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第一夜:怪奇譚の始まり

家主との遭遇

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 周りに細心の注意を払いながら、二人はリビングへつながる扉を開けた。
 赤茶けた絨毯に革張りのソファ。埃をかぶった薄型テレビに枯れた観葉植物の鉢。壁に掛けられた時計は、四時四十四分を指したままの状態で沈黙を保っている。これまでに訪れた風呂場や子供部屋よりも、ここには生活の面影が色濃く残っていた。
 だがどこまでいっても、それは面影でしかない。部屋に満ちている静けさこそが、目の前の営みは過去の物であることを示す何よりの証拠だった。
 部屋全体は、窓から差し込んでくる太陽の光によって一面白く照らされている。その中心に、霞のような人影がこちらを向いて浮かんでいた。体は透き通っており、向こう側の壁が見えている。風が吹けばすぐさまかき消えてしまいそうな程に頼りなく、霧が集まって出来たのかと錯覚する程におぼろげな存在だった。
 女性の幽霊。きっと、二階で遭遇した子の母親だろう。
 二人の闖入者を見つめるその表情は、まさしく能面の如く。時間の流れに感情の全てを擦り減らし尽くした痕跡がありありと見て取れる。
 彼女の顔には微笑が浮かんでいたが、違和感しか感じないものだった。まるで、笑い方そのものを忘れてしまったかのようだ。
 子供部屋の霊が“下に行って”と告げた目的は、自分達を彼女に会わせることだったのだろう。理由はまだ定かではないが。
 七瀬はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。緊張で唇が乾く。

「二階で出会った男の子に、ここに行くよう告げられました。おそらくは、貴方の息子さんに」
『ああ……』

 吐き出すような囁き声には、何もかもに疲れ果てた気だるさが滲み出ている。

『いかにも、それは私の息子です。私は別に、貴方達を呼んで欲しいといった覚えはないのですが。気を利かせてくれたようですね。それにしても――』

 幽霊はテーブルを突き抜けて、ゆっくりと二人の方へ歩いてきた。そして数歩分の距離を置いて止まると、見定めるように目を細めた。

『――珍しい人。驚かないのですね、私を見ても』
「幽霊なら毎日のように見てますからね。慣れたんですよ」

 部屋の中、埃めいた空間が徐々に張り詰めてくる。七瀬は努めて冷静に応えた。
 こうして接近しても、幽霊の雰囲気から悪意は感じられなかった。心霊スポットの住人にしては珍しいことに、こちらに危害を加えるつもりは一切なさそうだった。それどころかそもそも、さほど関心が無いように思える。
 だが油断をしていると地雷を踏みぬく恐れもあるため、用心するに越したことは無い。

『そう、貴方は幽霊が見えるのですか』
「今まさに見えているじゃないですか」
『それもそうですね。――そこの彼女も、貴女と同じ目を持っているようで』

 幽霊が息を吐く動作をすると、部屋の中は急に肌寒くなる。
 渚が意を決した様子で口を開いた。

「私の同級生を知りませんか。男の子三人がここに入って来た筈です。私たちは彼らを探しに来ました」
『高校生』
「勝手に入ったことは謝ります。探し人が見つかれば、すぐに出て行きますから」
『……おそらく彼らの事ですね。彼らなら今、家の裏で気を失っています。庭があったでしょう? その奥にいますよ。心配はいりません、無事ですから』
「外に?」

 七瀬が言う。

『ええ。息子の話だと、彼らは子供部屋で息子と出くわした後に、逃げだそうとして階段で足を滑らせ落下、気絶しました。どういう訳か見えてしまったようです。しょうがないので外に追い出したのですよ』
「外に追い出すって、どうやって」
『少しだけ、身体をお借りしました』

 起伏の無い声で幽霊が応えた。
 “身体を借りた”というのはきっと、憑依して身体を動かしたという意味だろう。たしかにそうすれば、高校生たちを外に運び出すことは――運ぶという表現が適切かどうかは分からないが――出来そうだ。
 だが――。

「……やけに、新切ですね」

 一般的な傾向として、幽霊、特に彼女のような自縛霊は、大なり小なり悪意を兼ね備えているものだ。
 見ず知らずの人間が勝手に自分のテリトリーに進入してきて、しかも気を失っている――取り憑いたり、何か危害を加えるには絶好の機会だろう。それなのに彼女は、高校生たちに何もせず、外に運んであげた。

 ――裏があるんじゃないだろうか。

 七瀬はそう思っていた。だから、あまり相手を刺激しない遠まわしな言い方で、鎌をかけてみたのだ。
 感情の読み取れない顔の下にあるのは、善意か悪意か。
 だが幽霊の応えは、そのどちらでもないものだった。

『私は、普通の幽霊とは違います』
「どういうことですか」
『私には恨みも未練もありません。誰かに危害を加えるつもりもない――その理由がないのですから。そして私は、ずっとこの家から出られない』
「出られない?」
『そう。魂そのものが風化して無くなってしまうまで、私は死んでからずっとここに縛られています。私が死んだこの場所に』

 そう言うと、彼女は長い息を吐いた。冷たい瞳の奥に微かな哀愁が垣間見え、白い煙のようなものがその口から漂っている。差し込む夕日に照らされてそれが微かな煌めきを帯びる様は、まるでダイヤモンドダストのようで、不謹慎ながら幻想的とさえ思えた。

『呪われているのです』
「……随分と、穏やかでなく聞こえますね」

 だが幽霊はそれに応えず、二人の方を見て尋ねた。

『貴方達二人は、怪奇を信じますか』

 意味が分からない。
 怪奇を信じるかどうかなら、勿論イエスだ。現にこうして、今目の前に怪奇がある。だが幽霊の質問には、それ以上の何かが隠されているようだった。幽霊の言う“怪奇”と、自分達がこれまで見てきた“怪奇”との間には、埋めがたい溝がある気がする。
 七瀬が応えに窮していると、渚が隣で口を開く。

「その質問は、ここが廃墟になった訳と関係がありますか」
『質問に質問で返すのですね』

 幽霊は、彼女の方をじっと見た。

『貴女の推測は、合っています。だけど答えは知らない方がいい。知らない方が幸せです。怪奇を遠ざける唯一の方法は、関わらないこと、ですから』

 その言葉は、何か、忘れ去られるべき忌まわしい記憶の存在を暗に示しているようだった。今二人が持つ情報だけでは、その中身を予想するのは不可能だ。
 だが一つだけ明らかなことがある。目の前の女性が幽霊になった理由は、事故や病気といった、ありきたりなものではない。それよりも遥かに理不尽で、遥かに悲劇的な、常識の及ばぬ魔性の犠牲となったに違いなかった。
 何しろ彼女の言葉が真実ならば、その魂は、死後もなお現世に縛り付けられているのだから。

『さあ、もう出て行きなさい。同級生たちを連れて。そしてもう、此処には来ないことです。私たちのことは忘れなさい』

 幽霊が冷たく言った。七瀬と渚は互いに顔を見合わせ、小さく頷き合う。
 謎が残るが、とりあえずここは退くのが正解――そう判断したのだ。

『二人とも』

 リビングの敷居を跨ぎかけた直前、幽霊が呼び止める。

『貴方たちの目は、私のような存在を見ることが出来るのでしたね。だったら一つ忠告しておきましょう。――これから先、“少女”にはお気をつけて』

 “少女”。日常生活でもよく耳にするようなたった二文字の言葉が、今この瞬間だけは、やけに不吉な響きを持って聞こえた。

「それは、一体どういう」

 問い返したが、幽霊は背中を向けて口を閉ざす。もう話は終わりだと、暗に伝えてきていた。


 ※


 不穏な予感を携えて、二人は廃墟を後にした。

 件の高校生たちは幽霊の言うとおり建物の裏で、積み重なった体勢で気を失っていた。見たところ怪我は無さそうで、七瀬も密かに安堵する。
 何となく上を見上げればヒビの入った廃墟の窓が目に入る。中を窺う事の出来ないそれは、ここから見ると黒い長方形のように見えた。
 意識を少年たちの方に戻そうとしたとき、ふと。何モノかが、その長方形を横切ったような気がした。
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