霊は、興味が無いのか、近づいてくる気配はない。
渚の傍まで行って耳を傾けた。彼女もまた七瀬に顔を寄せる。そして、二人以外には聞こえないような囁き声でこう訊いてきた。
「私が見ていたものが、先輩とまったく同じという保証はありません。ただ、それを踏まえて一つ訊かせてください」
「いいよ。何だい? 言ってみて」
「最後、意識がこっちへ戻ってくる直前、幽霊が首を吊ったまま私たちの方へ迫ってきましたよね」
「そうだね。僕も同じものを見た」
「先輩はその時、何かを感じませんでしたか?」
「何か、って……? 『許さない』っていう声は聞こえていたけど」
七瀬が訊き返すと、渚は少し逡巡を見せてから、応えた。
「恐怖、です。幽霊――美沙さんが、何かを怖がっているように感じたんです」
※
準備は終わった。
形代となる紙は胸ポケットの中に入れてあり、いつでも取り出せる状態だ。持ってきたショルダーバッグは、全てが終わるまで渚に預かってもらっている。
これからの手筈も確認済み。まず、幽霊を体に取り憑かせたまま、儀式の場所――近くの川原まで歩いて移動する。そこで幽霊を形代へと吹き込んでから、それを川に流せばお仕舞いだ。流れる水が彼女の魂を清めて、成仏へ導いてくれる。
――後は、僕が少しだけ勇気を出せばいい。
“幽霊に憑依される”。七瀬の人生で、これまでそんな経験は無かった。どんな感覚がするのか、どんな気分になるのか、これっぽっちも分からない。
肩が重くなる、とか。頭が痛くなる、とか。そんな証言は、調べれば幾らでも出てくることだろう。
だがそれらは、所詮言葉にすぎない訳で。彼らの経験全てをそこから窺い知ることは、実際問題として不可能だ。
「それじゃあいこうか、美沙さん」
深呼吸をすると、緊張が微かに和らぐ。
七瀬はゆっくりとした動作で、自身の右手を幽霊の方へと差し出した。
「いいよ。――入って来て」
幽霊が手の甲に触れた――かと思えば次の瞬間には、その姿は目の前から消え去って、七瀬へ乗り移ってくる。
すぐさまやってきたのは、誰かにのしかかられているような感覚だった。
足もとから寒気が這い上がってくる。全身から嫌な汗が噴き出る。見えない手で、心臓を掴まれている感覚がする。
幽霊の髪の毛らしきものが数本、視界を縦断するように垂れ下がっていた。
「くっ……、結構……辛いんだね、これ」
格別何かをしなくても、幽霊が取り憑いているだけで精気は吸いとられていく。精気というのは、生命が持っているエネルギーのようなものだ。
――しかし、これは。
予想以上に負担が大きく、歩くことすら重労働に思えた。この感覚を言葉で表すにはどうしたらいいのだろう。
風邪とインフルエンザとマイコプラズマ肺炎が、まとめて襲い掛かってきたような。
あるいは、マラソンを走り終えた後の疲労感が延々と続いているような。
どれも的を得ているようだが、やはり何か足りない気がする。
「肩を貸してやる。――渚、入口の扉を開けといてくれ」
「……助かります」
「気にするな。これくらいしか出来ないからな」
部長に支えて貰いながら玄関へ向かう。靴を履く辺りで、自分の息が荒くなっていることに気が付いた。
「渚ちゃん。今の僕……、渚ちゃんからはどんな風に見える?」
「……先輩の肩から、美沙さんの上半身が突き出て先輩にしがみついています。先輩は……すごく、苦しそうです」
「……分かった。ありがとう」
外へ出た七瀬を、真夏の容赦ない熱気が弄っていく。空では太陽が燃え上がっていた。これからこの炎天下を、目指す川まで歩く――過酷なことは言うまでもない。
体力が足りるかどうかは、どうやら賭けになりそうだった。
※
途中で休憩を挟みながら、ようやく目的地に辿り着いた頃には、七瀬はヘトヘトだった。
倒れることなくここまで来れただけでも幸運だろう。直射日光と道路の照り返しが合わさって、体力の減少も二倍のペースだった。
汗が服に染み込んで、肌に張り付いているのがこれまた気持ち悪く。我関せずとばかりに、上空で照り輝いている太陽が恨めしい。
今目の前にあるのは、陽光を反射して煌めく川の流れだ。ここは中流域にあたる位置で、川幅もさして広くない。川岸のほとんどは蒲や菖蒲で覆われているが、軽く見回してみると、所々にその群生が途切れている箇所があった。
そこなら川の水にも直接触れられて、儀式にもってこいの場所だ。
肩を貸してくれていた部長に、手で合図を送った。部長は小さく肯いてから、七瀬を水際に残して、後ろにいる渚の所まで下がる。
七瀬と二人の距離は凡そおよそ五メートル程。何かあったときに巻き込まれず、されど互いの声は届きすぐに助けに来れる絶妙な間隔だ。
形代を取り出して、地面に膝と片腕を付き、丁度水面を覗き込むように前へと屈み込む。
そして目を閉じると、心の中で幽霊へ呼びかけた。
『準備はいい? 説明した通りに、僕が息を吹くのと合わせてこの中へ移って』
返事は無かった。少し不安になったがよく考えれば、彼女は喋れないのだからこれで問題ない。
『……行くよ』
合図と同時に、形代へ息を吹きかける。こちらへ移りますようにと念じながら。
そうすると幽霊は七瀬を離れて形代へ宿り、掛かっていた負担も消える――筈だった。
だが現実は違った。予定の通り進めたにも関わらず、七瀬が息を吹きかけた後も、幽霊は彼の身体にとどまったままだったのだ。
――おかしいな。
こちらの動きに問題は無かった。ならば彼女の方が、上手くいかなかったのだろうか。
ともあれもう一度だ。次は、きっと成功してくれるだろう。
そう思いながら七瀬は再び息を吹きかけた。だが今回もまた、幽霊は形代へ移れなかった。
――いや、違う。
もし幽霊が形代へ移ろうとしていたなら、憑依されている側も何かしら感じる筈だ。だが、一度目も二度目も、そんな感覚は一切感じなかった。
まるで、元からそうするつもりなどないかのように。
「……ふふっ」
女性の笑い声が聞こえてくる。今この状況からして、それを発したのは幽霊の他にありえない。
いやそれ以前に、どうしてこんなタイミングで、笑うことが出来るのだろう。
「美沙さん……? どうかし――」
七瀬は最後まで言い終わることが出来なかった。彼が疑問を覚えたのと同時に、今までの数倍の負荷が全身に掛かったからだ。
「うぐっ……」
首から上と、形代を持っていた右手とを除いて、身体が動かせなくなる。金縛りだ。
心の底に押し込んでいた筈の恐怖と焦りが、予期し得ぬ事態と共に舞い戻ってきた。
幽霊がどういうつもりかは分からない。ただおそらく、もはや彼女に、おとなしく成仏するつもりはない。
最善に思えた道筋が、実は最悪の選択肢だったということだ。
「――ごめんね、ダマしちゃって」
幽霊が、嘲るような口調で言う。
喋れない筈なのに。そう訊いた時、確かに頷いていた筈なのに。
「嘘だった? 美沙さん……どうしてこんなこと」
「“美沙さん”、ね。キミ、誰のことを言ってるのかな?」
「それは、もちろん――」
“貴女のことだ”と続けようとして、ふと引っかかりを感じる。
質問がおかしいのだ。彼女が本当の美沙ならば、今の問いは、自分で自分の存在を否定していることになる。
と、なれば。考えられる可能性は一つしか残らない。
七瀬の中で、確信にも似た一つの悪い予想が組み上がった。
「貴女は……美沙さんじゃない?」
幽霊は七瀬の耳元に顔を近づけ、一言囁く。
「――そうよ」
それはまるで、獲物を狙う毒蛇のようだった。
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