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後編
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少し憂鬱な気持ちで迎えた茶会の日。いつも通り、いや、いつもよりさらに気合いを入れて支度を整えた私は、家族と宮殿に乗り込んだ。元婚約者に自分とのことで落ち込んでいると、万が一にも思われないように、大げさなくらいに夏の花が咲き誇る庭園の美しさを褒めたたえ、友人との会話を楽しみ、おいしい紅茶と茶菓子に舌鼓を打った。
陽が傾き始め、影が伸びる頃、なんだか虚しくなってきた私は少し人混みを外れてため息をついた。
「あの、フランチェスカ様。少しよろしいかしら」
「えぇ、なんでしょう」
不意に声を掛けられ、余所行きの笑顔を貼り付けて振り返った先にはなんだか表情の険しい令嬢たちがいた。
にわかに私を囲んだ令嬢は、感情的に話を始める。取り留めない話をまとめるに、彼女たちはその中心にいる令嬢の恋人を、私が誘惑したのだといちゃもんをつけに来ているようだった。
「あ、あなたのせいで……マルコムとは婚約寸前だったのに」
何かされるんじゃないかと思わず身構えたが、対峙するのは見ていて気の毒になるくらい、か弱い感じの人だった。
「身に覚えがないわ、あっちから言い寄ってきたんだもの」
さらりと返事をしながら、心の中で毒づいた。あの野郎、同時並行で誘いをかけてたなんて最低だ。そんな人と破談になってよかったねとも思ったが、流石の私でも絶対に怒らせることがわかったので黙っていた。
正面の彼女は私が一言返しただけで黙り込んでしまったが、周りの令嬢が苛立ちを見せた。
「なんて言い草!」
「マルコム様がなびかなかったから、他の男に鞍替えしたんでしょう!?」
「そうよ、次期侯爵もいい迷惑ね」
待て待て。一体、どこの侯爵令息のことだ。またあらぬ疑いを掛けられたんじゃたまったものではない。
「次期侯爵? どなたのことかしら」
落ち着いて聞くと、鬼の首を取ったかのようにお仲間が言い放った。
「ジョン・ダールトン様のことよ。公園であなたたちのこと見かけたんだから!」
「え……」
予想外の場面で彼の名前を知ってしまい、私はうっかり固まってしまった。本当にジョン(確定)だったのか。ダールトン、という家名には私でも聞き覚えがあった。
私が動揺したことで、令嬢たちは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あら、知らなかったの? もしかして遊ばれてるんじゃない」
「いい気味。自分のしたことが返ってきたんだわ」
あんまりな物言いにかちんときた。ひとまずジョンには後で問い詰めようと決め、私は反撃に出た。彼が家名を私にだけ隠していたらしいことと、解くのを楽しみにしていた謎がこんな形で明かされたことに腹が立っていた。
「私はそんな低俗なことしないわ、マルコムと違ってね。私よりも彼の不実を責めるべきでしょう」
「なっ、なんですって」
怒りか動揺か、当事者の令嬢は既に涙目になっている。
「大体、婚約寸前の方がいるなんて聞いてなかったわ。所詮その程度の仲だったのではなくて」
「ちょっと、失礼じゃない!」
このあたりで切り上げようと思ったのに、囲いの仲間の一言がさらに私の炎を大きくした。
「だってそうじゃない。誰かにとられると心配になるくらい、ご自分に自信がないのね。かわいそう」
令嬢がひるんでとうとう泣き出しそうなのに、全身がかっと熱を持つようだった。口が止められない。勉強は得意じゃないけど口は回るのだ、誰か止めて――。
「そ、そんなこと、ひどいわ」
「あら、ご自分から仕掛けておいてもうお終い? そもそも一人で来る度胸もないくせに――」
ぱしん――、不意に、耳元で乾いた音が鳴って、左の頬が熱くなった。先ほどとは変わった視界と頬の痛みに、誰かにはたかれたのだと気付いた。
「度を越してますよ、謝りなさい」
ジョン・ダールトンの、落ち着いた低い声が私を嗜める。
周囲がざわつくなか、私が茫然としたまま謝ると、相手も腑抜けた顔で頷いた。周りが動き出す前に、叩いた当人は顔を冷やそうと、私をその場から連れ出した。
噴水まで歩くと、彼はハンカチを噴水に浸してから、きつく絞ってこちらに差し出してきた。私たちはどちらからともなく噴水のへりに並んで腰かけた。
「悪かった。大丈夫か」
「……私、叩かれたのって生まれて初めてだわ」
どう返したらいいか分からなくなって、気付けば嫌味を返していた。音はかなり響いたが、実のところ痛みはそれほどなかった。きっと彼は手加減してくれたんだろう。
「すまない。もっとうまく止めようと思っていたんだが、君が自分の品格を下げるようなことを言うのを見てたら、咄嗟に手が……」
そこまで言うとジョンは口ごもって頭を振った。真っ直ぐな茶色い髪がさらさらと揺れた。
「いや、言い訳だな。本当に申し訳ないことをした」
正直なところ、かっとなっていた私はあのままだったらもっととんでもない失言を重ねていただろう。止めてもらってむしろ助かった。けれど、くだらない意地が邪魔をして、何も言えなかった。
頬を冷やしていると、体から熱が引いて冷静になった。あの彼女には失礼なことを言った。多勢に無勢というのは気に食わないが、彼女だって騙された被害者だ。気が強そうではなかったから、友人も心配でついてきたんだろう。私は残酷にも、彼女が言われたくないだろうことを見つけて、そこをしたたかに抉った。それも公衆の面前で。どうしてこう一言多いんだろう。
夕方になるにつれ空気も冷たくなってきた。ため息をつきながら二の腕をさすると、ジョンが黙ったまま上着をかけてきた。優しくされるのがみじめで、私は理不尽に彼にかみついた。
「なによ、怒ればいいでしょう」
「反省してるんだろう」
「分かったような口きかないで!」
もはや何に怒っているのか分からないまま、盛大な啖呵を切って立ち上がった。広間へ戻ろうと数歩進んで、私は彼の上着を肩にかけたままなことに気付いた。
がっくり肩を落として、とぼとぼと引き返し、上着を畳んでまだ噴水のほとりにいたジョンに差し出す。
「これ、ありがとうございました……」
私が来るのを目を丸くして見つめていたジョンは大声で笑い出した。
「ごめんごめん……律儀だね、その辺に置いといてくれたってよかったのに」
むっとなってにらみつけると、涙を流しながら言う彼に、なぜだかどぎまぎしてしまった私はせめて一矢報いたくなった。
「上着もないんじゃ恰好つかないでしょ、ジョン・ダールトン様」
「……誰かから聞いたのかな」
名前を出すと彼の笑みは引っ込んだ。困ったような顔をしている。
「名乗らないなんて、卑怯なことなさるのね」
「そうだね……君のお兄さん達が来たようだ。卑怯者は退散しよう」
穏やかに言う彼は、なんだか傷ついているように見えた。私はまた余計なことを言ったようだ。
「あ、ちょっと、」
待って、という間もないまま、彼は夕日の中を去っていった。
兄に連行されるようにして、私は家へと帰った。翌日には一連の出来事はかなり広まってしまったが、結局、因縁をつけてきた相手の婚約者、つまりマルコムの振る舞いも周知のこととなった。
結果として令嬢との件は理不尽な言いがかりだったと証明され、彼女から家へ手紙も届いた。心からの謝罪と、あんな男に夢中になるなんて見る目がなかったという一文に、私は少し笑って元気が出た。
それでも騒動を起こしてしまった罰として、私は数日、自宅でおとなしくしているように言い付けられた。さすがにあそこまで言ってしまったことには罪悪感があったので、反論する気もなく粛々と受け入れた。
と、いうのに折檻のはずの自室には、兄二人がしつこいくらい顔を出した。双子は、長椅子にだらしなく寝そべる私の周りを囲うように椅子を出してきてそれに腰掛ける。
「よっ、今日もぶすっとしてるな」
「新作のお菓子買ってきたんだ。食べる?」
「頂かないわ、お兄様は出てってよ」
からかうような口調のエドモンドに、物で釣ろうとするギルバード。どちらも私の神経を逆なでた。
「じゃあ本でも読むか、こないだ面白いって言ってた推理小説の続き出てたぞ」
「いい、放っておいてくださらない?」
「それじゃあ、仕立て屋でも呼ぶ?」
「……呼ばないったら」
「よし、じゃあ音楽家でも呼んで盛大に――」
「もう! いい加減にして」
終わらないやり取りに堪忍袋の緒が切れた私は、起き上がって双子の顔面にクッションを投げつけた。人の目がないのをいいことにその場で地団駄も踏む。
難なくそれを受け止めた双子はそっくりな顔でほっとしたように笑った。
「やっとフランチェスカの癇癪玉がはじけた」
「な、なによ……」
「いつまでも落ち込んでないで、元気出せよ、お姫様」
彼らなりの励ましだったらしい。あほらしくなって私は身を起こして本を手に取った。だらだらするのは性に合わない。ぱらぱらとページを繰りながらまだ部屋にいる双子に問いかけた。
「ねぇ、ダールトン家ってどういうお家?」
聞くが早いが、顔色を変えた二人は顔を見合わせた。また何か失礼なことを考えているんだろう。
「お前、復讐するつもりか」
「違うわよ!」
ひいたような顔をするエドモンドに叫ぶように言うと、今度はギルバートが顔色を変えた。
「も、もしかして惚れてしまったとか……!?」
「……もういい」
私は双子を追い出して、家令を呼んだ。彼からダールトン家の話を聞いて、やっぱり自分が記憶していた家だったと確信した。
ダールトン侯爵家は元々帝国貴族の出身だ。私達が暮らすトレランド王国は、十数年前まで隣国の帝国に併合された歴史を持つ。独立を勝ち取るための戦争に、ダールトン当主は王国側に寝返って参加し、功績を上げた。
その後、独立の立役者として、その活躍が認められて王国貴族に迎え入れられ、現在は北東部の領地を治めている。ここからは知らなかったことだが、あっという間に平和ぼけした、特に若い世代の貴族の間では、ダールトン家に不信感や敵対心を抱いている人もいる、らしい。
「ふぅん、平和を享受しといて、血生臭いことには蓋ってわけ」
「……嘆かわしいことでございます」
仰々しく頭を下げる家令の頭にはいつの間にか白髪が増えていた。彼もまた、併合と戦争で辛酸を舐めた一人だった。
家令が部屋を出た後、私は再び長椅子に突っ伏した。彼が名前を言わなかったのは、多分家のことで悪く言われることを気にしていたのだろう。そんな彼に私はひどい言葉を投げかけてしまった。せめて謝罪したかったが、どの面下げて会えというんだろう。抑えきれないため息が漏れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
やっと謹慎が解けた私は、家の庭園で開かれるちょっとしたパーティーへの参加を許された。招待客しか来ないので、トラブルも起こるまいとお父様は判断されたのだろう。
「そういえば、今日改めて父上の元へ、件のジョン・ダールトンが詫びに来るってさ」
「ふぅん。そう」
庭へ出て招待客にあいさつしていると、隙を見て双子が私に耳打ちしてきた。
「引き留めてもらうか?」
「なんで? 別にそんな必要ないわ」
なんでもないように答えたが、本当は傷つけた彼に会うのが怖かった。
招待客が増えてくると、そんなことを考える暇もなくなった。食事や飲み物が行き届いているか確かめながら、できるだけ多くの人と会話を交わす。
「大丈夫でした? 災難でしたね」
「えぇ、お騒がせして申し訳ありません」
兄の友人だか知り合いだかの若い集団はさすがに耳が早いようで、茶会でのことはしばしば話題になった。
「全くあんな騒動に巻き込まれるなんて」
「女性に手を上げるなんて、やっぱり乱暴だわ」
「血が騒ぐのかしら、怖いわ」
なんだか雲行きが怪しくなってきたが、大切な招待客なので、腹はたったが黙って肯定も否定もせずに、顔に笑みを貼り付ける。
「やっぱり噂通り、公爵家に取り入ろうとしたのさ、侯爵家は訳ありだし」
「ともあれ、これで婚約者探しはさらに難航するだろうな」
「それって、どういうことでしょう」
思わず身を乗り出して尋ねると、少し驚きながらも彼らは話し出した。
適当な理由で園遊会を中座した私は、屋敷に戻って廊下をパタパタと走り、家令を探していた。すれ違う使用人が眉をしかめるのも気にしていられなかった。
(知らなかった、なんで言ってくれないのよ)
ダールトンのお家の噂は変な風に広がってしまって、ジョンは社交に積極的ではなかったらしい。心配した侯爵は、家督を継ぐ条件として結婚することを掲示したという。ジョンは婚約者を探していたのだ。
その邪魔をしていたのは私だ。ペンバートンの一人娘が周りをうろちょろしていたんじゃ、並の令嬢はジョンのことをさらに遠ざける。先ほどの彼らの口ぶりでは、公爵家に取り入っているなんて言われているらしい。
おもしろおかしく語られる噂に、のんびりして優しい彼はその都度傷ついていたのだろうか。そんなことを知ろうともせず、私は彼の優しさに甘え、気ままに振舞った。卑怯だなんて、それは私の方だ。
家令を見つけた私は急停止した。息を整えながら、言葉を吐き出す。
「ねぇ、お客様、いらしてる?」
「応接間にお通ししています。間もなくお帰りでしょう」
さすが、うちの家令は話が早く、私に甘い。にっこり笑ってお礼を言って、応接間を目指した。
応接間が見えてくると、私は速度を落とした。足音を立てないようにして、少し空いていた扉にそっと耳を近づける。
「――大事な時期だ。君には悪いが今後は、」
「えぇ、もうお嬢様には近づきません。ご迷惑をお掛け」
聞いていられなくなって、思わず私は扉を開けた。向かい合う形で椅子に腰かけていた父とジョンが、同時にこちらを振り向いた。
「フランチェスカ様…」
「ごきげんよう、ジョン。この間は卑怯って言ってごめんなさい」
「そんなことなら全然、構わないんだけど……」
立ち上がる彼に歩み寄って謝罪した。彼は戸惑っているが、まずは父の攻略が先だ。
椅子から腰をあげかけた父に両手を組んで懇願する。
「お父様一生のお願い!」
通算五回目ではあるが、これが叶うならもう本当に最後にする。そう誓いながらたじろぐ父をじっと見つめる。
「お、おい、フランチェスカ」
「私、この人と婚約したいの」
動転する父を置いて、彼の腕を取った。
「フランチェスカ様、一体、」
「私、あなたのことが好きみたい。あなたも私のこと好きでしょう?」
少し見上げるようにして小首を傾げる。我ながら完璧な角度だ。父とギルバードはもちろん、ちょっと辛口になってきたエドモンドもこれでいちころだ。なのにジョンは笑い出してしまった。
「フランチェスカ様、ご冗談を」
彼はなんとかこの場を誤魔化して切り抜けようとしているらしい。それをどう防ぐか必死に考えていると、開けっ放しだった扉から人の気配と声がした。
「やぁ、おめでとうお二人さん」
呆気にとられる私たちに構わず、ずんずんと部屋に入ってきたエドモンドが、じじくさい動作で私とジョンの肩を叩いた。
にやにやと扉付近でそれを見つめていたギルバードがわざとらしく踵を返した。その隣にはいつのまにかアリスと家令も控えていた。
「よし、それじゃあ私は招待客に婚約記念パーティーに変更だと伝えてこよう」
「私、厨房にお祝いのシャンパンを手配するように伝えてきます!」
「旦那様、侯爵家への伝達はお任せください」
「お、おい……」
力のない父の静止もむなしく、打ち合わせでもしていたかのように息の合った三人は、ばらばらと散っていった。
視線を合わせた私とジョンは、背後を振り返って父を見つめた。見つめられた父は深くため息をついて頭を抱えた。
「フランチェスカ、わがままは程々になさいと言ったろう。ダールトン殿、今断らないと間に合いませんよ」
……ということは、彼が受け入れるなら良いということだ。
ここまでお膳立てしてもらって、私は不意に不安になった。彼の言葉を待っていると、深いため息が聞こえて、心臓が縮んだ。沈黙が続き、耐え切れなくなった私が、ジョンに謝って彼らを止めに行こうかと思ったその時、徐に膝をついた彼が、私の両手をそっと握った。
チョコレート色の瞳が真っ直ぐにこちらを向いている。少し緊張した様子で、ジョンが口を開く。
「フランチェスカ、君が好きだ。侯爵領は寒いし、君が好きな、きらびやかで美しいものはないけど……君を大切にするし、君とならずっと楽しく話していられる。僕と、婚約してもらえますか」
「喜んで」
真っ直ぐな言葉に真っ赤になった私はもごもご返事をするので精一杯だった。
茶化すようなエドモンドの口笛が部屋に響いたが、今日は機嫌がいいので、特別に見逃してあげた。
陽が傾き始め、影が伸びる頃、なんだか虚しくなってきた私は少し人混みを外れてため息をついた。
「あの、フランチェスカ様。少しよろしいかしら」
「えぇ、なんでしょう」
不意に声を掛けられ、余所行きの笑顔を貼り付けて振り返った先にはなんだか表情の険しい令嬢たちがいた。
にわかに私を囲んだ令嬢は、感情的に話を始める。取り留めない話をまとめるに、彼女たちはその中心にいる令嬢の恋人を、私が誘惑したのだといちゃもんをつけに来ているようだった。
「あ、あなたのせいで……マルコムとは婚約寸前だったのに」
何かされるんじゃないかと思わず身構えたが、対峙するのは見ていて気の毒になるくらい、か弱い感じの人だった。
「身に覚えがないわ、あっちから言い寄ってきたんだもの」
さらりと返事をしながら、心の中で毒づいた。あの野郎、同時並行で誘いをかけてたなんて最低だ。そんな人と破談になってよかったねとも思ったが、流石の私でも絶対に怒らせることがわかったので黙っていた。
正面の彼女は私が一言返しただけで黙り込んでしまったが、周りの令嬢が苛立ちを見せた。
「なんて言い草!」
「マルコム様がなびかなかったから、他の男に鞍替えしたんでしょう!?」
「そうよ、次期侯爵もいい迷惑ね」
待て待て。一体、どこの侯爵令息のことだ。またあらぬ疑いを掛けられたんじゃたまったものではない。
「次期侯爵? どなたのことかしら」
落ち着いて聞くと、鬼の首を取ったかのようにお仲間が言い放った。
「ジョン・ダールトン様のことよ。公園であなたたちのこと見かけたんだから!」
「え……」
予想外の場面で彼の名前を知ってしまい、私はうっかり固まってしまった。本当にジョン(確定)だったのか。ダールトン、という家名には私でも聞き覚えがあった。
私が動揺したことで、令嬢たちは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あら、知らなかったの? もしかして遊ばれてるんじゃない」
「いい気味。自分のしたことが返ってきたんだわ」
あんまりな物言いにかちんときた。ひとまずジョンには後で問い詰めようと決め、私は反撃に出た。彼が家名を私にだけ隠していたらしいことと、解くのを楽しみにしていた謎がこんな形で明かされたことに腹が立っていた。
「私はそんな低俗なことしないわ、マルコムと違ってね。私よりも彼の不実を責めるべきでしょう」
「なっ、なんですって」
怒りか動揺か、当事者の令嬢は既に涙目になっている。
「大体、婚約寸前の方がいるなんて聞いてなかったわ。所詮その程度の仲だったのではなくて」
「ちょっと、失礼じゃない!」
このあたりで切り上げようと思ったのに、囲いの仲間の一言がさらに私の炎を大きくした。
「だってそうじゃない。誰かにとられると心配になるくらい、ご自分に自信がないのね。かわいそう」
令嬢がひるんでとうとう泣き出しそうなのに、全身がかっと熱を持つようだった。口が止められない。勉強は得意じゃないけど口は回るのだ、誰か止めて――。
「そ、そんなこと、ひどいわ」
「あら、ご自分から仕掛けておいてもうお終い? そもそも一人で来る度胸もないくせに――」
ぱしん――、不意に、耳元で乾いた音が鳴って、左の頬が熱くなった。先ほどとは変わった視界と頬の痛みに、誰かにはたかれたのだと気付いた。
「度を越してますよ、謝りなさい」
ジョン・ダールトンの、落ち着いた低い声が私を嗜める。
周囲がざわつくなか、私が茫然としたまま謝ると、相手も腑抜けた顔で頷いた。周りが動き出す前に、叩いた当人は顔を冷やそうと、私をその場から連れ出した。
噴水まで歩くと、彼はハンカチを噴水に浸してから、きつく絞ってこちらに差し出してきた。私たちはどちらからともなく噴水のへりに並んで腰かけた。
「悪かった。大丈夫か」
「……私、叩かれたのって生まれて初めてだわ」
どう返したらいいか分からなくなって、気付けば嫌味を返していた。音はかなり響いたが、実のところ痛みはそれほどなかった。きっと彼は手加減してくれたんだろう。
「すまない。もっとうまく止めようと思っていたんだが、君が自分の品格を下げるようなことを言うのを見てたら、咄嗟に手が……」
そこまで言うとジョンは口ごもって頭を振った。真っ直ぐな茶色い髪がさらさらと揺れた。
「いや、言い訳だな。本当に申し訳ないことをした」
正直なところ、かっとなっていた私はあのままだったらもっととんでもない失言を重ねていただろう。止めてもらってむしろ助かった。けれど、くだらない意地が邪魔をして、何も言えなかった。
頬を冷やしていると、体から熱が引いて冷静になった。あの彼女には失礼なことを言った。多勢に無勢というのは気に食わないが、彼女だって騙された被害者だ。気が強そうではなかったから、友人も心配でついてきたんだろう。私は残酷にも、彼女が言われたくないだろうことを見つけて、そこをしたたかに抉った。それも公衆の面前で。どうしてこう一言多いんだろう。
夕方になるにつれ空気も冷たくなってきた。ため息をつきながら二の腕をさすると、ジョンが黙ったまま上着をかけてきた。優しくされるのがみじめで、私は理不尽に彼にかみついた。
「なによ、怒ればいいでしょう」
「反省してるんだろう」
「分かったような口きかないで!」
もはや何に怒っているのか分からないまま、盛大な啖呵を切って立ち上がった。広間へ戻ろうと数歩進んで、私は彼の上着を肩にかけたままなことに気付いた。
がっくり肩を落として、とぼとぼと引き返し、上着を畳んでまだ噴水のほとりにいたジョンに差し出す。
「これ、ありがとうございました……」
私が来るのを目を丸くして見つめていたジョンは大声で笑い出した。
「ごめんごめん……律儀だね、その辺に置いといてくれたってよかったのに」
むっとなってにらみつけると、涙を流しながら言う彼に、なぜだかどぎまぎしてしまった私はせめて一矢報いたくなった。
「上着もないんじゃ恰好つかないでしょ、ジョン・ダールトン様」
「……誰かから聞いたのかな」
名前を出すと彼の笑みは引っ込んだ。困ったような顔をしている。
「名乗らないなんて、卑怯なことなさるのね」
「そうだね……君のお兄さん達が来たようだ。卑怯者は退散しよう」
穏やかに言う彼は、なんだか傷ついているように見えた。私はまた余計なことを言ったようだ。
「あ、ちょっと、」
待って、という間もないまま、彼は夕日の中を去っていった。
兄に連行されるようにして、私は家へと帰った。翌日には一連の出来事はかなり広まってしまったが、結局、因縁をつけてきた相手の婚約者、つまりマルコムの振る舞いも周知のこととなった。
結果として令嬢との件は理不尽な言いがかりだったと証明され、彼女から家へ手紙も届いた。心からの謝罪と、あんな男に夢中になるなんて見る目がなかったという一文に、私は少し笑って元気が出た。
それでも騒動を起こしてしまった罰として、私は数日、自宅でおとなしくしているように言い付けられた。さすがにあそこまで言ってしまったことには罪悪感があったので、反論する気もなく粛々と受け入れた。
と、いうのに折檻のはずの自室には、兄二人がしつこいくらい顔を出した。双子は、長椅子にだらしなく寝そべる私の周りを囲うように椅子を出してきてそれに腰掛ける。
「よっ、今日もぶすっとしてるな」
「新作のお菓子買ってきたんだ。食べる?」
「頂かないわ、お兄様は出てってよ」
からかうような口調のエドモンドに、物で釣ろうとするギルバード。どちらも私の神経を逆なでた。
「じゃあ本でも読むか、こないだ面白いって言ってた推理小説の続き出てたぞ」
「いい、放っておいてくださらない?」
「それじゃあ、仕立て屋でも呼ぶ?」
「……呼ばないったら」
「よし、じゃあ音楽家でも呼んで盛大に――」
「もう! いい加減にして」
終わらないやり取りに堪忍袋の緒が切れた私は、起き上がって双子の顔面にクッションを投げつけた。人の目がないのをいいことにその場で地団駄も踏む。
難なくそれを受け止めた双子はそっくりな顔でほっとしたように笑った。
「やっとフランチェスカの癇癪玉がはじけた」
「な、なによ……」
「いつまでも落ち込んでないで、元気出せよ、お姫様」
彼らなりの励ましだったらしい。あほらしくなって私は身を起こして本を手に取った。だらだらするのは性に合わない。ぱらぱらとページを繰りながらまだ部屋にいる双子に問いかけた。
「ねぇ、ダールトン家ってどういうお家?」
聞くが早いが、顔色を変えた二人は顔を見合わせた。また何か失礼なことを考えているんだろう。
「お前、復讐するつもりか」
「違うわよ!」
ひいたような顔をするエドモンドに叫ぶように言うと、今度はギルバートが顔色を変えた。
「も、もしかして惚れてしまったとか……!?」
「……もういい」
私は双子を追い出して、家令を呼んだ。彼からダールトン家の話を聞いて、やっぱり自分が記憶していた家だったと確信した。
ダールトン侯爵家は元々帝国貴族の出身だ。私達が暮らすトレランド王国は、十数年前まで隣国の帝国に併合された歴史を持つ。独立を勝ち取るための戦争に、ダールトン当主は王国側に寝返って参加し、功績を上げた。
その後、独立の立役者として、その活躍が認められて王国貴族に迎え入れられ、現在は北東部の領地を治めている。ここからは知らなかったことだが、あっという間に平和ぼけした、特に若い世代の貴族の間では、ダールトン家に不信感や敵対心を抱いている人もいる、らしい。
「ふぅん、平和を享受しといて、血生臭いことには蓋ってわけ」
「……嘆かわしいことでございます」
仰々しく頭を下げる家令の頭にはいつの間にか白髪が増えていた。彼もまた、併合と戦争で辛酸を舐めた一人だった。
家令が部屋を出た後、私は再び長椅子に突っ伏した。彼が名前を言わなかったのは、多分家のことで悪く言われることを気にしていたのだろう。そんな彼に私はひどい言葉を投げかけてしまった。せめて謝罪したかったが、どの面下げて会えというんだろう。抑えきれないため息が漏れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
やっと謹慎が解けた私は、家の庭園で開かれるちょっとしたパーティーへの参加を許された。招待客しか来ないので、トラブルも起こるまいとお父様は判断されたのだろう。
「そういえば、今日改めて父上の元へ、件のジョン・ダールトンが詫びに来るってさ」
「ふぅん。そう」
庭へ出て招待客にあいさつしていると、隙を見て双子が私に耳打ちしてきた。
「引き留めてもらうか?」
「なんで? 別にそんな必要ないわ」
なんでもないように答えたが、本当は傷つけた彼に会うのが怖かった。
招待客が増えてくると、そんなことを考える暇もなくなった。食事や飲み物が行き届いているか確かめながら、できるだけ多くの人と会話を交わす。
「大丈夫でした? 災難でしたね」
「えぇ、お騒がせして申し訳ありません」
兄の友人だか知り合いだかの若い集団はさすがに耳が早いようで、茶会でのことはしばしば話題になった。
「全くあんな騒動に巻き込まれるなんて」
「女性に手を上げるなんて、やっぱり乱暴だわ」
「血が騒ぐのかしら、怖いわ」
なんだか雲行きが怪しくなってきたが、大切な招待客なので、腹はたったが黙って肯定も否定もせずに、顔に笑みを貼り付ける。
「やっぱり噂通り、公爵家に取り入ろうとしたのさ、侯爵家は訳ありだし」
「ともあれ、これで婚約者探しはさらに難航するだろうな」
「それって、どういうことでしょう」
思わず身を乗り出して尋ねると、少し驚きながらも彼らは話し出した。
適当な理由で園遊会を中座した私は、屋敷に戻って廊下をパタパタと走り、家令を探していた。すれ違う使用人が眉をしかめるのも気にしていられなかった。
(知らなかった、なんで言ってくれないのよ)
ダールトンのお家の噂は変な風に広がってしまって、ジョンは社交に積極的ではなかったらしい。心配した侯爵は、家督を継ぐ条件として結婚することを掲示したという。ジョンは婚約者を探していたのだ。
その邪魔をしていたのは私だ。ペンバートンの一人娘が周りをうろちょろしていたんじゃ、並の令嬢はジョンのことをさらに遠ざける。先ほどの彼らの口ぶりでは、公爵家に取り入っているなんて言われているらしい。
おもしろおかしく語られる噂に、のんびりして優しい彼はその都度傷ついていたのだろうか。そんなことを知ろうともせず、私は彼の優しさに甘え、気ままに振舞った。卑怯だなんて、それは私の方だ。
家令を見つけた私は急停止した。息を整えながら、言葉を吐き出す。
「ねぇ、お客様、いらしてる?」
「応接間にお通ししています。間もなくお帰りでしょう」
さすが、うちの家令は話が早く、私に甘い。にっこり笑ってお礼を言って、応接間を目指した。
応接間が見えてくると、私は速度を落とした。足音を立てないようにして、少し空いていた扉にそっと耳を近づける。
「――大事な時期だ。君には悪いが今後は、」
「えぇ、もうお嬢様には近づきません。ご迷惑をお掛け」
聞いていられなくなって、思わず私は扉を開けた。向かい合う形で椅子に腰かけていた父とジョンが、同時にこちらを振り向いた。
「フランチェスカ様…」
「ごきげんよう、ジョン。この間は卑怯って言ってごめんなさい」
「そんなことなら全然、構わないんだけど……」
立ち上がる彼に歩み寄って謝罪した。彼は戸惑っているが、まずは父の攻略が先だ。
椅子から腰をあげかけた父に両手を組んで懇願する。
「お父様一生のお願い!」
通算五回目ではあるが、これが叶うならもう本当に最後にする。そう誓いながらたじろぐ父をじっと見つめる。
「お、おい、フランチェスカ」
「私、この人と婚約したいの」
動転する父を置いて、彼の腕を取った。
「フランチェスカ様、一体、」
「私、あなたのことが好きみたい。あなたも私のこと好きでしょう?」
少し見上げるようにして小首を傾げる。我ながら完璧な角度だ。父とギルバードはもちろん、ちょっと辛口になってきたエドモンドもこれでいちころだ。なのにジョンは笑い出してしまった。
「フランチェスカ様、ご冗談を」
彼はなんとかこの場を誤魔化して切り抜けようとしているらしい。それをどう防ぐか必死に考えていると、開けっ放しだった扉から人の気配と声がした。
「やぁ、おめでとうお二人さん」
呆気にとられる私たちに構わず、ずんずんと部屋に入ってきたエドモンドが、じじくさい動作で私とジョンの肩を叩いた。
にやにやと扉付近でそれを見つめていたギルバードがわざとらしく踵を返した。その隣にはいつのまにかアリスと家令も控えていた。
「よし、それじゃあ私は招待客に婚約記念パーティーに変更だと伝えてこよう」
「私、厨房にお祝いのシャンパンを手配するように伝えてきます!」
「旦那様、侯爵家への伝達はお任せください」
「お、おい……」
力のない父の静止もむなしく、打ち合わせでもしていたかのように息の合った三人は、ばらばらと散っていった。
視線を合わせた私とジョンは、背後を振り返って父を見つめた。見つめられた父は深くため息をついて頭を抱えた。
「フランチェスカ、わがままは程々になさいと言ったろう。ダールトン殿、今断らないと間に合いませんよ」
……ということは、彼が受け入れるなら良いということだ。
ここまでお膳立てしてもらって、私は不意に不安になった。彼の言葉を待っていると、深いため息が聞こえて、心臓が縮んだ。沈黙が続き、耐え切れなくなった私が、ジョンに謝って彼らを止めに行こうかと思ったその時、徐に膝をついた彼が、私の両手をそっと握った。
チョコレート色の瞳が真っ直ぐにこちらを向いている。少し緊張した様子で、ジョンが口を開く。
「フランチェスカ、君が好きだ。侯爵領は寒いし、君が好きな、きらびやかで美しいものはないけど……君を大切にするし、君とならずっと楽しく話していられる。僕と、婚約してもらえますか」
「喜んで」
真っ直ぐな言葉に真っ赤になった私はもごもご返事をするので精一杯だった。
茶化すようなエドモンドの口笛が部屋に響いたが、今日は機嫌がいいので、特別に見逃してあげた。
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