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3夜:七瀬のお守り

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 小さい頃。お盆の到来が七瀬には待ち遠しかった。
 何故かというと理由は単純。毎年その時期に母方の実家への帰省イベントがあったからだ。普段とは違う広い家に興奮し、近所の野良猫と縁側で戯れる。夜にはみんなで集まって、豪華なご飯を食べた後で花火をする。それがまるで旅行みたいで、夏休みになると毎年お盆の時期を今か今かと待ちわびていたものだ。
 七瀬の家は一般的に田舎と称されるような所にあるが、母方の実家はそれに輪をかけた過疎地域にあった。
 だから当然、自然が豊かだった。
 実家の前を流れる川を橋の上から覗けば、踊るように泳ぐ魚の姿が見えて。ふと気付けば網戸にカブトムシがとまっていたり。裏山も小学生特有の好奇心を絶妙にくすぐってくれた。一度イノシシを見かけたことだってあるのだ。
 そんな風景が、七瀬は好きだった。だから毎年実家に行く度に、暇を見つけては一人で田舎道を歩き回っていた。自由気ままに思いのままに。今思うと、一度も迷子にならなかったのは随分運が良かった。

 ※

 小学五年生の事だった。
 その年も七瀬は、水筒と帽子を持って当てもなくほっつき歩いていた。
 右手の山からは蝉の大合唱、左手からは川のせせらぎが聴こえる。どこからか響いてくる乾いた音は鳥避けの空砲。メロディーにアクセントを添えていく。それらはここでしか聴くことの出来ない天然のオーケストラだ。楽譜も指揮者もいない、一度限りの演奏。そして目の前には、絵に描いたような日本の原風景がある。

 ――今日は何をしようかな。

 そんな事を考えていた。考えている内に、七瀬は十字路に差し掛かった。三方向を順番に眺めて、どちらへ進むかひとしきり迷った。

「どーちーらーにしーよーうーかーなっ、と」

 子供特有の無邪気さに任せて、片方の靴を空へと放る。
 落ちたそれは右を向いた。だから七瀬は右に行くことにした。ちっぽけな理由だけど、子供なんてそんなものだ。理由はあることに意味がある。
 その後に起きることなど、当時は勿論知るはずも無い。

 ※

 道の両脇には田んぼが広がっていて、新たな曲がり角に出会うことは無かった。田舎全般にも言えることだが、この辺りの田んぼ道はどこも似たようなものである。見慣れない人間の眼には、もしかすると味気ない緑一色に映るかもしれない。
 灰色のアスファルトを辿って行くと、鬱蒼と茂った木立の入り口に行き着いた。その先はよく見えない。少し迷ったが、七瀬は進むことにした。
 そこは自然の木々が作ったトンネルのようだった。頭上は鬱蒼と茂る緑で覆い隠されていて、刺すような日差しから七瀬を守っていた。きっと空からは、この道は見えやしないだろう。足下に引かれた柔らかなカーペットは、いつの物とも知れない落ち葉で出来ている。どこからか聞こえるセミの鳴き声。車の音も、近所の人の話し声も、ここにまでは届かない。別世界に入ってしまったような感じがした。
 風が吹く。ひんやりとした風。カサカサという草の葉擦れに、ますます涼しさが掻き立てられる。

「へくちっ」

 くしゃみが出た。

 ※

 さらに歩いて行くと、一転して開けている所に出た。四方を木々に囲まれた小さめの広場――一言で言えばそんな具合だ。
 地面には種々雑多な山野草が入り乱れて咲いている。その頃の七瀬は今程詳しくなかったので、ほとんどが同じ植物に見えた。シロツメクサだけ唯一分かった。
 それにしても、どうしてここだけ木が生えていないのだろう。
 誰かが切り開いたのだろうか。だがそれにしては、人の痕跡が見当たらない。足下は軽く踏み固められているようだったけれど、はっきりとした足跡は見当たらなかった。

 ――不思議な所。

 あれだけ大きかった蝉の鳴き声も、いつのまにか無くなっている。
 けれどその時七瀬が感じていたのは、怖さではなく安心感だった。それは、今が日中だったというのもあったのかもしれない。あるいは秘密基地めいた独特の雰囲気に、子供心をくすぐられたのかもしれない。
 いずれにせよはっきりとは断定出来ないが、少なくともあの時、危険を覚えていなかったのは確かだ。
 辺りを見回してみると、左の方に唯一人の痕跡らしき物があった。
 せり出すように生えている枝の影で、小ぶりな祠がひっそりと苔を纏っていたのである。丁度七瀬の胸くらいまでの高さで、正面にこれまた小さな両開きの扉があった。鍵は付いていない。きっと、いたずらで開けるような人などいないのだ。
 柱に黒い文字で何か書いてある。しかし掠れてしまっていて、ほとんど字の様相をなしていなかった。

「……と、………を、…百…………森の………米……に……る………?」

 早々に解読を諦める。

「………分かんない」

 ぐるりと一周してみようか。
 ふとそんなことを思った。もしかすると、何か他にも見つかるかもしれない。

 ※

 広場の縁の部分を丁度半分まで回った頃、一輪の花の前で七瀬の足は止まった。
 それは種類こそ分からないけれど、シャンと伸ばせば七瀬の背をも越えてしまいそうな程に立派な花だった。しかし今、花は茎の丁度真ん中あたりからグニャリと折れ曲がってしまっている。
 風に煽られたのか。それとも何かが当たったのだろうか。優しく起こしてやると、先端のつぼみに土が付いていた。
 手を放せばまたすぐに曲がってしまう。自力では立てそうにない。
 このまま放っておけば、このつぼみに待っているのはきっと、咲くことも出来ずに枯れていく最悪の未来だ。力尽き、茶色くなって人知れぬまま、草木の仲に埋もれていく。
 頭の中に浮かんだそんな光景が、まるで虫のように、七瀬の旨をチクリと刺してきた。

 ――放っておけない。

『目の前で誰かが困っていたら、助けてあげなさい』と、祖母からよく言われていた。花は“誰か”ではないけれど、だからと言ってこのまま無視するのはあまりにも心苦しい。幸いにもまだ折れた方は生き生きとしている。こうなって間もないのだろう。なら、きっとまだ間に合う。
 取り敢えず、何か支えになりそうなものが必要だった。長くて棒状のものなら何でもいい。
 ふと目に留まった長めの枝を、走って行って拾い上げる。手が汚れたけど構わない。両足を踏ん張って、花の根元に力一杯差し込んだ。
 軽く押してみて、刺さり具合を確認。台風が来たら分からないけれど、当面はこれで大丈夫そうだ。
 最後に、手頃な草の穂を数本。綱代わりにして、立たせた花と枝とを括りつける。

「――よし」

 直立とまではいかないが。支えを得た花は何とか自力で立ち上がった。数歩離れた所から改めてそれを見て、七瀬は安堵の息をついた。両手についた土を払い落す。

 その時だ。

「――なに、してるの?」

 不意に。唐突に。
 あどけない声が、後ろから聞こえてきた。
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