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3 (追憶)

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 桜の花びらが舞っている。たのしそうに。誰かと会話して笑うように。

退屈な形式ばった入学式の翌日、新学期のオリエンテーションを受けるために、割り当てられた教室に向かう。途中、満開の桜の下にたたずむ女子学生を見かけた。
着慣れていないスーツ姿。黒くて長い髪。桜の幹よりも幅のない身体。威厳をたたえた桜の古木を見上げて、老人と対話しているかのように見える。

「そんな、非科学的な…。」

自嘲めいた嗤いを零しながら、結局、周囲の期待に沿う進学先を選んだ自分に嫌気がさす。

科学を極めるのが幼い頃からの夢だったじゃないか。

「家名に相応しい人物に」
たかだか4代続いた官吏の家系がそれ程に重いのか。それとも…。
暗い思考に落ちかけたその時、右肩に耐え難い荷重がかかった。

「よっ! また一緒だな。」

太い左腕を僕の右肩に乗せて体重をかけているのは、渡辺太わたなべふとし

「ああ、まただな。」

ため息とともに肩に乗ったままの腕を落としてやる。

「つれないな、10年来の友に。少しは嬉しそうにしやがれ。」

不満そうに呟く相手にできるだけ冷たく返す。


「13年目だ。」

小学校に入学したら、クラスに渡辺がいた。幼稚舎にはいなかったから外部からの受験組だとわかった。
初対面でいきなりプロレス技をかけてきて喧嘩になった。2人一緒に叱られて、罰として学校内では共に行動するよう決められて、以来、ずっと一緒に過ごして来た。学友にして悪友。ごく稀に親友として。通算12年になる。
僕が進学に我を通さなかったからか、再び机を並べることになった。官吏を目指さざるをえない僕にとって、「将来の夢は正義の味方」と言い続けている姿は羨ましくもある。
格闘技が好きで、隙をみては技をかけようとするが、体格の良さが仇になって見切りやすい。一体どんな正義の味方を目指しているのか。まだ掴めていないのは、肝心なことをはぐらかすに長けた柔らかな物腰のせいだろう。だから、まだ親友とは呼んでやらないつもりだ。

「中途半端なところで立ち止まってどうした? 桜の妖精でもいたってか?」

渡辺の問いに戸惑う。僕はここで何をしていた? 不愉快な立場を憂いていたのか? その前は? 桜の木に目を移してみても、誰もいない。

「ほれ、教室に行くぞ。初日から遅れるとかおまえらしくもないだろ。」

何も言えずにいる僕は、渡辺に無理やり引っ張られて校舎に向かった。
法学部法律学科の1学年は7つのクラスにわけられ、昨日のうちに確認しておいた自分のクラスの教室に入る。
足を踏み入れた途端、空気がざわついた。

「加賀見だ。」
「K高のプリンス」
「高級官僚の息子」
「寄り付く女を切って捨てる冷酷漢」
「本物? 王子様みたい」

虚実ない交ぜの噂話にため息をつきそうになる。
と、肩に湿り気のある温度の高い手の感触。

「とっとと席に着こうぜ。」
「ああ。」

助けられている。黙ったまま、友の存在に感謝した。
空いていた席に着いて、改めて教室を見渡すと

「あっ、」

桜の木の前に立っていた女子学生を見つけた。先ほどは後ろ姿しか見なかったのに、席に着いてる姿を見て彼女だと確信した。
大きな目と秀でた額。細く通った鼻筋に小さめの唇。
静かに教室の前方を見つめている。
誰かと言葉をかわすでもなく、ひとり静かに佇む様子を見て、僕はふっと息を吐き、頬が緩むのを自覚する。取るに足らない噂話に知らず知らず顔を強張らせていたようだ。

「可愛いな。」
「え?」

渡辺が彼女から視線を戻して意味ありげに口角を上げた。彼女を見ていたのは、自分ではほんの一瞬のつもりだったのだが、悪友に見られたことが悔しくて、顔をそらす。

「照れてやんの。まあ、良いんじゃねえの? 可愛いもんは可愛いし。」

無駄話に巻き込まれたくなくて、窓の外に舞う桜の花びらを見つめるふりをした。
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