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歓喜の裏で
1月の寒い朝
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パン!、パン!、パン!
年の瀬の日曜日――
テレビのスピーカーから、丸めた新聞を鳴らした音が響く。
その部屋の窓から見える桜の樹には、葉はもう既に無く、冬枯れだ。
ベッドの上でテレビ画面を凝視している男が、画面に映る様子を真似しようと、震えた右手で丸めた新聞を握ろうとする。
左の掌に打ち下ろされた、新聞を打ち付けた音は弱々しく、ほとんど音は鳴らない。
だが、男は楽しそうに、聞こえるファンファーレの音に合わせ、新聞を叩く。
ワァァァァッ――!、という歓声が響く中、ゼッケンを纏って輪乗りをしている、競走馬たちがゲートに入っていく。
その映像を観ている、男の手には――がんばれ!の4文字が記された、馬券が握られていた。
『ファンレター』
~11ヶ月前~
競走馬に関わる人間の朝は早い。
だが、そんな世界に身を置いていても朝が弱い人間もいる。
まだ白んですらいない星空の下、馬房の前に立ちフヮァァッと大きなあくびをした海野由幸調教師も、そんな人間の一人である。
「あ~……レジェンドはぁ、まだ太いからぁ……一杯、にぃ……」
ちょっと辛そうに、決してテキパキとは言えないスピードで調教の乗り役に指示を出す……これが海野厩舎の毎朝の光景だった。
「先生、クロテンはどうします?」
その乗り役の一人、調教助手の佐山謙三が尋ねると、眠そうな海野の眼はパッと見開いた。
「……ああ!、今日が追い切りだから、ホムラと併せてビシッとやってくださいっ!」
「はっ、はいっ……」
さっきまでとは大違いな海野の態度に、佐山はちょっと引き気味に返事をした。
海野がクロテンの名に反応したのには理由がある。
それはクロテン――登録名『クロダテンユウ』が、海野厩舎唯一のオープン馬であり、今週のGⅡ『アメリカジョッキークラブカップ』に出走するからだ。
海野厩舎は開業5年目……管理馬の成績や評判によっては、『新進気鋭の若手トレーナー』と持て囃される時期なのだが、唯一のオープン馬の言葉が示す様に、管理馬の大半は条件クラス。
海野はいわゆる営業が下手で、管理馬の顔ぶれに活躍必至の煌びやかな良血馬が多い一口クラブの所有馬は皆無……個人馬主の地味~な血統の馬ばかりだった。
血統が良い馬は活躍する……とは言い難いが、少なくとも活躍する可能性は良くない馬よりは高い。
そんな海野厩舎は、その状況に比例して、ここまでパッとしない成績を重ねてきた。
それは調教師としての手腕の差と認識されるのが、この勝負の世界である。
『成績が上がらない』→『良い馬を任されない』→『勝てない……』
――という、負のスパイラルにハマった海野の頭には、早くも廃業の二文字がかすめていた。
そういう状況の海野厩舎にとって、伝統のGⅡに管理馬を送り込むのはちょっとした事件である……当事者の海野も、そりゃあ声が上擦ったりもするだろう。
「ん~♪」
海野と佐山の側に、鼻歌交じりにキレイな尾花栗毛の馬を引く、長身の若い男が近づいてくる。
「あっ!、先生と謙さん!、おはようございますっ!」
若い男がキャップを外し、二人に会釈する。
「ああ、翔平君……なんだ、ちょうどクロテンの番か」
若い男、高城翔平はクロダテンユウの担当厩務員である。
子供の頃にテレビで観た競馬の様子に感動し、騎手を志したが、本人曰く――
『バカみたい』
――に、身長が伸びて断念。
だが、競馬の世界への憧れは強く、厩務員への道へと進路を変え、競馬学校厩務員過程を卒業、念願叶い昨年春からこの海野厩舎の一員となった。
その翔平が、海野の下にやって来てから……少し、負のスパイラルの潮目が変わった。
それが、このクロダテンユウの活躍である。
尾花栗毛の華麗な毛並みが印象的で、普段は実に大人しく、新人の翔平にも扱いやすいだろうと任されたクロダテンユウは、新馬戦も終わっていた去年の4月の末、福島の未勝利戦でデビューした。
同期の馬たちがクラシック第1戦、『皐月賞』で戦っていたその日、いわゆる裏開催で競走馬としてのキャリアをスタートさせたクロダテンユウは、そのデビュー戦で8番人気の低評価を覆し見事勝利!
普段は秘めている、獰猛な闘争本能を開放するような、荒々しいその走りは……低迷している海野厩舎の面々が驚くほどの快勝だった。
この勝利で、強気な調教師なら『ひょっとしたら……』などと、ダービートライアルに挑戦させたりするものだが、海野の性格は違った。
「まぐれかもしれないし……じっくり行こう」
海野は、根っからの慎重派なのである。
それからクロダテンユウは月イチのペースで走り続けて、7月の新潟で古馬相手に500万下を勝ち、2勝目。
9月の中山では1000万下の特別戦『九十九里特別』を勝ち上がり、クロダテンユウは10月に行われるクラシック最後の一冠『菊花賞』に挑戦出来るだけの本賞金を積み上げていた。
だが、海野は――
「菊花賞なんて、GⅠなんて、まだまだ雲の上のレースでしょう」
――と、挑戦に否定的な態度をとっていたので、ここまで現場任せにしていたクロダテンユウの馬主、石原功一がついに動いた。
「菊に出そうっ!、由幸君!」
そのオーナーサイドの意向に負け、クロダテンユウはついに菊花賞へと駒を進める事になった。
『オーナーがイシハラ?、馬の名前がクロダなのに?』
――という疑問を抱いた声が聞こえて来そうなので、説明しておかなければ成るまい。
クロダテンユウを生産したのは、北海道にあるクロダ牧場、当たり前に映るかもしれないが、これが馬名の由来だ。
そのクロダ牧場は20年程前まで、競馬ファンから『長距離のクロダ』の異名で知られた名門牧場である。
しかし、近年のスピード競馬に対応出来ず、自家生産にこだわった血統を重視した生産方針も災いしてか、長い低迷期に陥っていた。
そんな状況の中、クロダテンユウが1歳を迎えた頃、馬主兼牧場のオーナーである黒田源三郎が亡くなり、経営していた会社は競争馬事業からの撤退を表明、牧場とそのスタッフたちは解散となった。
解散が決まった後、雇われ牧場長だった石原が馬主資格を取得し、元スタッフたちの有志から共同出資を募り『クロダ』の冠名が付いた現役馬を引き継ぎ、クロダテンユウの様な売り出しても買い手が付かなかった幼駆を所有した。
「競争馬として生まれたからには、ちゃんと競馬場を走らせてあげたい」
――という石原の信念と、携わっていたスタッフたちの心意気がそうさせたのである。
かくしてクロダテンユウは海野と石原、ギョーカイの崖っぷちに追い込まれていた二人の思いを背負い、菊花賞に挑戦した。
単勝58.6倍、10番人気の低評価を受けたクロダテンユウは、またもそれを覆すように……なんと、2着に好走!
ハナ、ハナ、クビの大接戦になった2着争いを制し、その能力の片鱗を見せたレースとなった。
初めて管理馬をGⅠに送り込んだ海野は、クロダテンユウの意外な健闘にワナワナと手を震わせ、新人の翔平は満面の笑顔を見せ、側に戻った愛馬の首筋を撫で労った。
この2着での本賞金の加算により、1600万下の準オープンクラスに格付けられていたクロダテンユウはオープンクラスに昇格。
ここまでコンスタントに走ってきたクロダテンユウの疲労を考慮した海野は年内の休養を決め、その復帰初戦が、1月の今週に行われる『AJCC』なのである。
「翔平、クロテンはホムラと併せだ、ホムラはもうコースに入ってるから連れてけ」
「はい」
佐山から海野の指示内容を聞いた翔平が、引き綱を引いてクロテンを誘導する。
今さらにはなるが、クロテンというのは、クロダテンユウのニックネームで、命名者は担当の翔平――若者らしい、ありがちな短縮化名である。
「……ありゃ!、クロテン行っちゃったの?」
ズボンのベルトに騎手用ムチを差し、ヘルメットを被った小柄な男が駆け足で近づいて来る。
それに気付いた海野は、キャップを外して深く頭を下げる。
「関さん、今回はどうも……」
やって来た男は関昴、今週の『AJCC』でクロテンの手綱を握る男である。
「そんな他人行儀な態度はやめてよ~!、ヨッシ~」
関は、とても騎乗依頼を受けた騎手とは思えないフランクな態度で(※自分で付けたセンスが古いあだ名まで使い)海野に話しかける。
「いや、こういう事はちゃんとしないと……」
「相変わらず堅いねぇ~、それに俺は乗せてもらってる立場なんだから逆じゃん」
そう言いながら関はヘルメットを外し――
「海野センセイ!、よろしくお願いしますっ!」
――と、先生の部分を誇張し、ニタニタと笑いながら関は頭を下げる。
海野も苦笑いを浮かべ、もう一度頭を下げると、笑いを堪えられなくなった関は――
「……やっぱダメだわ~っ!、ヨッシー相手にこういう事するのは、慣れないから笑っちまう!」
――と、大きく破顔をして、こめかみを掻いた。
実は……この二人は同い年で、古くからの親友でもある。
出会いは20年前、二人が21歳の頃。
海野は当時大学生、競馬界とはまったく無縁の学生生活を送っていた。
関はもちろんプロの騎手、当時の成績はというと……既に『若き天才』の異名も付いた人気騎手で、GⅠ競争の勝ち鞍も持つトップジョッキーの一人だった。
では、なぜそんな二人が親友同士となったのか?
きっかけは海野が通っていた大学の学園祭。
イベントの企画を任された海野が立ち上げたのは『同世代のトップランナー』という講演企画。
普通なら、お笑いライブやアイドルのコンサートなどを主催するのが定番だが生真面目でお堅い性格の海野らしい企画である。
そのゲストに呼ばれたのが……関だった。
まだ触れていなかったが、海野の風貌は細面のシュッとした顔に、度のキツい眼鏡を掛けたいかにもな理系青年(※当時)
しかし、スポーツは好きで、大学の専攻は『運動学』――学術面から、アスリートをサポートする仕事に就くのが目標だった。
まったく競馬の事を知らない海野が、競馬サークルに所属していた友人にこの企画を話したところ「ぜひ!!!」とキャスティングを懇願されたのが『若き天才』関昴。
関はちょうど、落馬事故で怪我を負い、休養を余儀なくされていた時期で――
「ヒマだし……大学って所も行ってみたいから、良いですよ」
――と、出演を快諾。
騎手……=競馬には、ギャンブル要素へ向けてのマイナスイメージが根強いため、イベントに反対する声も少なからず有ったが、『若き天才』の登場でイベントは大盛況。
そのイベントの打ち上げで、海野と関はなぜか意気投合……連絡先を交換し、友人関係が始まった。
関と知り合った海野は競馬に興味を持ち始める……それは『ギャンブル』としてではなく『研究対象』として。
『どうすれば馬券が当たるか?』でもなく、サラブレッドという『アスリート』への興味だ。
海野は大学卒業後、一念発起して後の師匠にあたる高橋照正厩舎の門を叩き、一介の厩務員からホースマンとして歩み始めた。
関との交友は競馬の世界に入ってからも続いていたのだが、海野が調教師試験を突破し、いざ開業となった頃…
「ヨッシー!、俺はヨッシーの依頼は受けないよっ!」
――と、試験の合格を祝う席で関はそう宣言した。
「自分で言うのもアレだが、俺は日本一の騎手!、開業したての新米調教師の管理馬に、友達のよしみで乗ってやれるほど、ヒマじゃあないからさっ!」
突然、毒づいた関の態度に宴の空気は一瞬凍りついたが、海野はこれを自分への叱咤と受け取り…
「解ったよ、僕も関君には頼まないつもりだった。
関のおかげで勝ってるって、言われたくはなかったからねっ!」
――と返し、お互いニヤリと笑い合った。
それからは挨拶を交わすくらいだけで疎遠になっていたのだが、海野がAJCCで依頼する騎手を模索していた時『クロテン乗せて~!』と甘えるような話し方で、関が突然営業を掛けてきた。
『石原さんとは、もう話済んでるからさ』と、しっかりと根回しまでしての営業――海野も、別に断る理由が無く、二つ返事で交渉成立。
クロテンが、二人の『雪解け』の仲立ちをする形となった。
「じゃあ、お願いします」
「りょ~かい!、あっ!、ヨッシー!」
「なんです?」
「あとでコーヒー、奢ってね」
関はぶらぶらと手を振り、調教コースへと歩いて行く。
「年に数億稼ぐ人がたかるって……これこそ立場が違うだろう」
関のセリフに、海野は呆れた顔で笑う。
「……笑ったら、目が覚めたね」
海野は『――さて』とつぶやいて、調教スタンドへと向かった。
太陽が昇り始めた頃、全ての調教を終えた海野と関は厩舎事務所に戻っていた。
「……美味い」
海野から出されたコーヒーを、一口飲んだ関は思わず唸った。
「教授の所のヤツらは何にも買わないケチ集団だって、コーヒースタンドのおばちゃんがぼやいてたけど……事務所に、こんなんあったら買わないわな」
関は妙に納得した顔で、二口めを啜る。
クロテンの調教を終えて戻った関は、無言のまま手を出したのだが……海野も無言でついて来いのジェスチャーをして、事務所へと誘った。
コーヒーは海野の唯一の趣味だ。
朝に弱い海野は目を覚ますために飲み始めただけだったのだが、持ち前の探求心が刺激されて、豆のブレンドからお湯の温度、終には沸かす水にもこだわり出し、とても素人とは思えない域に達していた。
海野自身も『廃業したら、喫茶店のマスターかな……?』と考えた事もあるくらいだ。
ちなみに関が言った教授というのは、トレセン内での海野のあだ名である。
大学出身で、理詰めの調教を施す海野のイメージから、そう呼ばれている。
同時に博識という良い意味も含まれてはいるが……インテリの学者風情が勝てるものかよという皮肉も含まれている。
「関君」
自分の分のコーヒーを淹れた海野が、関に語りかける。
「ウチのに乗るって事は、菊での2着で認めてくれた……って、事なのかい?」
関は首を縦にも横にも振らず、ジッと海野の目を見る。
「半分……いんや、3分の1は正解かな?」
「3分の1?」
「ああ、クロテンとは何度もレースでやり合ってるから、自力は解ってるつもり……勝てる馬が空いてるっていうから営業掛けた、これが一つ。
もう一つは――俺、個人のクロテンへの興味かな?、アイツのじぃちゃんとは浅くない縁があるしね。
残りの一つがヨッシーに対する評価だな♪、『GⅠ2着まで来たかぁ~!』っていう親心だね」
関はニヤッと、ちょっと嬉しそうに破顔を見せる。
「僕の事はそれだけか……それでも、ようやく1歩前進したんだね」
海野もニヤリと笑い、自分のコーヒーに口をつける。
「……ところで、クロテンの祖父?
ああ――乗っていたんだったね、クロダスティーヴ」
クロダスティーヴ、とはクロテンの母の父にあたる元競争馬だ。
クロダスティーヴはかつて、菊花賞と年末のグランプリ『有馬記念』を制した名馬である。
関と海野が出会う前、関がそれこそ『若き天才』と呼ばれる様になったきっかけとなったのが、クロダスティーヴとの活躍であった。
関が初めて、GⅠ競争に勝利したのが、スティーヴを駆った有馬記念
有馬記念は、競馬に興味が薄い人間でもレースの名前ぐらいは聞いた事があるという、日本の年末の風物詩とも言える国民的行事の一つ。
それを20歳そこそこの若い騎手が、勝利したとなれば……『若き~』の異名が付くのも当然だろう。
その関の快挙の後、引退したクロダスティーヴは種牡馬となったが、引退の5年後、10歳の若さで天に召されてしまった。
残した産駒たちの成績はパッとせず、現在生き残っているのはクロテンの母、クロダメグミを含めて10頭に満たない。
期待していたスティーヴの早すぎる死……この不幸な出来事から、クロダ牧場の凋落が始まったと言えるかもしれない。
「レースの時は、毛色も闘争心剥き出しの性格もよく似てて、懐かしく思って乗りたかったんだけど……ちょっと不思議なヤツだよね」
それが調教に関が乗った感想だった。
調教パートナー、シマノホムラを追いかけたが、最終的には2馬身の遅れ……お世辞にも、好調とは誇れない内容だった。
「全然、追いかける気が感じられないし、スティーヴとは大違いっ!、レースでやりあった時の凄みはゼロっ!、大丈夫かぁ?、アレ」
「そうなんだよぉ……いつも、あんな調子。
でも、レースでは走るんだよね~……『レース以外では走らないからなっ!』と、宣言されている様な馬なんだ。
マスコミの人に、コメント求められても答えようが無いんだよぉ……」
「理詰めの教授にも、解明出来ないモノがある……か」
関は残り少なくなったカップの中身を、名残惜しそうにクッと喉元にあおった。
「戻りました」
一仕事を終えた佐山たちが、事務所に戻ってきた。
「謙さん、お先にいただいてました」
関は空になったカップを頭上に挙げ、コーヒーをアピールする。
「お~!、昴!、来てたのかぁ~」
佐山はジャンパーを脱ぎながら、関に会釈する。
「関君、もう一杯どうだい?」
「いや、いいや、そろそろ行くよ。
テレビのインタビューも入ってるし……人気者は忙しいんでね」
関はそう言って、おもむろに立ち上がる。
「御馳走様……二杯目は、勝った後の月曜日に貰うよ」
クロテンの状態に不安を覗かせながらも、自信タップリな表情を見せて、関は事務所から出て行った。
「一流騎手は、ああいう余裕が無いとダメか……」
ジャンパーをロッカーに掛けながら二人のやり取りを聞いていた佐山が、誰にも聞かれない小さい声でそうつぶやいた。
「謙さんもみんなも、コーヒー淹れてあるからね」
「テキ、いつもすいませんね、ホントは新人の翔平が用意しとくもんなんだが……」
「いえいえ、コーヒーは自分で淹れないと納得いかないからねぇ」
「テキは腰が低過ぎですよ、もうちょっとビシッとしてやらないと翔平には良くないですよ」
佐山の言葉に、ハッっとした海野が辺りを見回す。
「そういえば……翔平君は?」
「あいつ……クロテンの前に座ってたからいつものヤツじゃないですか?」
シマノホムラの厩務員、松村義男がそう答える。
「昨日、例の人から手紙、届いてたみたいですから……」
「そうか……なら、もうちょっとかかるね」
彼らが隠語の様に言う例の人とは……クロテンが入厩してから月に一通、必ずファンレターを送ってくる人物の事である。
『馬にファンレター?(笑)』
――と、思う方もいるだろうが、これは案外、不思議な事ではない。
中には、ニンジン1箱を送ってきて『食べさせてあげてください』という熱心なファンは、現実にも存在する。
しかし、そういう対象になるのは大概、大レースで活躍した有名馬だ。
まだ、デビューすらしていなかったクロテンへ、定期的に届けられるファンレターは非常に珍しかった。
しかも、差出人の名前も無く、同じ柄の封筒に入り、同じ筆跡で送られてくるという、実に奇妙なファンレターだったので、海野厩舎の面々はすっかり覚えてしまったのだ。
翔平は初めて担当した馬へのファンレターに感動し、届いたファンレターをクロテンに読んで聞かせる熱の入れ様。
クロテンが菊花賞で2着に好走してからファンレターは倍増したが、翔平にとって『例の人』からの手紙は特別だった。
「翔平のあの純心……いつまで続くかね?」
佐山は、少し皮肉っぽくそう呟き、コーヒーに口をつける。
「良いじゃないですか、あれが"若さ"ですよ」
佐山のつぶやきを聞いていた海野は、笑みを浮かべてそう返答した。
年の瀬の日曜日――
テレビのスピーカーから、丸めた新聞を鳴らした音が響く。
その部屋の窓から見える桜の樹には、葉はもう既に無く、冬枯れだ。
ベッドの上でテレビ画面を凝視している男が、画面に映る様子を真似しようと、震えた右手で丸めた新聞を握ろうとする。
左の掌に打ち下ろされた、新聞を打ち付けた音は弱々しく、ほとんど音は鳴らない。
だが、男は楽しそうに、聞こえるファンファーレの音に合わせ、新聞を叩く。
ワァァァァッ――!、という歓声が響く中、ゼッケンを纏って輪乗りをしている、競走馬たちがゲートに入っていく。
その映像を観ている、男の手には――がんばれ!の4文字が記された、馬券が握られていた。
『ファンレター』
~11ヶ月前~
競走馬に関わる人間の朝は早い。
だが、そんな世界に身を置いていても朝が弱い人間もいる。
まだ白んですらいない星空の下、馬房の前に立ちフヮァァッと大きなあくびをした海野由幸調教師も、そんな人間の一人である。
「あ~……レジェンドはぁ、まだ太いからぁ……一杯、にぃ……」
ちょっと辛そうに、決してテキパキとは言えないスピードで調教の乗り役に指示を出す……これが海野厩舎の毎朝の光景だった。
「先生、クロテンはどうします?」
その乗り役の一人、調教助手の佐山謙三が尋ねると、眠そうな海野の眼はパッと見開いた。
「……ああ!、今日が追い切りだから、ホムラと併せてビシッとやってくださいっ!」
「はっ、はいっ……」
さっきまでとは大違いな海野の態度に、佐山はちょっと引き気味に返事をした。
海野がクロテンの名に反応したのには理由がある。
それはクロテン――登録名『クロダテンユウ』が、海野厩舎唯一のオープン馬であり、今週のGⅡ『アメリカジョッキークラブカップ』に出走するからだ。
海野厩舎は開業5年目……管理馬の成績や評判によっては、『新進気鋭の若手トレーナー』と持て囃される時期なのだが、唯一のオープン馬の言葉が示す様に、管理馬の大半は条件クラス。
海野はいわゆる営業が下手で、管理馬の顔ぶれに活躍必至の煌びやかな良血馬が多い一口クラブの所有馬は皆無……個人馬主の地味~な血統の馬ばかりだった。
血統が良い馬は活躍する……とは言い難いが、少なくとも活躍する可能性は良くない馬よりは高い。
そんな海野厩舎は、その状況に比例して、ここまでパッとしない成績を重ねてきた。
それは調教師としての手腕の差と認識されるのが、この勝負の世界である。
『成績が上がらない』→『良い馬を任されない』→『勝てない……』
――という、負のスパイラルにハマった海野の頭には、早くも廃業の二文字がかすめていた。
そういう状況の海野厩舎にとって、伝統のGⅡに管理馬を送り込むのはちょっとした事件である……当事者の海野も、そりゃあ声が上擦ったりもするだろう。
「ん~♪」
海野と佐山の側に、鼻歌交じりにキレイな尾花栗毛の馬を引く、長身の若い男が近づいてくる。
「あっ!、先生と謙さん!、おはようございますっ!」
若い男がキャップを外し、二人に会釈する。
「ああ、翔平君……なんだ、ちょうどクロテンの番か」
若い男、高城翔平はクロダテンユウの担当厩務員である。
子供の頃にテレビで観た競馬の様子に感動し、騎手を志したが、本人曰く――
『バカみたい』
――に、身長が伸びて断念。
だが、競馬の世界への憧れは強く、厩務員への道へと進路を変え、競馬学校厩務員過程を卒業、念願叶い昨年春からこの海野厩舎の一員となった。
その翔平が、海野の下にやって来てから……少し、負のスパイラルの潮目が変わった。
それが、このクロダテンユウの活躍である。
尾花栗毛の華麗な毛並みが印象的で、普段は実に大人しく、新人の翔平にも扱いやすいだろうと任されたクロダテンユウは、新馬戦も終わっていた去年の4月の末、福島の未勝利戦でデビューした。
同期の馬たちがクラシック第1戦、『皐月賞』で戦っていたその日、いわゆる裏開催で競走馬としてのキャリアをスタートさせたクロダテンユウは、そのデビュー戦で8番人気の低評価を覆し見事勝利!
普段は秘めている、獰猛な闘争本能を開放するような、荒々しいその走りは……低迷している海野厩舎の面々が驚くほどの快勝だった。
この勝利で、強気な調教師なら『ひょっとしたら……』などと、ダービートライアルに挑戦させたりするものだが、海野の性格は違った。
「まぐれかもしれないし……じっくり行こう」
海野は、根っからの慎重派なのである。
それからクロダテンユウは月イチのペースで走り続けて、7月の新潟で古馬相手に500万下を勝ち、2勝目。
9月の中山では1000万下の特別戦『九十九里特別』を勝ち上がり、クロダテンユウは10月に行われるクラシック最後の一冠『菊花賞』に挑戦出来るだけの本賞金を積み上げていた。
だが、海野は――
「菊花賞なんて、GⅠなんて、まだまだ雲の上のレースでしょう」
――と、挑戦に否定的な態度をとっていたので、ここまで現場任せにしていたクロダテンユウの馬主、石原功一がついに動いた。
「菊に出そうっ!、由幸君!」
そのオーナーサイドの意向に負け、クロダテンユウはついに菊花賞へと駒を進める事になった。
『オーナーがイシハラ?、馬の名前がクロダなのに?』
――という疑問を抱いた声が聞こえて来そうなので、説明しておかなければ成るまい。
クロダテンユウを生産したのは、北海道にあるクロダ牧場、当たり前に映るかもしれないが、これが馬名の由来だ。
そのクロダ牧場は20年程前まで、競馬ファンから『長距離のクロダ』の異名で知られた名門牧場である。
しかし、近年のスピード競馬に対応出来ず、自家生産にこだわった血統を重視した生産方針も災いしてか、長い低迷期に陥っていた。
そんな状況の中、クロダテンユウが1歳を迎えた頃、馬主兼牧場のオーナーである黒田源三郎が亡くなり、経営していた会社は競争馬事業からの撤退を表明、牧場とそのスタッフたちは解散となった。
解散が決まった後、雇われ牧場長だった石原が馬主資格を取得し、元スタッフたちの有志から共同出資を募り『クロダ』の冠名が付いた現役馬を引き継ぎ、クロダテンユウの様な売り出しても買い手が付かなかった幼駆を所有した。
「競争馬として生まれたからには、ちゃんと競馬場を走らせてあげたい」
――という石原の信念と、携わっていたスタッフたちの心意気がそうさせたのである。
かくしてクロダテンユウは海野と石原、ギョーカイの崖っぷちに追い込まれていた二人の思いを背負い、菊花賞に挑戦した。
単勝58.6倍、10番人気の低評価を受けたクロダテンユウは、またもそれを覆すように……なんと、2着に好走!
ハナ、ハナ、クビの大接戦になった2着争いを制し、その能力の片鱗を見せたレースとなった。
初めて管理馬をGⅠに送り込んだ海野は、クロダテンユウの意外な健闘にワナワナと手を震わせ、新人の翔平は満面の笑顔を見せ、側に戻った愛馬の首筋を撫で労った。
この2着での本賞金の加算により、1600万下の準オープンクラスに格付けられていたクロダテンユウはオープンクラスに昇格。
ここまでコンスタントに走ってきたクロダテンユウの疲労を考慮した海野は年内の休養を決め、その復帰初戦が、1月の今週に行われる『AJCC』なのである。
「翔平、クロテンはホムラと併せだ、ホムラはもうコースに入ってるから連れてけ」
「はい」
佐山から海野の指示内容を聞いた翔平が、引き綱を引いてクロテンを誘導する。
今さらにはなるが、クロテンというのは、クロダテンユウのニックネームで、命名者は担当の翔平――若者らしい、ありがちな短縮化名である。
「……ありゃ!、クロテン行っちゃったの?」
ズボンのベルトに騎手用ムチを差し、ヘルメットを被った小柄な男が駆け足で近づいて来る。
それに気付いた海野は、キャップを外して深く頭を下げる。
「関さん、今回はどうも……」
やって来た男は関昴、今週の『AJCC』でクロテンの手綱を握る男である。
「そんな他人行儀な態度はやめてよ~!、ヨッシ~」
関は、とても騎乗依頼を受けた騎手とは思えないフランクな態度で(※自分で付けたセンスが古いあだ名まで使い)海野に話しかける。
「いや、こういう事はちゃんとしないと……」
「相変わらず堅いねぇ~、それに俺は乗せてもらってる立場なんだから逆じゃん」
そう言いながら関はヘルメットを外し――
「海野センセイ!、よろしくお願いしますっ!」
――と、先生の部分を誇張し、ニタニタと笑いながら関は頭を下げる。
海野も苦笑いを浮かべ、もう一度頭を下げると、笑いを堪えられなくなった関は――
「……やっぱダメだわ~っ!、ヨッシー相手にこういう事するのは、慣れないから笑っちまう!」
――と、大きく破顔をして、こめかみを掻いた。
実は……この二人は同い年で、古くからの親友でもある。
出会いは20年前、二人が21歳の頃。
海野は当時大学生、競馬界とはまったく無縁の学生生活を送っていた。
関はもちろんプロの騎手、当時の成績はというと……既に『若き天才』の異名も付いた人気騎手で、GⅠ競争の勝ち鞍も持つトップジョッキーの一人だった。
では、なぜそんな二人が親友同士となったのか?
きっかけは海野が通っていた大学の学園祭。
イベントの企画を任された海野が立ち上げたのは『同世代のトップランナー』という講演企画。
普通なら、お笑いライブやアイドルのコンサートなどを主催するのが定番だが生真面目でお堅い性格の海野らしい企画である。
そのゲストに呼ばれたのが……関だった。
まだ触れていなかったが、海野の風貌は細面のシュッとした顔に、度のキツい眼鏡を掛けたいかにもな理系青年(※当時)
しかし、スポーツは好きで、大学の専攻は『運動学』――学術面から、アスリートをサポートする仕事に就くのが目標だった。
まったく競馬の事を知らない海野が、競馬サークルに所属していた友人にこの企画を話したところ「ぜひ!!!」とキャスティングを懇願されたのが『若き天才』関昴。
関はちょうど、落馬事故で怪我を負い、休養を余儀なくされていた時期で――
「ヒマだし……大学って所も行ってみたいから、良いですよ」
――と、出演を快諾。
騎手……=競馬には、ギャンブル要素へ向けてのマイナスイメージが根強いため、イベントに反対する声も少なからず有ったが、『若き天才』の登場でイベントは大盛況。
そのイベントの打ち上げで、海野と関はなぜか意気投合……連絡先を交換し、友人関係が始まった。
関と知り合った海野は競馬に興味を持ち始める……それは『ギャンブル』としてではなく『研究対象』として。
『どうすれば馬券が当たるか?』でもなく、サラブレッドという『アスリート』への興味だ。
海野は大学卒業後、一念発起して後の師匠にあたる高橋照正厩舎の門を叩き、一介の厩務員からホースマンとして歩み始めた。
関との交友は競馬の世界に入ってからも続いていたのだが、海野が調教師試験を突破し、いざ開業となった頃…
「ヨッシー!、俺はヨッシーの依頼は受けないよっ!」
――と、試験の合格を祝う席で関はそう宣言した。
「自分で言うのもアレだが、俺は日本一の騎手!、開業したての新米調教師の管理馬に、友達のよしみで乗ってやれるほど、ヒマじゃあないからさっ!」
突然、毒づいた関の態度に宴の空気は一瞬凍りついたが、海野はこれを自分への叱咤と受け取り…
「解ったよ、僕も関君には頼まないつもりだった。
関のおかげで勝ってるって、言われたくはなかったからねっ!」
――と返し、お互いニヤリと笑い合った。
それからは挨拶を交わすくらいだけで疎遠になっていたのだが、海野がAJCCで依頼する騎手を模索していた時『クロテン乗せて~!』と甘えるような話し方で、関が突然営業を掛けてきた。
『石原さんとは、もう話済んでるからさ』と、しっかりと根回しまでしての営業――海野も、別に断る理由が無く、二つ返事で交渉成立。
クロテンが、二人の『雪解け』の仲立ちをする形となった。
「じゃあ、お願いします」
「りょ~かい!、あっ!、ヨッシー!」
「なんです?」
「あとでコーヒー、奢ってね」
関はぶらぶらと手を振り、調教コースへと歩いて行く。
「年に数億稼ぐ人がたかるって……これこそ立場が違うだろう」
関のセリフに、海野は呆れた顔で笑う。
「……笑ったら、目が覚めたね」
海野は『――さて』とつぶやいて、調教スタンドへと向かった。
太陽が昇り始めた頃、全ての調教を終えた海野と関は厩舎事務所に戻っていた。
「……美味い」
海野から出されたコーヒーを、一口飲んだ関は思わず唸った。
「教授の所のヤツらは何にも買わないケチ集団だって、コーヒースタンドのおばちゃんがぼやいてたけど……事務所に、こんなんあったら買わないわな」
関は妙に納得した顔で、二口めを啜る。
クロテンの調教を終えて戻った関は、無言のまま手を出したのだが……海野も無言でついて来いのジェスチャーをして、事務所へと誘った。
コーヒーは海野の唯一の趣味だ。
朝に弱い海野は目を覚ますために飲み始めただけだったのだが、持ち前の探求心が刺激されて、豆のブレンドからお湯の温度、終には沸かす水にもこだわり出し、とても素人とは思えない域に達していた。
海野自身も『廃業したら、喫茶店のマスターかな……?』と考えた事もあるくらいだ。
ちなみに関が言った教授というのは、トレセン内での海野のあだ名である。
大学出身で、理詰めの調教を施す海野のイメージから、そう呼ばれている。
同時に博識という良い意味も含まれてはいるが……インテリの学者風情が勝てるものかよという皮肉も含まれている。
「関君」
自分の分のコーヒーを淹れた海野が、関に語りかける。
「ウチのに乗るって事は、菊での2着で認めてくれた……って、事なのかい?」
関は首を縦にも横にも振らず、ジッと海野の目を見る。
「半分……いんや、3分の1は正解かな?」
「3分の1?」
「ああ、クロテンとは何度もレースでやり合ってるから、自力は解ってるつもり……勝てる馬が空いてるっていうから営業掛けた、これが一つ。
もう一つは――俺、個人のクロテンへの興味かな?、アイツのじぃちゃんとは浅くない縁があるしね。
残りの一つがヨッシーに対する評価だな♪、『GⅠ2着まで来たかぁ~!』っていう親心だね」
関はニヤッと、ちょっと嬉しそうに破顔を見せる。
「僕の事はそれだけか……それでも、ようやく1歩前進したんだね」
海野もニヤリと笑い、自分のコーヒーに口をつける。
「……ところで、クロテンの祖父?
ああ――乗っていたんだったね、クロダスティーヴ」
クロダスティーヴ、とはクロテンの母の父にあたる元競争馬だ。
クロダスティーヴはかつて、菊花賞と年末のグランプリ『有馬記念』を制した名馬である。
関と海野が出会う前、関がそれこそ『若き天才』と呼ばれる様になったきっかけとなったのが、クロダスティーヴとの活躍であった。
関が初めて、GⅠ競争に勝利したのが、スティーヴを駆った有馬記念
有馬記念は、競馬に興味が薄い人間でもレースの名前ぐらいは聞いた事があるという、日本の年末の風物詩とも言える国民的行事の一つ。
それを20歳そこそこの若い騎手が、勝利したとなれば……『若き~』の異名が付くのも当然だろう。
その関の快挙の後、引退したクロダスティーヴは種牡馬となったが、引退の5年後、10歳の若さで天に召されてしまった。
残した産駒たちの成績はパッとせず、現在生き残っているのはクロテンの母、クロダメグミを含めて10頭に満たない。
期待していたスティーヴの早すぎる死……この不幸な出来事から、クロダ牧場の凋落が始まったと言えるかもしれない。
「レースの時は、毛色も闘争心剥き出しの性格もよく似てて、懐かしく思って乗りたかったんだけど……ちょっと不思議なヤツだよね」
それが調教に関が乗った感想だった。
調教パートナー、シマノホムラを追いかけたが、最終的には2馬身の遅れ……お世辞にも、好調とは誇れない内容だった。
「全然、追いかける気が感じられないし、スティーヴとは大違いっ!、レースでやりあった時の凄みはゼロっ!、大丈夫かぁ?、アレ」
「そうなんだよぉ……いつも、あんな調子。
でも、レースでは走るんだよね~……『レース以外では走らないからなっ!』と、宣言されている様な馬なんだ。
マスコミの人に、コメント求められても答えようが無いんだよぉ……」
「理詰めの教授にも、解明出来ないモノがある……か」
関は残り少なくなったカップの中身を、名残惜しそうにクッと喉元にあおった。
「戻りました」
一仕事を終えた佐山たちが、事務所に戻ってきた。
「謙さん、お先にいただいてました」
関は空になったカップを頭上に挙げ、コーヒーをアピールする。
「お~!、昴!、来てたのかぁ~」
佐山はジャンパーを脱ぎながら、関に会釈する。
「関君、もう一杯どうだい?」
「いや、いいや、そろそろ行くよ。
テレビのインタビューも入ってるし……人気者は忙しいんでね」
関はそう言って、おもむろに立ち上がる。
「御馳走様……二杯目は、勝った後の月曜日に貰うよ」
クロテンの状態に不安を覗かせながらも、自信タップリな表情を見せて、関は事務所から出て行った。
「一流騎手は、ああいう余裕が無いとダメか……」
ジャンパーをロッカーに掛けながら二人のやり取りを聞いていた佐山が、誰にも聞かれない小さい声でそうつぶやいた。
「謙さんもみんなも、コーヒー淹れてあるからね」
「テキ、いつもすいませんね、ホントは新人の翔平が用意しとくもんなんだが……」
「いえいえ、コーヒーは自分で淹れないと納得いかないからねぇ」
「テキは腰が低過ぎですよ、もうちょっとビシッとしてやらないと翔平には良くないですよ」
佐山の言葉に、ハッっとした海野が辺りを見回す。
「そういえば……翔平君は?」
「あいつ……クロテンの前に座ってたからいつものヤツじゃないですか?」
シマノホムラの厩務員、松村義男がそう答える。
「昨日、例の人から手紙、届いてたみたいですから……」
「そうか……なら、もうちょっとかかるね」
彼らが隠語の様に言う例の人とは……クロテンが入厩してから月に一通、必ずファンレターを送ってくる人物の事である。
『馬にファンレター?(笑)』
――と、思う方もいるだろうが、これは案外、不思議な事ではない。
中には、ニンジン1箱を送ってきて『食べさせてあげてください』という熱心なファンは、現実にも存在する。
しかし、そういう対象になるのは大概、大レースで活躍した有名馬だ。
まだ、デビューすらしていなかったクロテンへ、定期的に届けられるファンレターは非常に珍しかった。
しかも、差出人の名前も無く、同じ柄の封筒に入り、同じ筆跡で送られてくるという、実に奇妙なファンレターだったので、海野厩舎の面々はすっかり覚えてしまったのだ。
翔平は初めて担当した馬へのファンレターに感動し、届いたファンレターをクロテンに読んで聞かせる熱の入れ様。
クロテンが菊花賞で2着に好走してからファンレターは倍増したが、翔平にとって『例の人』からの手紙は特別だった。
「翔平のあの純心……いつまで続くかね?」
佐山は、少し皮肉っぽくそう呟き、コーヒーに口をつける。
「良いじゃないですか、あれが"若さ"ですよ」
佐山のつぶやきを聞いていた海野は、笑みを浮かべてそう返答した。
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