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太陽に手を伸ばす教皇
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しおりを挟む執事との奇妙なお茶会の翌日、ようやく肩の包帯が完全に取り外された。恐る恐る動かしてみたが、特に違和感はない。ドレスの肩口をずらして、首をよじるようにして傷を負った場所を覗き見ると、地肌よりも少し薄い色の絵の具ですっと引いたような線が残っているだけだった。
護身術の練習は傷の回復もあって、真剣を持つことが許されるようになった。あくまでも体力づくりの一環で、訓練をした人間が相手では絶対に敵わない、と練習を始めた頃のように釘を刺したあとで、ローズさんが遠慮がちになにかの包みを差し出した。
「カイルから預かっていまして、お渡しすべきか迷ったのですが……」
いつもきりっとしているローズさんがおずおずと差し出したのはひとふりの短剣だった。
長さは私の指先から肘ほどで、透かし彫りで植物の柄が施された鞘に入っている。細身だが手に取ると確かな重みがあった。鞘から抜くと、鏡のようにきれいに磨かれた銀色の刀身が、きらりと日の光を反射した。
「おじいさまから相続したもので、お守り代わりにリンジー様に預けると。なんでも、次に会う時には返せよ、と……」
言いづらそうに、彼女はそう締めくくった。
無骨な兄らしいと思わず笑みがこぼれた。返せという言葉には、再会しようという意味が込められているんだろう。相変わらず意地っ張りな優しさだ。
「カイルお兄様に夢見てる令嬢だったら卒倒しますね。でも嬉しいわ」
そう言って渡してくれたことにお礼を言うと、彼女は同意して私と同じように呆れた笑みを浮かべた。
基本の型をさらってから、対面形式で軽く習った型を打ち込んだ。剣を交えると、キンと甲高い音と同時に手に慣れない重さがかかった。
「なかなか筋がいいですよ」
「ありがとう、お世辞でもっ、嬉しいです」
こちらはもう息が上がっているのに、精一杯の剣を余裕で交わしながらローズさんが褒めてくれた。
そういえば昔は割と外遊びが好きな方だった。何もなければ二番目の兄が軍に入ったとき、練習相手になっていたかもしれない。そう奮起して体を動かした。
少しして一旦手を止めて、額や鼻の頭に浮いてきた汗を布で拭っていると、背後から声がした。
「そろそろ休んだらどうだ」
振り返ると公爵が立っていた。逆光でその表情はよく見えない。いつからいらしていたのだろう。目を瞬かせる私の横で、ローズさんは平然と返事をして剣を納めた。
「また汚れているな、日焼けもしている」
日陰に移動すると、公爵は使用人に飲み物を用意するように言い付けて、細々と世話を焼いてくれた。自然と近づく距離に胸が高まる。
「……君がこんなに無理をする必要はないんだ」
公爵が苦しそうに言ったのは、練習でできた軽い打撲の傷の手当している時だった。
高位貴族らしからぬその行動も、将軍から学んだことかなと思っていた私は、弾かれるように公爵の顔を見上げた。
「それは、どういうことでしょう?」
もしかして、何か作戦が決まったんだろうか。ぐっと黙り込んだ公爵は声を落として話し出した。
「陛下からは口止めされているが、君抜きで進むように修正している」
「そんな……」
急に仲間外れにされたような気持になって私は黙り込んだ。
計画に巻き込まれたと思っていたはずなのに、外されるとなると手放しでは喜べなかった。受け継がれた能力に、なにか運命めいたものを感じていたのかもしれないし、戦争を止めなければならないという義務感に駆られたせいかもしれなかった。
「私も賛成だ」
何も言わない私に、公爵の一言が追い打ちをかけた。もう用済みということだろうか。唐突なことに頭が追い付かなかった。
じわじわと暗い考えが頭を占めていく。不意に頭上からため息が落ちた。
「そんな顔をしないでくれ」
辛気臭い顔なんて見たくないと言われた気がして、傷ついた私は黙ってうつむいた。
「リンジー」
不意に両肩に公爵の手が置かれた。持っていきようのない感情の昂りが、涙になってじわじわと目に溜まっていく。
こぼれ落ちそうなそれを悟られたくなくて、返事もせずに、すねた子供のように顔を上げられないでいた。
そうしていると、肩にそっと力が加わり、公爵の正面を向くようにされたかと思うと、そっと彼の右手が私の顎を掬い上げた。黒い瞳が私の顔を見て一瞬ぎくりと固まる。
ややあって諭すように公爵が話し出した。
「……よく聞いてくれ、君は十分にやってくれた。私も、君のお兄さんも、もう君を危ない目に遭わせたくないんだよ」
顎にかかった彼の手と、距離の近さとが気になってろくに話が入ってこない。涙はいつの間にか引っ込んでいた。ひとまず距離をとりたくて頷いてみせたが、オリバー様は何故だかその手を離してくれなかった。
ごほん、ふいに近くからわざとらしい咳払いがした。ぱっと手を離した公爵から私は思わず二、三歩後ずさった。
「……マーティン、大事な用だろうな」
「えぇ。お茶の用意を致しますので」
地を這うような低い声で言う公爵に、執事はしれっと言い返す。そして後ろに控える使用人に目配せすると、彼らは簡易的な椅子と円卓を運んできて、お茶の支度をてきぱきと始めるのだった。
「さっきは急に詰め寄ったりして、すまなかった」
「い、いえ、こちらこそ……」
お互いにぎこちなく謝りながら、向かい合う形で腰掛けて喉を潤した。
ローズさんもマーティンも一旦屋敷に戻るようで、二人きりになった。皇太子との噂をきちんとしておくのは今しかないかもしれないとふと思った。
「皇太子とは、ただの昔の友達なんです」
口から出た言葉はなんだか間抜けに響いて、どうしてこんな唐突にしか言えないんだろうと、私はまた少し落ち込んだ。
平然と見えるように祈りながらお茶を飲み、こっそり盗み見た公爵は無表情だった。なんだかがっかりしていると、公爵が掠れた声で問いかけてきた。
「どうして、私にそれを?」
問いの意味が分かりかねて戸惑っていると、今度は笑顔を張り付けた公爵が穏やかに言葉を続けた。
「あぁ、噂になっていることを心配しているのかな。別に疑っていないから心配しなくていい」
確かに噂を否定したいということもあった。そういうことにして会話を終えてもいいのだ。彼の言葉に乗っかろうとした私の脳裏に、昨日の執事の言葉が蘇った。公爵のような方は『正面からの攻撃に弱い』――。
「公爵に、オリバー様に、ちゃんと知っていてほしくて」
そう、一番は彼にきちんと知って欲しいのだ。――だって私は公爵が好きだから。恥ずかしさや気まずさを堪えて、正面切って真っ直ぐ言うと、今度は黒い瞳が先に視線を逸らした。
「君はそうでも……アレキサンダー様の方はどうかな」
「そ、れは……」
私には答えようがないことだ。公爵はどうしてそんなことを言うのだろう。少し恨めしく思いながら手元のカップに視線を落とした。
「すまない、ただの嫉妬だよ」
向き直った公爵はそう言うと、怪我に気をつけるようにと言い残して、優雅な足取りで屋敷へと戻っていった。去り際、ダークブロンドの髪から覗く耳が、赤く染まっているように見えた。
一人残された私は声にならない声をあげて顔を覆った。公爵の言葉や態度一つで、私の心がどんなに揺さぶられるか、きっと彼は分かっていないんだろう。
「リンジー様! どうなさったんです、そのお顔」
「あ、いえ、その……日焼けしてしまったみたいで」
公爵と入れ替わるようにして、戻ってきたローズ様は私の顔を見るなり目を丸くした。聡い彼女は、すぐに何かを察したかのようで、体に異常がないことを確かめた後は、顔色のことには触れないでくれた。
夏の強い日差しが、広い庭にも降り注ぐ。私の頬は薔薇のように染まっていることだろう。それはきっと、日焼けのせいだけではなかった。
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